439話 あにのそんげん
夕食は終始和やかに終わった。
もっとも話題はどうしてもストレンジャーなアリア様ことクロ様が中心となった。
そのクロ様だが、為政者匂わせムーブをしてくることは無く、あくまで下働きの女性ですといった態度で私やケイさんを立てる態度をとっていた。
敬語を使われるたびにケイさんは顔色を赤やら青やらに変え、胃痛で倒れるんじゃないかと心配になる有様だった。
まあケイさんは脳みそだけでなく胃も鋼の筋肉でできているだろうからに胃酸ごときで穴が開くことは無いだろうし、万が一開いたところでグライ教頭の気持ちが理解できる良い経験だろう。
世間話の中でクロ様が姉さんに触れ、良き友人として親しくさせていただいておりますなどと言った瞬間には、兄さんが喉にご飯を詰まらせて窒息していたが、まあ大した問題ではない。
兄さんも一般人とは明確に差がある立派な魔力持ちなので、一時間ぐらい息ができなくて死にはしない。最悪人工呼吸を率先してやってくれる婚約者もいる。
妹はひどく警戒していて珍しく無言でご飯を食べていたし、次兄さんは声をかけるときに顔を赤らめていたが、クロ様はむしろ機嫌をよくしていたので、たぶん問題ない。
シエスタさんは兄さんを気に掛けながらも、双子コーデで売り出せば、いや、それはさすがに刺されてしまう等と、何やら不穏なことを言っていた。
まあ、きっとたぶん大丈夫だろう。色々とお世話になっているので強く言えない相手だが、それはそれとしてはっきり止めろと言えば止めてくれる人だし。
母はなんだか対抗心のようなものを燃やしていたが、生まれながらの美女だったので、自分と似たような顔立ちの美少女が現れたことに対抗心が生まれてしまったのかもしれない。
……うん、実に和気あいあいとして不安になる和やかな夕食だったが、本当の爆弾はその後に投下された。
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「それじゃあ帰りましょうか。送っていきますよ」
夕食を終えると、気の急いた様子でケイさんはそう言った。
本当に一刻も早く帰りたいのだろう。クロ様のうっかりがなくとも、ケイさんや兄さんの態度から正体が露見しかねない状態なのでそれも当然だ。
なので、私もそれに追従する。
「もう夜も更けてきましたね。お引止めして申し訳ありません。ケイさんが送ってくれるなら夜道も安心ですね」
私は妹の機嫌取りと他のみんなへのフォローがあるからな。家に残るからな。わかってるよなと思いを込めてそう言った。
「いえ、こちらこそ長々とお邪魔をいたしました。しかし肝心の打ち合わせの時間が取れず。おこがましくはありますがセイジェンド様には家路にご同行をお願いできますか?」
わかってなかった。そしてクロ様の目の奥が光ってる。断るなよわかってるなという目つきだ。
ちくしょう。
このままだと妹からのブラザーリスペクトポイントが危険域に至ってしまう。
しかしこのあほ国主もとい、偉大な精霊様に反抗できるはずもない。ないが、しかしせめて反抗の意思を見せなければポイントがストップ安すら超えて奈落の底に落ちてしまう。
「なるほど。そういえば話をする時間は取れませんでしたね。とはいえ急ぎでなければ明日でもよいのでは?
明日は早朝から時間が作れそうなんですが……」
「そうですか? 私としては、今日の仕事は今日の内に済ませたいのですが……」
下々の民をロールプレイ中のクロ様はやんわりと控えめに提案しているが、そんな態度を取らせていることに腹を立てている暴力娘が近くにいることを忘れてはいけない。
今は我慢してくれているが、後で間違いなく溜め込んだその怒りを暴力でぶつけてくる。そしてその暴力娘は奔放な我がままっ子なので、堪忍袋の緒はいつ切れてもおかしくない
そんなことを思っていたら、当の暴力娘ことケイさんから睨まれてしまった。心の声が漏れてしまったのかとドキリとしたが、早く頷けと催促しているだけだ。
妹への気に掛けているんだよでも仕事だから仕方ないよねアピールはまだ不十分だが、まあ仕方がない。
ぶっちゃけケイさんはどれだけ怒らせても後で謝って殴られればそれで済むが、クロ様が怒った場合は取り返しがつかないだろう。
私は早々に切り替えて前言を翻すことにした。
「わかりました。では早速出ましょうか」
さっさと出て、仕事の話を終わらせて、すぐに帰れば寝る前に妹の様子ぐらいは見れるだろう。
そんなことを思ったのがいけなかったのか――
「ああ、長くなってしまいますから、どうぞ今晩は私の部屋で泊っていってください」
――笑顔のクロ様が、そんな妄言をのたまわれた。
それはそれは実にいい笑顔だった。
お前の目論見は分かっているぞと、そのにやけた笑顔に輝く目が雄弁に語っていた。
どうやら下々のロールプレイは思いのほかクロ様にストレスを与えていたようだった。
おのれこの独裁者が。
「……アニキ?」
――はっ。
「アリスはさぁ、まだわかるの。馬鹿だし変態だけど、アニキの事が大好きだから。
でもさぁ、そいつはないでしょ」
「いや、違う違う違う。変な誤解しないであくまで仕事の話であってやましい事なんて――」
「どうせそれも嘘なんでしょっ‼」
いや嘘という訳ではないけど確かにクロ様の正体は言えないしそもそも妹が神子で本能的に嫌っていることからしても親父ほどではないにしても何か感じ取っている可能性があって下手をするとクロ様ことアリア様がブレイドホーム家を滅ぼしたことに気づきかねないしそうなれば親父と違って割り切れずに襲いかねないから近づかせないようにしようと思っているからやましい事がないとは言い切るのは間違いかもしれない。
頭が良すぎる私は余計な思考をよぎらせてしまい、勘の鋭い妹は目つきを鋭くさせて誤解を確信させてしまった。
「覚えたてのゴブリンかこの馬鹿アニキ‼」
「どこでそんなひどい言葉覚えてきたのっ⁉」
そりゃあ保健体育は大事だし男女の違いについてはちゃんと理解して欲しいから性的なことを理解しているのはいい事だけど、そんな不良みたいなスラングにまで理解を深めてほしくないよ。そもそもアリスさんと同衾したのだって健全な医療行為でしかないよ。
「また子ども扱いして‼ 私だってもう生理来てるし彼氏だって出来てもおかしくないんだからね‼」
「いやそれと悪い言葉を使うのは別の意味だから」
反射で突っ込んだが、それはそれとして気になる単語も混じっていた。
いやしかしあくまでそれは仮定の話であるので実際にそうであるとは限らず話の流れ的にも見栄を張っただけでいない可能性の方が高くここでその件を問い詰めようならこの気高く立派で心優しいお兄ちゃんがうっかり過干渉なシスコンお兄ちゃんと誤認されてしまうリスクがあり私の尊敬されるお兄ちゃん像を損なってしまいかねないだからここはあくまでスルーするべきだ。
「お前彼氏なんていないだろ見栄張るなよ」
さすが次兄さんだ。いつも馬鹿で間抜けでひどい悪戯ばかりする馬鹿な次兄さんだけど、ここぞという時はきらりと光る活躍をして見せる。
私は固唾を飲んで妹の反応を探る。
デス子なんぞのインチキチートがなくなっても、今生で十二年を共にした妹の感情くらい私なら読み取れる。
どんな反応も見逃さないぞと目を凝らしていると、他ならぬその妹から冷や水をかけられた(※not比喩表現)。
「どうせいないよこっち見んな馬鹿アニキ‼」
顔を赤らめた妹は空っぽになったコップを手にもっていた。そしてその中身は私の顔面にかかっている。
水も滴る良い兄とは、今の私の事だろう。
「……あんた、もしかして」
私と妹の寸劇を見ていたケイさんが、殺気を放つ。
尊敬できる完璧な兄への深い愛で目が曇ってしまう妹ならばともかく、この脳筋はいったい何をどう考えてそんな疑問を持ってしまうのか。
「そんなわけないでしょう。ビジネスの関係ですよ。もちろんセクハラなんてしていません」
そもそも私が泊まりに行くと言い出したわけではないのだからハニトラ的なものから誘惑されているだけで、無罪ではなかろうか。
そして皇翼の世話役を任された美少女が当の皇翼からセクハラをされていないかと心配するのはあり得るかもしれないが、ケイさんはそれが出来の悪い建前と知っている側だ。
むしろ私がこの独裁者からセクハラを受けて尊厳破壊されている事を察して欲しい。
「これはお騒がせをしてしまい申し訳ありません。
帰ってからの打ち合わせともなれば日付も変わってしまうので、他意は無かったのですが……」
申し訳なさそうに見える態度で仲裁に入ってきたクロ様だが、実に機嫌が良さそうに見える。
おのれ。アリスさんと言いこの独裁者と言い、性に自由な女性は何故私を玩具にしようとするのか。
アリスさんに対してはよく毒を吐いてからかっているので多少は仕返しも仕方ないだろう。
しかしアリア様に対しては忠実な下働きムーブをしつつ溜まってしまうストレスの解消に、ちょっとからかっているだけなのに。
……あれ?
もしかして、やり返されているだけか?
だとしたら怒るのは筋違いだよな。いやでも妹に手を出すのはやっぱりライン越えなような気がするがしかし傷つけられたのは妹からのリスペクトであって妹自身ではない。
そもそも怒るべきか怒るべきで無いかなんて考えている時点で怒りという感情は割と下火というか、やり返されたことに納得している訳で、つまるところ妹からの信頼を失ったことに動揺しているのがこの余計な考えの原因だろう。
よし、自らの状態は完全に完ぺきに理解した。
私はアンガーコントロールできる理性的な兄。
「そうですね。ビジネスな関係なので他意はありません。もちろん女性の部屋に泊まるつもりはないので、適当な安宿で仮眠して帰りますよ」
話があると言っているが、泊り前提で話をしていることからしてプラスアルファの何かがあると考えられる。そしてそれを断ることはできないし、半端な妥協案を引き出そうとごねればクロではなくその忠実な暴力娘に殴られかねない。
だから帰宅できないことを踏まえつつエッチなことはしないとアピールして、ダメージコントロールをするべきだろう。
だがこの時、私は一つ忘れていた。
守護都市で安宿と言えば連れ込み宿の事で、基本的に一人で泊まることのないラブなホテルであることを。
「結局エッチしてくる気じゃん‼」
妹はそう言って私に卓上マヨネーズを投げつけてきた。
いや、違うんだ。
連れ込み宿でもなじみのミルク代表のところなら一人寝できるし、遠征時期は正規のホテルはほぼ満室で運良く泊まれたとしてもとても高いのでとっさに安宿の方が出てきてしまったのだ。
だが私が泊まると暇な女性が夜這いをかけに来るリスクもあるし、そもそも壁が薄くて変な声は聞こえてしまうのでエッチな目的があると疑われてしまうのも仕方がない。
仕方がないが、そもそも何でこんなに妹からエッチだと疑われているのだろう。
……アリスさんのせいかな。きっとそうに違いない。あの人に妹たちのパーティーに入って貰ったのは失敗だったかなぁ。