443話 学生生活
それは何の変哲もないとある一日の出来事だった。
その日の外での仕事を終え、家に帰ってきたセージはリビングに投げ出された妹のカバンを見つける。
セルビアは守護都市で最低限の実力を身につけたことから、登下校の送り迎えは必要無くなっていた。
それでもセージは不審者に狙われることを警戒して不定期に送り迎えをしていたが、他ならぬセルビアが過保護への気恥ずかしさと、多忙な兄に手間を取らせることを嫌がったためその頻度は抑えられていた。
そして学校では新人戦入賞とギルドでの実働経験を始めたことから、騎士養成校での基礎訓練の大半が免除されている。
そのため座学を終えれば他の生徒よりも早く下校することも珍しくない。
その日はちょうどそんな日で、つまりセルビアはいつもより早めに家に帰っていた。
リビングにカバンを置いたという事はそのまま道場か庭の方に行ったのだろう。時刻はちょうど3時を過ぎたところで、ルヴィアがお茶を出している時間帯だ。
セルビアを知るものが聞けば十人中十人が意外そうな顔をするが、彼女は可愛いものが好きで園芸の趣味がある。実態を知らない十人中十人が信じないが、家庭菜園の片隅で自ら世話をして花を育てているのだ。
そんな彼女はルヴィアの開くお茶会にひそかな憧れを持っており、時間が許す限り顔を出していた。
ちなみにルヴィア以外からはお茶請けのお菓子が目的だろうと思われている。
ともあれそのお茶会に急いでいて、カバンを乱雑に家の中へ放り込んだのは間違いない。
セージは妹のカバンを拾うと洗い場に行き、慣れた手つきで中からタオルを抜いて洗濯籠へ放り込む。ついでに洗濯済みの清潔なタオルを手に取った。
そして妹の部屋に移ってそれ以外の手鏡や文具、ノートや教本を取り出し机に広げる。
空になったカバンを魔法で湿らせたタオルで軽く拭き、今度は熱風の魔法で乾かす。
セルビアがもっと幼かったころはここから時間割を見て明日の準備をしていたが、今は一人でやらせている。
片付けも本人にやらせろと他の家族からは言われているが、毎日やっている訳ではないのだからこれぐらいいいだろうとセージは思っている。
ちなみにセルビアが急いでいてもちゃんと自分の部屋にカバンを放り込むのはケイやマリアが家にいる時だ。二人に見つかると騎士/淑女が雑なことをするなと容赦なく拳を落とされてしまうのだ。
ちなみにシエスタやルヴィアは鞄を邪魔にならない所によけて後ほど口頭で注意をし、ジオは気に留めず、カインは意味もなくカバンを蹴ったりする。
それはさておき妹も大きくなったなと感慨にふけりながら、セージは保護者への連絡事項の伝え忘れや宿題のやり忘れがないようにノートをチェックする。
するとノートから一枚の紙を見つける。
この国では印刷物に税金がかかるため連絡事項がプリントされて渡されることは無く、生徒が板書されたものを自分で書き写すことになる。
そして提出物についても同じで、ノートから切り離したものに要項を書き込んで提出する。
見つけた一枚もそんな自作した提出用の用紙で、セルビアの字でこう書かれていた。
将来の進路希望
・第一志望 皇翼
・第二志望 最強
・第三志望 皇剣
セージはやれやれとばかりに肩をすくめた。
ちょうどその時、セルビアが部屋に入ってくる。
「お帰りアニキ、終わったらお風呂沸かしといてよ」
セルビアは無断で部屋に入られたことも鞄の中を改められたことも気にせず、目の前で服を着替え始めた。
お茶会も終わり夕飯まで時間があるため、道場で汗を流すため運動用の服に着替えたのだ。
そして運動後は道場生がジロジロ覗いてくるシャワールームよりも家の大きな浴槽でくつろぎたいため、その準備をお願いする。
「いいけど妹、それよりもこれ」
「……何? あっ、勝手に見ないでよ」
セルビアはそう言って進路希望の用紙を奪い取ると恥ずかしそうに、大事そうに胸に抱いてセージから隠した。
「ああ、ごめんごめん。でももうちょっと真面目に考えなよ」
「は?」
それまでとは別の理由で頬を紅潮させたセルビアは、荒い声を出す。
「え? いや、どうしたの」
困惑する兄の姿にセルビアは一層怒気を昂らせ、それはまるで竜の咆哮のように彼女の口から発せられた。
「何でわかんないのよ馬鹿アニキっ‼」
******
「マジサイテー」
翌日の学校で、セルビアは事のあらましを友人のデボラに愚痴っていた。
「そうだね」
デボラは気のない相槌を打った。彼女からすれば憧れの人であるセージの陰口に賛同はしたくない。
だがそれはそれとしてこうなっている友人を正論で諭しても効果がない事も知っている。
そもそもこれは大好きなお兄ちゃんに甘えているからこその愚痴で、言ってしまえば惚気のようなものだと分かっている。
だからデボラは気のすむまでセルビアに愚痴を吐き出させていた。
もちろんタダでという訳ではない。
友情はプライスレスだが、一方的に都合良く使われてはお金には代えられないその友情こそが支払われて消えてしまう。
デボラはセルビアのストレス解消に付き合い、セルビアはデボラに表に出ない憧れの人の家庭での姿を情報提供している。
実に素晴らしいwinwinな友情関係がここにはあった。
加えて言うとセージの話に高い関心を持つのはデボラだけではないので、二人の会話は多くの生徒が聞き耳を立てている。
そしてその結果、巷にはセージがひどいシスコンで女遊びに興じていると噂が生まれ、耳が長くて早いアリスが探りを入れて手ひどい逆襲を受けることになっているのだが、二人にはあんまり関係のない話であった。
「ちゃんと聞いてる?」
「聞いてるって。
それで、見られたことは別にいいんでしょ。何がそんなに気に入らないの」
「何でってそれは――」
セルビアはそこで言葉に詰まった。その先の言葉ははっきりと定まっている。それでも、或いはだからこそ、口に出すことが憚られた。
「どうしたの?」
「――べつに。そんな事よりクロの事よ」
付き合いの長いデボラはその理由こそ分からなかったものの、セルビアが話したくないことを察した。
そしてそれ以上に、セージの側に沸いた悪い虫の名前に反応する。
「また、そいつなの」
最近、セージの周りをクロとかいう女がうろついている。
周囲に聞いても友達と一緒に見張っても見つけられなかったが、確かにそういう人物はいるらしい。その確信がデボラにはあった。
その根拠を思い出すことは出来ない。
デボラも名家直系に相応しい才能を持ち、日々の研鑽を怠らずその才能を磨いていたが、憧れの人を影ながら見守り活動中に一目見ただけのその少女を思い出せるほどではなかった。
ちなみにその時には(護衛の邪魔だから)次にストーカー行為に及んだら実家に通報すると、セージに釘を刺されてしまった。ストーカーじゃないのに見守ってただけなのにと、デボラはその夜は枕を濡らした。
そしてその時の恨みが、潜在意識の中で顔も名前も思い出せない少女に向けて燻っていた。
「アニキの奴マザコンだから、母親似の女にころっと騙されて。
最近は仕事仕事って言いながらそいつとばかり一緒にいるんだから」
その言葉は薪となってデボラの胸に燻る黒い火を強める。
「そんなに言うならそいつと話付けたら?
私も――、私だけじゃなくて皆も協力するからさ、ちょっと囲んじゃおうよ」
ケイに聞かれれば半殺しにされて一月は病院のベッドから出れなくなるような事を提案するデボラに、セルビアは氷のように冷たい目を向ける。
「たった一人相手に? 私、そんな弱虫じゃない」
卑怯者と、そう言外に罵られたデボラは語気を強める。
「こんなところで愚痴ってるだけ臆病者のくせに、なに偉そうなこと言ってんのよ」
「は?」
「あ゛?」
ここは騎士養成校。
規律を守り品格を身に付けるべく騎士の卵が日々精進する場である。
しかしそれ以前にここは守護都市だ。
売られた喧嘩は買わずにはいられない戦士たちの聖地であった。
「片思いストーカー」
「わがままブラコン」
罵り合いはすぐに取っ組み合いに移り、すぐに殴り合いの喧嘩に発展し、二人は揃って生徒指導室に連行されることとなった。
******
グライ教頭が至急来てくれと呼び出された生徒指導室。
ノックもせずに大慌てで開いた扉の先では、セルビアとデボラが泣きながら抱き合っていた。
ごめんごめんと、互いに謝っていた。
「これは……」
唖然とした様子のグライ教頭は思わず同席し、説教をしていたであろう生活指導の教員を見た。
教員は慌てて首を横に振って、何が何だかという顔をした。
「ともかく二人とも落ち着いてください」
「ごめんごめんね。三回も多く殴られたけど、もう殴ったりしないから」
「ごめんごめんね。先生が来てすぐに止めたのに思いっきり殴ってきたけど、私は全然許してるから」
言葉では謝っているが、これは本当に反省しているのだろうか。よく見れば抱き合う力がどちらも締め付けるほどに強すぎるように見えるし、デボラに至っては爪を立ててセルビアの肌を抓っているようだ。
グライ教頭は溜息を吐いた。
「なるほど、よく反省しているようですね。それならばお咎めなしで良いでしょう」
「教頭⁉」
指導教員が信じられないと声を上げた。
デボラとセルビアは抱き合うのをやめて、心からの喜びを笑みとして浮かべた。
グライ教頭にはその輝かしい笑顔に、ちょろいぞこいつと馬鹿にされているよう感じられた。
「ただお二人の実家には、こう言った事があったと私の方から説明しておきましょう」
「何でっ! 許すって言ったのにっ‼」
「クライブの鬼! 悪魔っ‼」
グライ教頭は机を強く叩いた。ドンと、鈍い音が響いて二人の少女は押し黙った。
「あくまで私から罰を与えることは無いと言っただけです。
そして学内で起きた問題を保護者に伝えるのは当然の事です。家族に知られたくないような問題を起こしてはいけません。騎士見習い以前に、一学生としてその程度の心構えは持っていなさい」
グライ教頭はそう言って指導教員を流し眼で見た。
「そうですね。学校としては顛末書と反省文の提出。あとはランニングですかね。重りを付けて」
それぐらいが妥当だろうと、グライ教頭は頷いた。
それはやりすぎだと、二人の少女が泣き叫んだ。
「なんでよ。だったらチクったりしないでよ」
「そうよそうよ。ロリコンのくせに何で優しくしてくれないのよ」
グライ教頭のこめかみに青筋が浮かぶ。彼は自分をアイドルオタクだと認めており、それは大衆に認められない茨の路を征く者だと理解している。
しかしだからこそ愛らしい少女を見守るオタクと、少女を汚すホルストを同一視されることは許せなかった。
「誰がロリコンですか。これ以上の醜態を働くなら、セージさんとイリーナ様からきつく叱ってもらいますよ」
その言葉に二人の少女は背筋を伸ばす。
「「すいませんでした」」
「最初から素直にそう謝りなさい」
まったくと、グライ教頭は再び溜息を吐いた。
教員を馬鹿にするようなふざけた演技をするあたり、悪ガキ度合いでいえばケイよりもひどい。
そう思ったせいか、在りし日に説教した名家令嬢が脳裏によぎる。
「ちっ、うっせーなハゲ」
暴言と共に椅子を蹴り飛ばす12歳の少女(※中級下位相当戦士)の姿だった。
性質の悪い悪ガキではあっても、目の前のこの子たちの方が可愛げがあるなと、そう思った。
そしてそのころのケイも、マリアとイリーナという保護者に連絡を入れると脅すのが一番手っ取り早かった。もっともそんな手軽な手段にばかり頼っていると、マージネル家とケイの双方から信用を失ってしまうのだが。
「ともあれ、喧嘩の原因は何なのですか?」
グライ教頭が問うと、二人の少女は互いに見つめ合った。
「何でだっけ」
「セルビアが馬鹿にしてきたんじゃない?」
二人は喧嘩で魔力を使わないので、怪我をしても肉体の魔力を活性化させればすぐに治せてしまう。
グライ教頭を筆頭に教師陣の胃を痛める二人の喧嘩だが、当人たちからすればスポーツやゲームの対戦のような感覚であり、勝負が終わってしまえば流した汗や痛みと共に遺恨と経緯もきれいに忘れられるものだった。
守護都市では珍しく立派な教育を受けている少女たちは、立派な守護都市市民として育っていた。
グライ教頭は三度、溜息を吐いた。