70話 親父の本気
見慣れた姿がギルドの正面扉から入ってくるのを見つけて、カウンターに座るアリスは手を振った。
妖精種の美貌に花も恥じらう笑顔を浮かべて出迎えたのは、セージだった。その美しい笑顔はしかし、続いて現れた巨躯に目を止めて驚きに変わった。
その人物は竜殺しの英雄ジオレイン・ベルーガー。
初めてあった時、アリスは彼を敵視した。その時の彼は暴力的な感情を発し、それが向かう先に幼い少年がいたのが直接の原因だが、それだけが原因では無かった。
彼が身にまとう雰囲気は一族が大切に守る巫女や、この国の皇剣と呼ばれる契約者たちに似た特別なものだったが、彼らとははっきりと違う血生臭さがあった。
その時のアリスとしては、伝説上の悪魔を見た気分だった。その身に纏う剣呑で恐ろしい雰囲気の理由が、彼が神に最も近しい魔物を狩り、その身に呪いを受けたからだと程無くして知った。
竜、あるいは龍と呼ばれる魔物、もしくは聖獣。
本来ならば人間では決して敵わず、傷をつける事も出来ない。
そんな人知を超えた怪物を殺した彼は、呪いに苛まれながらも半ば人間を辞めていた。
まあもっとも怖かったのは最初だけで、仲良くなってしまえば子煩悩で大らかな良いお父さんだった。
もっともその子煩悩な父親は口うるさい兄が尊敬する数少ない人間で、職場であるギルドとしても最大限敬わなければならない特級の名誉ギルドメンバー様で、一族が友好関係を結んでいるこの国の英雄様だ。
アリスはすぐに腰を浮かせてジオを出迎えに行こうとするが、面倒くさそうに座っていろとジオに手振りで示され、仕方なく出迎えまではせず、しかし直立した姿勢でジオとセージが受付まで歩いて来るのを待った。
「ええと、楽にしてください。所詮は引退して酒浸りの駄目親父なので、そんなに畏まる必要な――いったぁ!!」
ゴチンっ、とセージの頭にジオの拳骨が落とされた。
「邪魔が入らん広い場所が欲しくてな。近場のエリアをセージに振ってくれ」
「え、ええと、一応、規則で魔物を狩るつもりが無いのならエリアを割り振るわけには……」
「魔物は狩る。それでいいだろう。気にするな」
「あ、はい……」
はっきりとそう言われてしまうと、アリスとしてはそう強く反対できない。だって相手は英雄だから。
そんな風に思っていたら、今度はセージがジオの向う脛を蹴っ飛ばした。
「良いわけないでしょ。ただでさえ僕は親父の七光り扱いされてるのに、一緒に出掛けたら何言われるかわからないじゃないか」
「知るか。言わせておけ。そこらの有象無象ぐらい、どうとでも出来るようにはなっただろうが」
「僕は理知的でクールな文明人なんだよ。親父みたいに暴力でコミュニケーションとるような野蛮人じゃないから、そもそも喧嘩なんてしたくないんだよ」
それから二人はしばらく言いあう……のではなく、一方的にセージがジオを怒って、ジオはわかったわかったと言われるままになっていた。
「……あの、それで、お二人は何がしたいんですか?」
「ん? ああ。そろそろ十年だからな。今のうちにセージに本気を見せておこうと思ってな」
ジオが十年といった意味を理解できずにセージは首をかしげるが、アリスはピンとくるものがあった。
「前回の襲撃から九年が経っていますからね。たしかにそろそろ新たな竜がやってきてもおかしくは無いですね」
竜の襲撃は、おおよそ十年周期で起きる。とは言っても正確に十年では無く、統計の中央値がそう示しているだけで、早い時は五年ほどで新たな竜が襲ってきたこともあるし、二十年近く平和が続いたこともある。
もっともそれがジオの本気をセージに見せる事と、どうつながるかはわからなかった。
「竜……。その口ぶりだと、僕がアクシデントでエンカウントしそうだからやめて欲しいんだけど。口に出した事って、引き寄せられるんだからね」
「お前なら早めに見つけて逃げるくらいはできるだろう。
……俺も竜とは二度ほど縁があったが、どっちも得難い好敵手だった。いずれお前も渇きを覚えたら、竜が来るのが待ち遠しくなるぞ」
アリスはその言葉を聞いて、背筋が寒くなった。
ジオの良いお父さんの顔の奥から、受付の仕事をしていて見慣れた顔が覗いた。そしてそれは今まで見たどのギルドメンバーよりも血に飢えた、戦闘狂の顔だった。
「――まあ、そんな日が来ないとは言わないけどね。それ以前に僕がそこまで強くなれる保証なんてないと思うんだけど……」
「馬鹿め。俺がお前のころにはハンターよりも弱かったぞ」
「馬鹿って何だよ、馬鹿親父のくせに」
「お前はだから俺の事を馬鹿馬鹿言い過ぎだぞ」
そしてまたしばらく言い争うのを聞いて、アリスの中に生まれた恐怖心は薄らいでいった。
「……あの、それでどうするんですか?」
どうせ今の時間帯は暇なのでしばらくは仲の良い親子の掛け合いを眺め、落ち着いたところでそう声をかけた。
答えを返したのはセージだった。
「――ああ、すいません。仕事として邪魔の入らないエリアに占拠するとご迷惑にもなるでしょうし、いろいろと疑いもかけられると思うので、今日使われることのないエリアを教えてもらえませんか?
もちろん、出来ればでいいので」
「……うーん。守護都市のすぐ近くにはあんまり魔物が寄ってこないから、ギルドで指定する予定のないエリアは教えられるけど、そこに騎士団の人とかがいる可能性はあるよ? あと、もしその手の人たちと鉢合わせても、私が教えたって言わないんなら教えてあげられるけど」
「もちろんそれで構わないです。
守護都市が止まったので散歩がてら普通に親父と出かけたって事にします――ん?
初めっからそれで良かったんじゃないの? 僕と親父なら周りに人がいないところなんて割と簡単に見つけられるだろうし」
「探すのが面倒臭い」
そうして再び始まる親子漫才を気楽な気持ちで眺める。業務妨害と言えば業務妨害だが、アリスとしては良い暇つぶしだった。
ちなみにそんなアリスの様子を、上司が険しい表情で影から見ていたのだが、それはセージたちとは関係のない話だった。
◆◆◆◆◆◆
はい。やって来ました守護都市のお外の荒野です。
アリスさんから聞いた話を参考にふらふらっと歩いて二十分ほど。砂と岩山だけが広がる殺風景なところに出てきました。
いつもの荒野です。
「それじゃあ、始めるが、周りに魔物がいるのはわかっているか?」
「うん。コウヤオオカミが八匹、息をひそめてこっちを伺ってるね」
親父はうむと頷いた。
「まあ雑魚だからあれは放っておいていい。生きていれば、後で殺そう」
……ん? なんか親父が変な事を言ったぞ。
まあ親父は英雄だから変な事を言うのはおかしくないんだけど。
「俺が竜の呪いでまともに戦えないのは知っているな」
「えーと、うん。まあ、一応は。今まで見た中で親父より強い人も魔物もみた事が無いけど、そういう設定なのは知ってる」
「……そうだな。正直なところ、正面からの殴り合いなら皇剣でも大概の奴には勝てるだろうし、魔物で勝てないのも竜を除けばそう多くは無い。
だが、それでも本気に戦う事は、もう出来ん」
私が茶化したことにやや機嫌を悪くした親父だったが、のっかってくることは無く静かにそう言った。
私は頭をかいた。
どうも子供として扱われているせいで、気持ちまで幼くなっているようだ。無神経に心の傷をえぐる気はなかったんだけどな。
「だから一振りだ。一振りだけ全力を見せる。気持ちを高め、よく見ておけ。
……殺すつもりは無論ないが、死ぬなよ」
「はい」
不穏な言葉が混じったけど、それだけ大事なものを見せようという気持ちは伝わってくる。
私も気持ちを切り替え、全身に魔力をみなぎらせて親父の一挙手一投足に集中した。
親父がふっと、笑った。
「では、行くぞ」
そうして親父の魔力が暴虐の圧力となって、私の全身を襲った。
周囲に満ちた親父の魔力は深海の水圧のように私を圧迫する。息が苦しい。空気はそこらにあるのに、圧迫された肺は身じろぐことも難しくそれを取り込めない。
全身に増幅した魔力をみなぎらせ、しっかりと踏ん張っても立っているのがやっとだった。
ふと、魔力感知が離れたところにいるコウヤオオカミたちの圧死を見届けた。
なるほど、本気になるために外に出るなんて言い出すわけだ。
周囲数百メートルは親父の結界。
この中でまともに動けるのはそれこそ親父と同等の皇剣や竜のような、特別な領域に踏み込んだ規格外の化け物だけであり、私はこの中では満足に息をすることもできない弱者に過ぎない。
いいや、それにしたって親父が敵意を向けてこないからこそであり、全身にのしかかる膨大な圧力が鋭利な殺気に変われば、それだけで私の心臓は微塵に切り刻まれる。
本気を出されているなど、ひどい思い上がりだ。
ギルドメンバーとして多少は世間から認められたとしても、私は親父に遥か及ばない子供に過ぎなかった。
おかしくなって嗤い浮かび、その分だけ集中力が失われて私は膝をついた。
私にも意地がある。
必死になって魔力を高め、足に力を入れ、屈した分の背を精一杯に伸ばした。
「――ふっ。では、よく見ておけ」
親父は大剣を構えた。かつて竜を殺した際に、芯が折れて武器としては使い物にならなくなって長らく家で眠っていたものだ。
親父に言われるまでも無く、私は魔力感知は親父の全身をくまなく精査している。
それまで抑圧していた魔力を全身にみなぎらせ、さらには制御することも無く周囲に漏らしている。
そう、周囲に満ちているのはただ漏らされた気配分の魔力でしかないのだ。
大気に散ってなお圧倒的な猛威を振るう魔力は特別な魔法でも闘魔術でもなく、普通の人間が周囲に漏らす気配でしかない。
そして親父の中では、意図的に肉体を強化し高めるために統制された魔力が猛りを上げている。
「――ぁ」
呼吸もままならない中、声を出した。
感動できるものがそこにあった。大自然が生み出す絶景に心が奪われるように、私はその光景に見入ってしまったのだ。
鍛え抜かれた凶器である日本刀が美術品として高い価値を持つように、人間では到達できない遥かな高みに踏み込んだ親父には、粗野でありながら万人を平伏させるだけの美しさを持っていた。
年配のギルドメンバーたちはきっとこの姿を見た事があるからこそ、引退して長くが過ぎた今もなお親父を尊敬しているのだろう。
だが戦士の究極を体現する者として、親父にはひどい欠陥があった。
膝から下の右足に、魔力が通っていなかった。
いまならはっきりとわかる。
黒い靄が、深い憎悪で編まれた呪いが親父を喰おうとして、膝で押しとどめられている。
普段は動かぬそれは、親父の魔力が活性化したことで息を吹き返したかのように胎動する。
どぱんっと、親父の右足が爆ぜた。
親父は膝から下を失い、しかしバランスを崩すことなく、大剣を振り上げた姿のままその場に立ち続けている。
竜が残したという呪いは、じんわりと膝まで上ってきた。
私に動揺は無い。そうなるだろうと途中からわかっていた。いかに鍛えられた肉体とはいえ、親父は全身に力を込めている。
その負荷にただ鍛えただけの、何の強化もされていない人間の身体が耐えられる訳がない。
普段の親父は、右足に負荷がかからない様に魔力や体の動きをうまくコントロールしていたのだ。
私はその事を気に留めず、親父の姿を見続けた。
見逃してはいけない物を、親父は私に見せようとしているのだから。
そうして親父は大剣を、振り抜いた。