95話 竜の襲来
「無責任な! あなたの娘のことですよっ!!」
夜の闇を切り裂くように、マリアは絶叫を上げた。上げて後悔したが、それはもう後の祭りだった。
ジオもそしてシエスタも、驚きで目と口を大きく開いた。その口から意味のある言葉が漏れることはない。
「――っ、忘れなさい」
走って立ち去ろうとするマリアの肩をジオが掴み、振り返らせる。
「お、お前が産んだのか?」
これ以上ないぐらいに動揺しながら問いかけるジオの鼻っつらに、マリアの渾身の右ストレートが叩き込まれる。
さすがのジオも、空気を読んでそれは甘んじて受け止めた。
「ふざけんなこのバカ!! 年齢違うだろうがそんなことも覚えてないのかこっちは忘れようにも忘れられないんだぞこのほんっと喧嘩バカがっ!!!!」
敬語も忘れてマリアは全力で怒鳴りつける。
それはもう十年以上昔の話で、才気溢れる少女が守護都市で迎えたピンチを寡黙な無頼漢に助けられて、当時は夢見がちだった少女はあっさりと恋に落ちて、初めてを捧げればその相手と結ばれるなんて妄想をして、来るもの拒まずな無頼漢にキズモノにされた挙句、特に責任とかとってもらえなかった、マリアの黒歴史だった。
だが今はそんなことより大事な話が置き去りにされていたし、もっと大事な問題も差し迫っていた。
「お、落ち着いてください。その、ケイ・マージネルさんがジオさんのお子さんということは、その、マージネル家の子では無いのですか?」
ジオの浮名は以前に調べたのでシエスタも知っている。
当時はジオに抱かれる事は娼婦たちにとってステータスのような扱いだったようで、さらにはジオが金回りのいい人物ということで毎夜毎晩違う娼婦とベッドを共にしていたという。
これはジオを教育した人物が女遊びが大好きで、金があるのに女を買わないのは間違いだなんて適当な事を教え込んで、ジオが律儀にそれを実践していたなどという裏話もあった。
とにかくそんな娼婦の中の誰かが身ごもり、堕胎することもできずに産み落とし、英雄の血を引き才能に恵まれているだろうその子をマージネル家が引き取ったと言うなら、理解できた。
風聞はよくないだろうが、それぐらいなら理解できる話だった。
そしてシエスタはそうではないと、もっとひどい話だから恨まれているのだと、薄々気づいていた。
「――っ、お嬢様は紛れもなくマージネル家の人間です。ご当主様の末娘の血を引く」
「マージネル家の……たしか、ご主人とともに若くして病死した」
「ええ。余計な勘ぐりをされぬよう病死として――、喋りすぎてますね。まあ噂ですよ。そういう噂があるんです」
マリアはそう言って皮肉げに笑った。
シエスタはしかしそんなマリアを気に止めず、自らの思考に没頭する。
シエスタの頭によぎったのはスノウ・スナイクの顔だ。
守護都市に昔からある噂ということは、あのスノウも当然知っているはずだった。
そしてあの耳と手回しの早さを考えれば、情報管制室の室長がマージネル家に話を持ちかけることやケイが産業都市に降りることも知らないはずがない。
それなのにあえてセージを守護都市から下ろして、産業都市で強制労働に就かせた。
マージネル家とジオの間に諍いを起こさせ、互いの力を削ぐことが目的だろうか。普通に考えれば、それが正解のように思える。
だが同時に、そんな単純な理由ではないように思えた。
それだけのために、少なくないリスクを犯してまで短時間で通信魔法の利用許可証をセージのためにとってこないと。
そう、あれは紛れもなくセージへのプレゼントだった。
シエスタがセージを庇おうとしていたのを知っていたのだから、あれがなくてもこの状況には持ってこれたはずだ。
わざわざ労力をかけてまで恩を着せたからには、スノウはここでセージが消えると思っていない。
皇剣を筆頭にしたマージネル家に狙われて、まだ先があると想定しているのか。あるいは何かしらの助けを用意して重ねて恩を売るつもりか。
どちらも違う。おそらく違う。
そこまで肩入れするならシエスタにマージネル家の企みを教えるだけで良い。それでマージネル家の力は削げるし、セージの安全も確保できる。
そこまで考えて、シエスタははっとした。
「……安全を確保する気がなかった。いや、これを切り抜けられるかどうか見たかった?」
根拠は不確かなものだったが、それが正解だとシエスタは思った。
スノウはセージを、いや、セージとそれを支える私たちを試したのだと。
「……何を考えているか知りませんが、そういう事です。
お嬢様も騙されてあなたの子を殺したと後になって知れば、ひどく後悔するでしょう。今回、私は味方です。信じなさいジオレイン」
マリアはジオの目をしっかりと見据えて、力強くそう言い切った。
その言葉は信じられる。だが同時にジオは、己が行かなければならないと感じてもいた。
そう感じたのなら迷いはない。ジオはいつだって己の直感を信じて生きてきた。
だが今回は、初めて迷った。
セージを助けるなら己が行かなければならないと、直感が囁いていた。
そして同時に、ここを離れてはいけないと、ここを離れては大事なものを失ってしまうと、直感が囁いていた。
ジオは迷った。迷って、ここに残ることを選んだ。
セージより家にいる子たちを大事に思ったわけではない。そこに優劣はない。
マリアがなんとか出来ると思ったわけではない。彼女だけでは足りないと変わらずジオの勘は警鐘を鳴らしている。
それでもセージならば、ジオの予感を超えられるかもしれないと、信用があった。
「――お前では無理だな」
割って入った声は第三者のものだった。
「ラウド」
「ラウド?」
ジオとマリアがそう口にする。その男はラウド・スナイクだった。
「ふん。目上の人間を呼び捨てか。相変わらずだな貴様ら。
竜が来た。狙いは産業都市だ。これから守護都市は産業都市に逆戻りだな。よその救援要請には上級や皇剣が対応することになるが、俺はこれから先行して産業都市に向かう。
連れて行ってやってもいいぞ、ジオレイン」
「……わかった、頼む」
「ジオさん!?」
「この家はどうするつもりですか、ジオレイン!!」
マリアの心配に、ラウドは鼻で笑って返す。
「俺がここにいるのはスノウの差金だ。備えに抜かりはない」
そう言われたマリアが周囲に意識を向ければ、この家の周囲に手練の人間が配置されているのが察知できた。
簡単に気配が察知できたのは、おそらく示威行為だからだろう。これを見て攻めようなどと思う馬鹿は守護都市にはそんなにいない。
「名目上は共生派の嫌疑がかかったセイジェンドを待ち伏せしていると言うことだったかな。まあ建前はどうでもいいだろう。
シエスタ・トート、弟からの伝言だ。
君は期待はずれだった、だそうだ。良かったな」
嫌味ではなく本心からラウドはそう言った。
人当たりが良く優しい名家の当主様と評判の、弟の性格の歪み方をよく知っているからこそ、マークを外されて良かったなと本心から言ったのだった。
言われたシエスタには嫌味にしか聞こえなかったが。
「ま、待って、待ちなさい。それなら私も連れて行ってください」
「邪魔だ。後から来い」
「なんですって、二人で何をする気ですかこのホモ」
「ホモじゃない、ぶっ殺すぞ。お前は振り落とされるだろう」
「――俺が押さえつけよう。それなら問題ないだろう」
「……ちっ。俺の技には干渉するなよ。
準備をしている。その間に得物をもってこい。丸腰で竜とやり合うつもりでもないだろう」
ラウドはそう言って剣を抜く。一本ではなく、二本でもない。都合六本の剣をラウドは腰から抜いた。もっともその手に握っているのは一本だけで、残りの五本は宙に浮いている。
ラウドは手に持った豪奢な剣を指揮棒のように振り、浮いた剣の内、四本を地べたに突き刺す。庭に突き刺さった四本の剣が囲みを作り、囲まれたその内側には陣ができた。
ラウドが剣を振るえば、突き刺さった剣がその地面ごと浮き上がった。形状は一メートル四方の正方形で角にはラウドの剣が突き刺さっている。厚みは五十センチほどで、剣の切っ先が僅かに突き抜けていた。
「……ふむ、こんなものだな」
「待たせたな」
ちょうど良いタイミングで刀を腰に差したジオが戻ってきて、ラウドは乗れと顎でしゃくった。
ジオは一瞬だけえぐれた庭――余談ではあるが、庭ではフットサルなどで、預かっている子供たちがよく走り回るので天然の芝が敷かれていた。ちなみにその費用はセージの稼ぎによるものである――を見たあと、宙に浮く芝生に飛び乗った。
続いてマリアが、そのジオに向けて手を伸ばした。エスコートしろという意味だったが、ジオにはわからなかった。
「もう行くぞ」
「――チっ」
それなりに急いでいるラウドに促されて、マリアも渋々とジオのとなりに飛び乗った。マリアとしては不本意だが、スペースが狭いのでジオと体を密着させることになる。
とてもとても不本意だが、これは仕方のないことだった。
「では、行くぞ」
ラウドは面倒くさそうな顔になって、宙に浮いた剣の最後の一本の腹に飛び乗った。
「ああ、頼む。子供らにはセージを迎えに行ったと言ってくれ。明日には帰ると」
「あ、はい。分かりました」
呆気に取られているシエスタに挨拶を残して、三名は産業都市を目指して飛び去り、あっという間に見えなくなった。
ほどなくして、戻ってこないシエスタと姿のないジオを探しに来たアベルがやって来た。
「シェス――、父さんはどこに……シェス?」
「え? ええ。セージさんを助けに。詳しいことはみんなにも説明するから、家の中に戻りましょう」
努めて自然体を装ったシエスタに、アベルは心配そうな視線を向けるが、口に出しては何も言わなかった。
私がしっかりしていればこうはならなかった。
仕方がないから今回は助けてあげる。
期待はずれってことは、そういう事なんでしょ、スナイク家のご当主様。
シエスタ・トートは優秀な官僚であり、派閥争いの激しい政庁都市でどこの派閥に属することもなく、その身一つで出世をしてきた。
そこには当人の優秀さもあったが、同時に争いごとを好まず風見鶏のように周囲からの悪感情をいなしてきた性格の部分も強く関係していた。
「……別に争いたいわけじゃあないけど、この家が標的になってるって言うなら、その期待に応えてあげようじゃない」
少しだけ前を歩くアベルには聞こえないほどの小さな声で、そのアベルの今はまだ自分よりも小さく、しかし筋肉質で逞しい背中を見ながら、シエスタはそう呟いた。