84話 セージの才覚
馬鹿な親父が馬鹿なことやってやがる。
妹を肩車して散歩するみたいにこっちに向かってきてやがる。馬鹿じゃねぇのマジで馬鹿じゃねぇの。こっち来るのは助かるかもだけど妹は置いてこいよ。ケシアナさんとかグライさんとか信用できる人はいただろう。
ああもうっ、位置はわかってるんだから通信魔法で――って、やばっ!!
親父の方を気にしながらも、ハイオーク・ロードへの注意は怠ってはいなかった。だが周囲のハイオークに対してはいくらか注意がおろそかになっていた。それでも普通に切りかかられたのなら反応できただろう。
実際、そいつの攻撃自体は回避した。
そいつは大きな槌を思い切り振り下ろした。強い魔力が込められたそれは受けに回るには威力が強すぎる。だから体をひねって避けた。
この時点でハイオーク・ロードの位置はちゃんと頭に入っていた。これまでと同じように襲いかかってきたこいつを盾にするように回り込めばいい。
私はこの瞬間、通信魔法を起動する時間を確保するための位置取りを探してすらいた。一秒あれば魔法は使える。移動する親父の位置ははっきりとマークし続けていた。
馬鹿げた話だ。
私は中級下位のようやく一人前に認められたばかりの下っ端で、七歳の身体能力に劣る小さな子供で、この状況は紛れもない死地だというのに、心のどこかで軽く見ていた。
この場において、もう死ぬかも知れない人間は私だけになった。
別に自分が死んでいいと思っているわけではないけれど、それでもどこか緊張の糸が緩んでしまっていた。
振り下ろされた大槌には大きな魔力が込められており、それが空振って大地を打った瞬間、その魔力が地面を揺らした。
足で地面を踏み叩いて大地を揺らす闘魔術があるが、そのハイオークがやったのはそれだった。
ハイオークの背後をとり傷を付け、包囲の中にある僅かな一瞬の間を確保できる場所に移動する。そして同時に通信の魔法を発動する。そう動くという未来予想図が私の頭の中に有って、それを覆された。
一瞬、間が空く。
疾空が使える私にとって、本来足場を崩されることはそう大きなデメリットではなかったのに、そうなるという予想がなかったせいでその一瞬、対応が遅れた。
魔力感知による行動予測に頼りきりだったせいで、不測の事態への反射が不十分だった。
つまるところはこの危地で、私は集中力を欠いていた。
私の体勢が乱れたその隙を、ハイオーク・ロードは見逃さなかった。
ハイオークの行動は打ち合わせたものではなかったのだろう。だからこそハイオーク・ロードにばかり気を割いていた私はこの状況を予測できず、しかしハイオーク・ロードは予測していないこの好機を逃さず最速の攻撃を繰り出してきた。
突き出されるハルバードは私の左肩を容易く突き破った。ハイオーク・ロードはそのままハルバードを操って私を地面に叩きつけ、ダメ押しとばかりに私の頭蓋をその汚い足で踏みにじる。
ぐしゃりと、私の意識は潰れて消えた。
◇◇◇◇◇◇
瞬間、視界が白く迫った。
死んだ。殺された。痛みは無くともその瞬間の恐怖が心臓をかき乱して訴えた。
私の体勢は乱れている。先程回避したハイオークの大槌が大地を揺らし足場を崩されたからだ。
そしてハイオーク・ロードがハルバードを突き出してくる。知っている。そうなると知っている。
いつもの魔力感知による行動予測じゃあない。確実にやつが、どの軌道でハルバードを繰り出してくるか、どうやって私の肩を抉るか、鮮明に覚えている。
私は咄嗟に迎え撃った。
避けるという手もあった。だが迎え撃った。早鐘を打つ心臓からは自分のものとはわずかに違う、それでいて確かに私の意のままに操れる膨大な魔力が溢れ出していた。
これを使えと、心臓が訴えかけていた。
溢れ出して周囲に溶けようとする魔力を手の内の短槍に繋ぎ留め、身体活性も最大レベルに増幅させる。疾空で足場の不利を誤魔化すのも忘れない。
繰り出したのはいつぞやにクライスさんから受けた刺突技。クライスさんのオリジナル闘魔術〈貫散らし〉。
ハイオーク・ロードのハルバードと、私の短槍が交差する。
ハイオーク・ロードの魔力が勝利を確信し愉悦を感じていると教える。
動き出しははっきりとハイオーク・ロードの方が早かった。しかし動きそのものは私が速い。そしてリーチはハイオーク・ロードに優位があった。
だがハイオーク・ロードがこの一突きにタイミングを逃さぬ動き出しの早さを求めたのに対し、私はこの一突きに威力を求めた。
そこには魔力制御の練度の差もあっただろう。
ハイオーク・ロードは身体能力において私に大きく優っていたが、魔力制御においては大きく劣っていた。
魔力を溜めるという行為の価値が、私とハイオーク・ロードでははっきりと違っていた。
そこには気持ちの問題もあっただろう。
ハイオーク・ロードは焦りを感じていた。周囲を配下で取り囲み援護を受け手ずから相手をしているのに、たった一人の子供を殺せないことに。
ロード種に率いられている魔物は狂気に染まり心を乱すことはないが、率いているロードだけは別だ。
守護都市と産業都市に攻め入る直前で、私のような子供にいつまでも足止めを食らっているハイオーク・ロードの心境は魔力感知を抜きにしても察するに容易い。
対して私はこれから起こることに確信を持っていた。正確には、ハイオーク・ロードの繰り出す一撃の速度と威力をよく知っていた。
だからこそ、初動が遅れることを焦りなく許すことができた。
短槍とハルバートが交錯する瞬間、私は貫散らしを発動させる。
そこから生まれる風圧は威力で劣るハイオーク・ロードのハルバードを持ち手の腕ごと吹き飛ばし、その体を開かせる。
あらわになった無防備なハイオーク・ロードの体に、私は短槍を突き立てる。
ハイオークロードが直前で体をひねったため急所こそ外したものの、貫散らしの力は突き刺した右肩を抉り、そして吹き飛ばした。
横合いに吹き飛んだハイオーク・ロードは、右腕を根元から失った。
追撃をかけたいところではあったが、今の一撃には全力を込めた。そのせいで次の動作が僅かに遅れ、ハイオーク・ロードが声を上げるのを許してしまった。
「ブゴォォおおおお!!!!」
その叫び声に、ハイオークたちはすぐさま対応した。周囲を囲っていたハイオークたちが突進してくる。
逃げる隙間もない密集隊形からの突撃を、私は上に飛んで回避する。360度を囲んでいたわけだから私が回避したことでお互いがぶつかり合う。
私を殺そうと勢いをつけてぶつかり合ったわけだから、そのダメージが軽いわけがない。だがその自滅覚悟の攻撃は私に回避の一手を強制させ、その間にハイオーク・ロードは部下たちに支えられて避難を開始した。
私は空中での跳躍を重ねて適当な木の枝に立ち、逃げるハイオーク・ロードめがけて中級の魔法を繰り出す。
範囲型の魔法はしかし、身を盾にしたハイオークたちに阻まれてハイオーク・ロードにまで届かなかった。
次弾を繰り出そうとしたが、しかし私が立つ枝はその木ごとハイオークに切り倒されることになって阻まれた。そのまま自由落下に任せて降りては的になるので、疾空を利用して適切な位置に降り立つ。
ハイオーク・ロードをここで仕留めるのは無理そうだ。
どうしてもというのならそれは刺し違える形になるだろう。その手段は選べない。私が死ぬことができないのならば、私が死ぬことにデス子の思惑が絡んでいるのなら、そんな手段は選べない。
私の体には魔力が満ち溢れている。最初に感じた違和感はどこにもなく、この身体を満たしているのは完全に私の魔力だ。
そしてその量は、下手をすればこの戦いを始めた時よりも多い。気味が悪い。
「さて、逃げてもいい状況だね」
周囲に居るハイオークたちを見渡す。
先ほどの命令はハイオーク・ロードを守れというものなのだろう。私がハイオーク・ロードを追う動きを見せないからどうすればいいのか迷っているのか、それとも片腕を失う大怪我が理由でロードとしての力が薄れているのだろうか。
ハイオークたちからはわずかながらに私への恐怖が感じられた。
逃げてもいい状況というのは嘘ではない。親父の位置はわかっている。こちらもこれから逃げるといえば引き返すだろう。
棒立ちになっている私に、ハイオークの一匹がしびれを切らして襲いかかってきた。私は最初の時のようにその足を短槍で突いて地面に縫い付けて、腰元から鉈を抜いてその首を切り落とした。
ハイオークたちからまた恐怖を感じる。それに突き動かされたように次々とハイオーク達が私に襲いかかってきた。
この場からは逃げて、守護都市に戻ってからちゃんとした防衛設備のある場所で味方と一緒に迎え撃つのが正しいとはわかっている。
繰り出されてくる剣や槍や斧や矢に魔法。
それら全てをくぐり抜けながら、私の振るう鉈が鮮血を吹き上げる。
その度にハイオークたちから恐怖が湧き上がり、私の心は何とも言えない思いで満たされる。
これらはただの八つ当たりだ。
心底嫌いな相手に助けられたという屈辱。
差し出された手を咄嗟にとってしまったこの自己嫌悪。
ハイオークたちには悪いが、憂さ晴らしに付き合ってもらおう。
「まあ、なんだ。
君たちは私を殺したんだから、私に殺されても文句はないよね」
◆◆◆◆◆◆
天才という人間が誰にもできないような困難を成し遂げる人物だとしたら、それはジオレイン・ベルーガーのことである。
秀才という人物が多くの失敗を経て天才に並びうる結果を出せるのだとしたら、それはセイジェンド・ブレイドホームのことである。
セージは前世においても今生においても優秀と称される人物であり、時には天才と評価されてきた。
だがセージはジオに比べて決定的に劣る部分があった。
決して乗り越えられないであろう問題に直面したとき、例えば100回やれば99回死ぬような場面に遭遇したとき、ジオはたった一度の幸運を最初に引き寄せることができるが、セージにはそれができない。
だが例えばそれが致命的な問題でなかったとしたら、その先に何度も迎える問題だったとしたら、セージはその問題に学習して最適な対応をする。
将来的に天才に匹敵するだけの対応力を身につけられる。
幼少期からジオに優る成長を見せていると評価されているセージだが、本来の性質から言えば逆となる。
セージがジオと同等の実力を身に付けるには数倍の経験とそのための時間が必要だからだ。
ただ前世の記憶という優位性に加え、身体に封じられた仮神の瞳が試練を招いてセージに最適な成長を促し、また致命的な失敗すら経験させる破格の加護を授け、さらにはその身体に人間の成長限界を超える可能性まで与えた。
その結果が天才児と評される今のセージだが、その真骨頂は前世より受け継いでいる高い学習能力にこそあった。
中級下位の魔物であるハイオークは、同じく中級下位のギルドメンバーであるセージにとって本来は容易いと言っていい相手ではない。
扱える闘魔術の種類こそ少ないものの、タフでパワーのあるハイオークに囲まれているこの状況は、本来ならば絶体絶命といってもいいような危地であった。
だがセージは死なない。
これが同等ランクの初見の魔物ならば何度となくデス子の世話になっただろうが、ハイオークとは二年前に存分な経験を得ていた。
その経験が、ランクの上では同等のハイオークをはっきりと格下の魔物へと変えていた。
囲まれた中でも最小の動きで自身に襲いかかってくる無数の凶器を躱し、手に持った鉈で撫でるように斬りつけていく。
今のセージにタフなハイオークを一撃で仕留めるのは難しい。急所を狙えば可能ではあったが、そこにこだわれば動きにいくつかのロスが生まれると理解していた。
そうして傷つけ動きの鈍ったハイオークをなるべく周囲に置くことで、360度囲まれたこの状況の危険度をわずかに下げる。
やっているのはそれだけではない、ハイオークを殺す際にはなるべく死体が積み重なるようにすることで、足場を悪くし体重のあるハイオークにとっての不利を築き、また小柄なその身を隠しやすくする遮蔽物とした。
セージを囲うハイオークの数は一向に減る気配はない。
それも当然だ。
百のハイオークを屠り、ハイオークロードを撤退に追い込み、さらに追加で百のハイオークを惨殺しても、未だにハイオークの総数は八割近くが健在だ。
さらに継戦能力に難のあるセージは身体能力の向上も、鉈にこめる魔力の量も最小に抑え、さらには命綱であるフットワークすらも最小の機動に抑えて体力のロスを防いでいた。
そのせいで最適な対応を重ねても単位時間あたりの殺傷数も抑えられていた。
それらは全て、これ以上の仮初の死を迎えることなくこの状況を乗り越えるために。
デス子が与える試練に背を向けることなく。
デス子が与える救済の異能に頼ることなく。
この戦いを生き延びると決めたがゆえの行動だった。
この戦いがセージ一人のものだったのならば戦い抜けただろう。
しかし極限の集中下でハイオークを殺し続けたセージの頭の中からは、大事な一つのことが抜け落ちていた。
傷だらけになって撒き散らされるハイオークの鮮血を、避ける余裕もなく浴び続けたセージは忘れていた。
戦う力を失い倒れるハイオークに、嗤いながら止めを刺すセージは、その瞬間まで忘れていた。
その顔を、その瞳を見るまで、忘れていた。
「ひっ!!」
ジオと、そして妹であるセルビアが他ならぬセージの身を案じてやってきているのを。