66話 セージとクライス
洞窟の中には、生きているゴブリンは一匹もいなかった。
居住区やトイレ、倉庫に当たるだろう洞窟内の全ての小部屋を調べたが、見つけたのは死体だけだった。
「……あの、セージさんは確か今日の朝方に村を出ているはずですよね。
その、村からいなくなった時間は、私たちの出発より二時間早い程度でしたよね」
レストがクライスにそう言うと、タチアナがハッとしたような表情になった。
「二時間あれば、これくらい中級なら出来るぞ」
クライスはこともなげにそう言った。
ただそれは正確には、中級のギルド・メンバーであれば二時間あればここまで来て、同じだけの数の魔物を狩れるという意味だ。
管制による案内も無く短時間でゴブリン・ロードの巣を発見し、その内部の魔物を丁寧に殺しつくすなんてのは中級でも上位のパーティーで無ければ無理だろう。
クライスにしてもかつてのパーティーと一緒ならともかく、単独では無理だ。
だがクライスは訓練生たちにそこまで教えるつもりはなかった。
最近、クライスの所にセージの事を聞きたがるおかしな輩がよく現れるようになった。
おそらくはスカウトの類だろうし、あのジオレインの息子におかしなことはしないだろうが、警戒するに越したことは無い。
クライスが二人を連れて洞窟の奥へと進むと、大きな部屋に辿り着いた。
その部屋は一変して綺麗に整えられていた。ゴブリンの死骸は無く、異臭も無い。
ここが最奥だと、クライスは直感した。
警戒しながら部屋の奥へと進むと、横たえられた女性を見つけた。
ゴブリンに乱暴されていたのだろうその女性はしかし目立った汚れも無く、見覚えのあるローブにくるまれて寝息を立てていた。
女の周辺には食べかけの雑炊らしき物が入った椀があった。また人骨が集まっており、そのいくつかは整えられていたが、まだ多くが散らばったままだった。
「弔おうとして、邪魔が入ったのか」
探しに行こうと思ったが、その前にやるべきことを済ませるべきだと、そう判断した。
「レスト、タチアナ。周辺の警戒をしとけ」
クライスはそう指示を出して、女に手を伸ばした。やるなら苦しまぬように一瞬で終わらせてやるべきだ。
だがセージがこれからも使うであろうローブに女の血をつけたくはなかった。
クライスは女を起こし、その身をくるんでいたローブをはぎ取った。
あらわになった女の左の乳房に、クライスはゆっくりと槍の穂先を合わせた。
眠っている女の顔は頬がこけ、目元には隈が浮かんでいる。
ギリっ、とクライスは知らずに奥歯をかみしめた。
悪いのは共生派のテロリストどもだ。クライスはただ仕事を遂行しているだけだ。
だが同時に、この女が何か悪い事をしたのかとも思ってしまう。
人を殺すのは初めてでは無い。こういう汚れ仕事も何度か経験している。
パーティーでやるときはリーダーの責務として、必ず自分の手で哀れな被害者の命を奪ってきた。
決してこういう事をするのが初めてでは無いのに、頭の中で命がけで他人を助ける子供の姿がちらついて、最後の踏ん切りがつかないでいる。
「……ぁ」
小さな声が漏れた。横たわる女の口からだった。
そしてその瞼が薄らぼんやりと開かれ、クライスをその瞳に捉える。
焦点の合わないその目を見て、ようやくクライスは心が決まった。
「悪いな、死んでくれ」
楽にしてやるとは、口が裂けても言えなかった。
クライスの心を後押ししたのは、この女をセージと関わらせたくないというエゴだったのだから。
そしてクライスが槍を持つ手に力を入れた瞬間、稲妻のように大きな魔力が降ってきた。
降りてきたその少年は、抱えていた男を地べたに放ってから、クライスを真っ直ぐに見つめた。
「殺さないんですか?」
「――っ!!」
殺すつもりだった。その決意は出来ていた。
だが目の前にセージが現れて、それは簡単に揺らいだ。
「……ああ、そいつは共生派のテロリストだな。タチアナ、セージを連れて洞窟を出てろ」
「持って帰ってくれるって言うのは助かりますけど、洞窟を出るのは事が終わってからですね。それ、殺すんでしょう?」
セージに近づこうとしたタチアナが、その言葉に足を止めた。タチアナの顔にははっきりと恐怖が浮かんでいた。
クライスにしてもそうだった。わざわざ介抱をしたのであろう女を、セージはまるで魔物を処理するように殺すと口にした。
「迷っているようですし、私がやりましょうか」
そう言ってセージは鉈を抜いて、殺気を乗せた魔力を女に向けた。
それはそう強いものでは無かったが、殺気を受けた女は体を起こして、セージから距離をとろうと僅かに後ずさった。
咄嗟にクライスはセージと女の間に割って入り、女をセージの殺気から庇った。かすかにセージが笑ったような気がした。
「どういうつもりですか。その人を殺すのはお仕事でしょう? 生かして帰ったって、引き取り手はまず見つからない。社会復帰できるかどうかもわからない。そんな人を税金で養うなんてこの国はしてないでしょう。後腐れ無いように、さっさと殺しましょう」
「どうしたセージっ! さっきからおかしいぞ!」
「私がおかしい? おかしいのはクライスさんでしょう?
その女の人はここで死ぬべきだ。ほら、他の女の人だってたくさん死んでる」
セージは高らかにそう言って、散らばっている人骨を手の平で示した。
「その人が生きているのはただの偶然です。意味なんてない。ゴブリンを生んで、お国の害になったそれらと同じように殺してやるのが、……ああ。
せめてもの優しさってものじゃないですか」
「違う! セージっ、それは違う! 生き残ったことに意味が無いなんて言うな。ゴブリンに殺されるのを、俺たちが殺すのを、同じように言うな!!」
セージの嗤いを含んだ声に、とっさにクライスは反発する。
「へぇ。それじゃあクライスさんは、その女の人を生かして連れて帰るつもりなんですね」
「――っ、それはっ!!」
ふんっ、とセージははっきりと鼻で笑い。
「へたれが」
そう、クライスを嘲笑った。
「なっ」
セージはいつもクライスに尊敬と親愛の念を向けていた。
いや初対面の時はそうでもなかったが、それ以降はずっとそうだった。
そのセージから見下すような目で見られ、侮蔑の言葉を浴びせられ、クライスは足元から世界の全てが崩れ落ちるような喪失感と痛みを味わった。
「…………………………………、…………………、……………ああと、うん。
……で、出来ないってんなら私がやります。そこをどいてください」
クライスからさりげなく目を逸らしたセージがそう言っても、クライスは何の反応もしなかった。
セージはいくらか待った後、クライスの横を通り抜けようとして、突き出された槍に行く手を遮られた。
「……どういうつもりですか」
「お前にはやらせねえ」
セージは愉快気に笑った。
「それでどうするって言うんですか?」
「うるせえな。今、考えてる!!」
「話になりませんね。この人は私が殺します。通してください」
セージは槍を押しのけようとするが、びくともしない。仕方ないと言いたげな態度で飛び越えようとするが、くるりと回転させた槍に迎え撃たれて、後ろに吹き飛ばされた。
セージに痛みは無い。それはただ吹き飛ばすための一撃で、セージが着地に失敗するほどの勢いもなかった。
二人の力量と付き合いを考えれば、それは攻撃とは呼べない一撃だった。
「……ふんっ。面倒ですね。では守護都市流にこうしましょうか。私が勝てばその人は私の好きにします、クライスさんが勝ったらその人を助けてあげればいい。
その時は私も手伝いますよ」
「お、おい」
セージの魔力が膨れ上がり、闘志となってクライスに叩きつけられる。
その手には鉈が握られており、クライスの手には槍がある。クライスはとっさに槍を手放そうとしたが、それは負けを認める行為だ。
「ああ。心配しなくてもここは守護都市じゃないんですから、殺さない程度に手加減してあげますよ」
「あ゛?」
クライスが発した怒気にも気づかぬそぶりで、セージは肩をすくめた。
それならいいでしょと、気遣うような態度だった。
「――なめんなよ、ガキが。調子にのってんじゃねえよ!!」
明確な怒りの声がクライスから発せられ、それが戦いの開始の合図となった。