445話 pros and cons of DT
しばらく下品な話が続きます。苦手な方はご注意ください。
「そう言えば、カインってまだ童貞なんだろ」
「ぶふっ‼」
カインは思わず口に含んでいた昼食を吹き出し、ふざけた問いかけの主にぶつけた。
問いかけの主ことミケルは、気にした様子もなく汚れた顔面をナプキンで拭いた。
場所はいつもの定食屋。休日に偶然出会ったミケルに、たまには男同士で飯でもどうだと誘われたのがきっかけだ。
この時ミケルは断られれば一年間も勝手にパーティーを抜け迷惑をかけた事を持ち出そうと思っていたが、そもそもカインは親睦を深めることに抵抗がない。
二つ返事で了承し、二人は共に昼食をとっていた。
「いきなりなんだよ」
他愛ない雑談で昼食を終えたごろにいきなり飛び出した猥談に、カインは顔を赤くして口を尖らせた。
「変に恥ずかしがるなよ。男同士、秘密の話の定番だぞ。
別に16なら珍しくもないけど、お前なら相手に困るわけないだろ。娼婦を買う金だってある。だから何か理由でもあるのかと思ってな」
「別に、理由なんて……」
戦士の次に娼婦が多い守護都市では珍しく、カインは貞操観念が強い方だった。
それには託児の利用者の多くがシングルマザーの娼婦であったことで、マギーやセルビアの将来を心配したセージが仕入れた童話などの影響を受けたことが原因だった。幼いころから触れてきた物語の中では、男と女はいつだって心を交わしてから体を重ねていた。
さらには実兄のアベルが初恋の女性と結ばれて仲睦まじく将来を誓い合っていることも関係している。
はっきりと言ってしまえば、カインは兄のように好きな人と初めての時を迎えたいと思っていた。
「……無えよ」
そしてそれを正直に口から吐き出すのは、カインにとって恥ずかしい事だった。
「そうかそうか」
ミケルはそう言ってエールを呷った。
彼が育った芸術都市は、この国では守護都市に次いで性産業に理解のある都市だ。色恋の手管もまた、一つの芸として捉えられている。
そんな都市で育ったミケルにとって、思春期真っ只中なカインの繊細な感情の機微を理解できぬはずがない。これもまた芸に通じるものだからだ。
「わかるよ。
でもちょっと考えてみろよ。お前が初めて剣を振るった時、どうだった?
分かりにくいなら立ち合いや、実戦でもいいぞ。
思い出せよ。その時は楽しくて仕方なかっただろうが、振り返って思ってみればたどたどしい初心者だったろ」
「そりゃあ、まあ……。でもそれはそういうもんだろ」
「ああ、そういうもんだ。
だが、好きな女との初めてがそんなんでいいのか?」
言われて、カインの全身に稲妻が走った。
確かにその通りだ。
カインは好きな人とだけ関係を持ちたいと思っているが、周囲は決してそうではない。託児所や商会で顔なじみの娼婦はもとより、ギルドで仲良くなった戦士たちは男も女も休みには娼館で羽目を外してハメていると、くだらない話をしている。
身近な人でいえば父親もそうだ。今は歳のせいか落ち着いているが、昔は狩りが終われば女を抱いていたと聞く。
カインだって仕事終わりに娼館の客引きを断って、そんなんじゃ父親みたいになれないぞとヤジを飛ばされたことがある。
その時は何を馬鹿なとも思ったが、確かに経験がないという事は技術がないという事だ。
今のままでは親父のような女にもてる男にはなれないかもしれない。
そして経験豊富な男があふれる守護都市で、ハンター以下の初心者だと好きな人にバレたなら。
自分は子供っぽい拘りで、一生ものの恥をかくところだった。
そんな想像が、カインの顔を恥ずかしさ以上の恐怖で青くさせた。
「それは、確かにそうだな」
小さな声で首肯したカインに、ミケルは訳知り顔で話をつづけた。
「だろう。
それにな。剣には鞘が必要なように、戦士には安心して休める時間が必要なのさ」
「いきなり何言ってんだ」
「いいから聞けって」
ミケルは苦笑して話を続ける。
「狩りの時だって常に戦闘状態みたいに緊張しっぱなしじゃ疲れるだろ。一歩手前にとどめなきゃ一日の仕事なんて持ちやしない。
そしてそれは普段の生活でも言える。いや、比重でいえばこっちの方が大事なくらいだ。お前は、いやお前だけじゃ無いんだが、ともかくお前は戦いの事ばかり考えすぎだ。
それじゃあいざって時に本当の力は出せない」
「まあ、言いたいことは分かるけどよ。休みはちゃんととってるぞ」
そうじゃなきゃ今のこの馬鹿話をしている時間は何なんだと、カインはつまらなそうに言う。
「そこが童貞の浅はかな所だ」
訳知り顔でそう言ったミケルの顔に、カインはコップの中の冷や水を浴びせた。
「……ふっ」
ミケルはナプキンを手に取り、気取った態度で顔を拭いた。
そんな彼に、カインは淡々と告げる。
「次はぶん殴る」
「気を付けよう。
僕が言っているのは休みの質だ。
本当の意味で戦いを忘れ、安らげる時間を持つべきだ。
そのためには、むしろ戦いを知らない女の中に剣を収めたほうがいい。
そうすることで、お前はもう一段上の男になれる。そう、大人の男にな」
「む」
言われたことを正しいと思ったわけではない。だがしかしカインも男だ。そう言った事に興味がないわけではないし、同年代の道場仲間とその手の話をすることもある。
恋人と、あるいはバイト代をためてプロの女性と経験を積んだ同年代の話に、差を付けられたと感じたことはある。
剣の腕では勝っていてるのに彼らから受けるその敗北感の正体を、明確に言葉にされた気分だった。
「ちょっと説教臭くなったな。まだ日も高いし、家に帰るには早いだろ。少し考えてみろよ。
ああ、失礼なことを言った詫び代わりだ。ここの代金は払っておくよ」
ミケルはそう言って席を立ち、会計を済ませて出て行った。
カインは考える。
言われた通り適当な女で経験を積んで、ミケルの言い分が正しいかどうかを確かめるべきかと。
間違っていたとしても何が失われるわけではない。少なくとも男女の営みがどういうものかを体験して、それで弱くなるということは無いだろう。休養としての価値が低ければその一回だけでやめればいいだけの話だ。
商会でのバイトの経験から娼館の利用料は大雑把に知っている。一度や二度、利用したとてギルドの稼ぎからすればそう大した出費ではない。少なくとも仕事道具を整えることに影響はない。
だから一度、経験してみてもいい。
そう理屈では結論が出ていた。
そして女性と結ばれることを意識すれば、下半身の方はゴールに向かって早く走りだそうと情熱を訴えていた。
でも何かが引っかかる。
何かがブレーキをかけている。
臆病なカインの心が、失われるものはあるのだと理屈ではない所で訴えていた。
そしてそんな自分の心の内と向き合っていたカインは見逃した。
会計の際、ミケルが食堂の看板娘から釣銭と一緒に一枚のチケットを貰っていたことを。
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当たり前のことだが、一口に守護都市の娼館と言ってもその何では娼館ごとに差がある。
まともな壁も扉も無い雑な仕切りだけの大きな部屋で何組もの男女が各々に楽しんでいる安宿もあれば、完全個室で一対一の営みを楽しめる高級宿もある。
そして高級宿の中には交わるだけでなく食事や酒に話術や芸で客人をもてなし、最高の一晩を与える娼館もあった。
ミケルに手渡されたチケットとはそんな最高級娼館の一つ〈ラナンキュラー〉の紹介券だった。
芸術を愛し、色恋を愛する彼はその最高級娼館にずっと行きたいと思っていた。
だがそれは簡単な事ではない。
金を積んだだけで利用できるような店ではない。守護都市上級の戦士ですらも、それらの店を利用するには十分な手順を踏む必要があるのだ。
勢いのある注目株とはいえ、結成間もなく実績も乏しい中級パーティーの若輩リーダーでは受付で門前払いされるのが落ちだった。
そしてもし受付を通ったとしても、そんなところの嬢を買うには稼ぎも足りない。順調に稼いでいるのでいくらかの借金をすれば払えなくも無いだろうが、さすがにそこまでは出来ない。
なぜならこの町の大半の娼館と金貸しはポピー商会と、引いてはブレイドホームと繋がっているからだ。
女遊びのために借金までしたと知られれば、仲間たちからどんな目で見られるかは想像に容易かった。
だがこの紹介チケットがあれば割引サービスが受けられる。正確に言えば紹介した側――今回はこの大衆食堂――が残りの半額を払ってくれる。
より詳しく解説すれば、同じ商会の最高級娼館に今後太客になってくれるであろう前途有望な若者を紹介しつつ、紹介した若者には超高額な席料の半額を払ってやってまで良い思いをさせたと恩を売り、大衆食堂の方でも常連客になってもらい商会で囲い込もうという施策だった。
ともあれそんな事情は関係がない。
ミケルはそれまで命がけで貯めたお金で憧れだった最高級娼館の一晩を過ごせる。夢にまで見たそのひと時を迎えられることに比べれば、誰かの策謀とか、仲間の純潔が散ることなどどうでもいい事なのだ。
ミケルは意気揚々と、大衆食堂を後にした。
そうしてミケルとの取引を終えた大衆食堂の看板娘は舌なめずりをする狩人のようなぎらついた眼光でカインを見た。
彼女は以前にカインが貞操を守っていることを、初めての時を初恋の人と迎えたいと青臭くも愛おしい事を考えていることを、偶然にも知った。
その時は鼻血が出そうなほどに興奮し、その夜はベッドのシーツを濡らしたものだが、一晩明けて許せないと思った。
カインはいつかきっと英雄と呼ばれるような戦士になる。
その隣に自分がいられないのは仕方ないかもしれない。
その隣には同じような天才の少女がいるのかもしれない。
それはきっと仕方のない事なのだ。
でも、でもそれはすごく嫌だった。
だからせめていつかそんな最低な日が来た時に、私で童貞を捨てたくせにと言えるようになりたかった。
そのためのお膳立てとして、ミケルを買収した。彼はウエイトレスの要望通り、戦う事しか頭にない生粋の戦士に女を意識させた。
欲を言えばもうちょっと恋愛方面に寄せて意識させて欲しかったし、もっと言えば戦士の伴侶には家庭的な女性が良いとアピールして欲しかったが、そこは仕方ない。
ミケルも戦士であり、金で女を買うような脳筋なのだ。
期待のし過ぎは良くない。
招待券を手配してくれたミルク代表とは共犯関係にあった。
彼女は息子同然のカインが童貞のままで、好意を向けるケイに対してもろくなアプローチが出来ていないことを憂いていた。
なので手っ取り早く一発やってしまえばうじうじした童貞ムーブも卒業できるだろうし、初めての相手にころっと心変わりすればそれはそれで面白いと思っていた。
そんな訳でウエイトレスの童貞食いもとい、いじらしい恋心に協力したのだった。
ウエイトレスはうじうじと悩むカインを見定め、ゆっくりとにじり寄る。
ちなみにウエイトレスも経験はないが、カインよりも年上で常連客の娼婦のお姉さま方からしっかりと予習を済ませているので何の不安も抱いていなかった。
根拠らしい根拠はないが、完璧にカインを誘惑しリードできると胸に自信を抱いていた。彼女もまた、立派な守護都市民なのだ。
頬を火照らせ、息遣いの乱れたウエイトレスがカインの側までやって来た。
カインもさすがに自分の世界から抜け出し、顔を上げて挙動不審なウエイトレスに顔を向ける。
「どうかした――あ」
そしてウエイトレス越しに見知った顔が店内に入ってくるのを見つけて、声を上げた。
不意の来客。
こんな時に来なくても。
カインになんと声をかけようか、それとも何も言わずに店の二階にある自室まで連れ込もうか、頭の中をそんな考えでいっぱいにしていたウエイトレスは見当違いの怒りを抱いてその人物に振り向く。
もちろん睨んだりはせずに営業スマイルを浮かべて。
ただちょっとだけそれはいつもより引きつったものだったが、ともかく笑顔を浮かべてその人物を見て、笑顔は凍り付いた。
いつもだったら見惚れているだろう。
羨むほどに美しい黒い髪と黒い瞳の整った顔立ち。
しかして安っぽい嫉妬なんて吹き飛ばすほど、その美しさは特別だった。
だからいつもだったら見惚れてしまっていた。
だがこの時は、女として戦うと決めたこの時だけは、見惚れるよりも先に打ちひしがれてしまった。
「どうかしましたか?」
その人物は、涼やかな声音でウエイトレスを心配した。
「あ、いえ。お席にどうぞ……」
ウエイトレスは意気消沈して仕事を始めた。