444話 頼りになるのはやっぱり大人だよね
セルビアがペナルティのランニングを終え、顛末書と反省文を書き終えた頃には、陽は傾いて夕暮れ時となっていた。
家に帰るころには完全に陽が落ちて夜になってしまうだろう。
戦士として一人前の実力を身に付けていても、セルビアはまだ12歳の少女だ。一人での登下校は許されていても、完全に日が暮れる前に帰ることをきつく言い渡されている。
破れば叱られるし、よりきついルールを課されて自由が奪われるし、そして兄はきっと……。
反省文を書くうちにどんよりと落ち込んだ思考は、考えたくもない想像をさせてくる。
「セルビア君」
そんなセルビアの俯いていた顔を、かけられた声が上げる。
見ればグライ教頭が提出した反省文を読み終えて、優しい顔で彼女を見ていた。
「これなら良いでしょう。反省文の書き方にも慣れてきましたね」
褒められているのか判断に迷うことを言われて、セルビアはぎこちない愛想笑いを浮かべた。
「ははっ、少し意地悪な物言いでしたね。失礼。
それでは帰りましょうか。家まで送っていきますよ」
「え、そんな」
「気にしないでください。こんな時間まで生徒を拘束しておいて一人で帰らせては、それこそ私がセージに叱られてしまいます。
それでも教師か、とね」
グライ教頭がそう笑いかけるのにつられて、セルビアも自然に笑顔がこぼれた。
なお、セルビアよりもよほど厳しい家で育てられているデボラは一足先に反省文を書き上げ、セルビアにごめんねと言い捨てて迎えの家人と共に帰っていた。
◆◆◆◆◆◆
妹が帰ってこない。
兄さんはちょっと遅くなっているだけだと言い、次兄さんはたまに遊んで帰ってくるぐらい許せよなんて言っているが、こういった所から非行は始まってしまうのだ。
非情な二人と違って優しい兄である私は妹を心から心配し、その動向に注視しているのだ。
「いや、そんなに心配なら迎えに行けばいいだろ」
うるさい事を言う次兄さんだ。それが出来ればここで悩んでいない。そんな事より可愛い弟がこんなに悩んでいるのだから、お前の目に捻じ込んでも全く痛くない可愛い妹を迎えに行くと言えないのか。
「ほら、昨日デリカシーのないこと言って怒られたから……」
「うっ……」
兄さんの容赦無い言葉に心臓をえぐられる。人の心の痛みが分からない人にデリカシーがないと言われるなんて、遺憾の意を表明する所存です。あと兄さんでも次兄さんでもどっちでもいいから早く迎えに行けと思います。
「ああ、人の夢を馬鹿にしたんだから怒られて当然だろ」
「馬鹿になんてしてないよ、ただもうちょっと視野を広げてって言いたかっただけだよ」
「いや、それをお前が言ったのが問題なんだけどね」
言い返したところ、兄さんに変なことを言われた。次兄さんもうんうんと頷いている。実家なのにアウェイか。ここは前世か。いや違ったわ。前世はもっとガチの敵地だ。
余計なことを考えて浮かぶ私の苦虫顔に、兄さんはあきれ顔で返してくる。
「……セージの気持ちも分からなくはないんだけど、でもセルビアはとっくに腹を決めてるだろ。他の誰でもなくお前がわかってくれないならそりゃあ拗ねもするさ」
……そうか。
そうか。
いや、まあ、最近は兄離れできてると思ったんだが、そうか。
ふふふ。
妹は仕方のないブラコンだなぁ。
「うわ、きもっ」
「黙ってろカイン。ここでまた拗ねられたら面倒くさいんだから」
……兄二人が私をどう思っているかはよく分かった。
とりあえず晩御飯はピリ辛な中華をメインにするとして、次兄さんはどうしてくれようか……。
◆◆◆◆◆◆
「それで、何か悩んでいたのではありませんか」
「え?」
帰り道、不意にそんなことを言われてセルビアはグライ教頭を見た。
「いえ、随分と考え込んでいる様子でしたから」
言われて、二人で歩いているのにおしゃべりをしていないなと思った。
「考え事の邪魔をしてしまったのなら申し訳ありません」
悪いとは思っていない様子でそう言われて、セルビアは少しだけ口角を上げた。
「教頭先生はすごいね」
「なにがでしょう?」
「そうやってすぐに気づいて、声がかけられるから。
私は人の気持ちなんて全然わかんないし、すぐ自分のことで頭がすぐにいっぱいになっちゃう」
セルビアがそう言うと、グライ教頭はふむと頷いた。
「なるほど、自覚はあったのですね」
セルビアは魔力は込めずに、しかし思いっきりグライ教頭の背を叩いた。ばちんと、小気味のよい音が響いた。
「ああ、痛いですね。教師への暴力は止めてください。
しかし、セルビア君はそのままで良いと思いますよ。
もちろん、人の事を気に掛けなくていいと言っているのではありません。
分からないと思って、知りたいと願って、悩んで工夫して、技術というものはそうして身についていくものです」
技術と言われて、セルビアは少し嫌な気持ちになった。
教頭先生が気に掛けてくれているのは優しさや愛情ではなく、ただの教師としての義務だと言われたような気がした。
「おや、これは言葉を間違えましたかね。
人を思いやるというのは自然と備わっているものも確かにあります。ですが人の心は難しい。心の赴くままに接しては、いたずらに傷つけてしまうことが間々あります。
老いた私には年若い君たちの本当の気持ちなど、実を言うと全く分からないのです。
言ってしまえば、私の優しさとは経験に培った技術です。君たちに少しでも道を示せるようにと、悩み苦しみながら育んできた私の技術です」
グライ教頭は誇らしげにそう言った。
強くなりたいと心から思って剣を振るう。
繰り返す中で、悩み考え、工夫する。
そうしてより上手く振るえるようになった剣の技術に、心が宿っていないかと言えばそんなことは無い。
グライ教頭の技術、その根底には確かに生徒への愛と優しさが宿っているのだとセルビアは理解した。
「それに、最初から上手くやれていたわけでもありません。
例えばケイお嬢様ですが、あの方はセルビア君によく似ています。君も聞いたことはあるでしょう」
「はい」
幼いうちから才能を発揮し、大人顔負けの実力を身に付け実戦も経験している。
その事で純粋な賞賛を耳にすることもあれば、あんな兄がいなければ新世代の寵児と持て囃されただろうにと、そんな的外れな哀れみも耳に入ってくる。
正直なところ、セルビアはケイに才能で及ばないと感じている。誰に何を言われたわけではないが、ただなんとなく、なんとなく確信をもってそれを実感していた。
そんな自分が過去のケイと同格だと見なされるのは、兄の背中を追いかけているからだ。
きっとかつてのケイは強くなることへの憧れはあっても、それは自分ほど強く身を焦がすものではなかった。
それが才能の差を埋めてくれた。
だから兄を疎むことは無い。
ただ自分より早く生まれて、自分より才能に溢れるケイが、今の兄の隣に立っているのを少しだけ羨むだけだ。
だってこのまま今のケイに追いつくことが出来ても、その時はケイも、そして兄も、二人でずっと先に行っているだろうから。
そしてそんな嫉妬がどうでもよくなるくらい、兄と同じくらい強くて自分を可愛がってくれる姉のようなケイがセルビアは大好きだった。
本当の姉は口うるさいし。才能はあるのに喧嘩してくれないし。
「剣の才能だけでなく、まっすぐな性格もよく似ていますよ。
ただそんなお嬢様には、セルビア君ほど素直に話を聞いてもらえません。
それはお嬢様のせいではなく、私の技術が未熟だったのです。
若いという事は、ああいえ、当時の私はもう若くはありませんでしたが、未熟であるという事は成長できるという事ですよ」
グライ教頭はそこで言葉を切って、セルビアを撫でた。
「君は優しい子です。そしてもっと優しくなりたいのでしょう。
だからなれますよ」
「……なんか、前にもこんな事がありましたね」
セルビアはいつかの控室でのことを思い出して笑った。
そうして、グライ教頭の最初の問いに答える。
「……兄は、本当は私に興味がないのかなって」
セルビアの独白に、グライ教頭は目を丸くして言葉を失った。
長い教師人生をもってしても、そんな悩みが出てくるとは思いもしなかった。本当に子供の悩みは分からないんものだと、優しい目をしてそう思った。
「だって、わかってくれないんです。皇翼って書いてるのに。
私、それを書いたとき喜んでくれると思ってたんです。
だって翼なら、二人いたほうがいいから。
それなのに、他の将来も考えろって。そもそも私が一緒に精霊様に仕えるなんて思いもしないで。
私が何のために頑張ってるか全然わかってないんだ」
「あー……」
堰を切ったように零れ落ちる愚痴は、デボラに零したものよりずっと素直なものだった。
才能あふれる皇翼の妹で、当人も十歳で新人戦四位となったセルビアは学校でちょっとしたヒーローだった。
そんな羨望に応えるように、そして他ならぬ双子の兄に恥ずかしくないように、セルビアは学校では強い戦士でいようと振舞っていた。
だがグライ教頭しかいない今、その見栄を脱ぎ去ることができていた。
「だいたい今日にしたって喧嘩したあとなんだから迎えに来てくれたっていいじゃない。
いつも私ちゃんと門限守ってるのに、陽が暮れて帰ってないのに心配なんかしてないし、あの馬鹿アニキ」
「ああ、いや、喧嘩した後だからこそ気まずいんじゃ……」
「なんですか」
「いえ、なんでもありません」
グライ教頭は少し遠い目をしたが、セルビアは気付かずに続けた。
「だいたいアニキは女の人にいい顔しすぎなんだ。嫌なら嫌ってはっきり言って、言ってわからないならぶん殴ればいいのに。
良い所のお坊ちゃんみたいにへらへらして、そんなのが格好いいと思ってるんです」
「いや、別にそんなことは……」
「なんですか」
「いえ、なんでもありません」
グライ教頭は目頭を押さえた。若かりし頃の妻に、目をかけて熱心に指導していた女学生(11歳)との浮気を疑われた時のことが脳裏によぎっていた。
具体的に言えば、その時の妻の剣幕と圧力を思い出した。その時の経験がここで何を言っても無駄だと悟らせていた。
「男の人って普段スケベな事なんて口にしないのが一番むっつりでスケベなんでしょ。うちのアニキがそうじゃない。
ちっちゃいころから娼館ばっかり行って、一緒に遊んでくれなくて。
最近は勉強できる中央のエリートの子に鼻の下伸ばして。
この前なんて珍しく一緒に買い物に行ったのに、その子を見つけたとたん大事な用があるからなんて言って、その子の後をつけ始めたんですよ。声をかける訳でもなくて。
まるで変態じゃないですか」
「ああ、それは……」
セージに好きな女の子へ声をかけられないような初心さは無いだろうから、本当に仕事でかつ何かしらの機密が関わっているのだろう。
そう察したグライ教頭は遮られる前に言葉を噤んだ。
下手なことを言ってセルビアが機密が本当かどうか確かめだしてはセージに迷惑がかかるし、何よりセルビアの怒気が本当に怖かった。
「アベルもそうだけど、なんで勉強馬鹿って勉強できる女の人を好きになるんですか。喧嘩強い女の子の方がずっとすごいじゃないですか。
それなのに――」
グライ教頭は天を仰いだ。
いつかのアールのように、歳をとってから後悔しないように若いうちから色んな可能性を考えなさい。
今回の経緯を知ったグライ教頭はそんな話をしようと思っていた。
だがどうにもそんな流れではない。
セルビアの勢いは止まらない。
「お帰り、セルビア」
「――あのば、あ、あ、あー……ただいま、アニキ」
勢いは止まった。どうやらいつの間にか家に着いていたようだ。
グライ教頭がセルビアを見れば、恥ずかしそうに頬を染めて彼女もこちらを不満げに見ている。
もう着いていたなら早く教えてとその目は訴えかけていたが、グライ教頭も現実逃避していたので気付かなかったのだ。
「わざわざ送ってくださってありがとうございます。ちょうど夕飯ができるところなので、よかったらご一緒していきませんか」
二人をにこやかに出迎えたセージは、機嫌良さそうにグライ教頭に声をかけた。
機嫌は良さそうなのだが、笑顔の下から事情は聞かせてくれるんですよねという有無を言わせぬ圧力を感じる。
グライ教頭は苦笑した。最初からそのつもりだったが、こうして強要されると何とも言えない気持ちとなったのだ。
そんなグライ教頭のスーツの裾を、セルビアが引っ張った。
何かと見れば、わかっているよねとセルビアが上目遣いで訴えてきた。
黙っていて欲しいのは学校での喧嘩騒動なのか、それとも帰り道での不安の事か、グライ教頭には分からなかった。
はっきりと分かったのはただ一つ。
「……」
にこやかに自分を見つめるセージが怖いという事だ。