432話 俺こそが最強だ
閑話休題
おおよそ半年ぐらい前の話です
男は酷く不機嫌だった。
男は最強を誇る魔王の騎士だったが、魔王に仕えるがゆえに穴倉での隠遁生活を余儀なくされていた。
魔王からは待機を厳命されていた。騎士である男はもちろんその命令に従って大人しくしていたが、一か月経っても二か月が経っても魔王は戻ってくることが無く、待機を続けろという伝令だけが届けられた。
辛抱強い男は伝令(♂)の尊厳を散らすだけでちゃんと我慢した。
念のために弁明しておくが、男は男よりも女が好きだ。
しかし最強の男は最強であるがゆえに女にモテる。それはもうものすごくモテる。今までどれだけの娼婦を抱いてきたか数えきれないほどだ。
だから少しばかり女には飽きていた。
そして傲慢で思い上がったクソ雑魚に思い知らせる機会があった。
そのせいか最強の男は自分より弱い戦士に欲をぶつける事を楽しむようになっていた。
三か月が経って、男の我慢は限界に達した。
思えばなぜ最強の己が洞窟の奥で隠れなければならないのか。
薄暗い部屋の奥で、大した力もない小僧や小娘に膝を折られた悪夢に苦しめられなければならないのか。
炎と稲妻を纏った死神がいつか襲ってくるのではと怯えなければならないのか。
男に必要なのは胸のすくような気持のよい勝利だ。
もとより従えている部下――正しくは同志なのだが、弱者たる彼らを同格と扱う事は無かった――を嬲る事では誤魔化しきれない欲求が男に燻ぶっていた。
それを解消する方法は極めてシンプルだ。
最強の己を嘲笑った者たちに屈辱と後悔を叩き返す。
男は制止する部下を殴りとばし、数か月ぶりに外へ出た。
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男はまず守護都市に行った。
行こうとした。
あの死神は正体もわからぬ現世神から貰った卑怯な目を失ったらしい。
ならば隙はあるはずだ。
まずは溺愛していると噂の妹を――ふと、腹を裂かれる幻痛に襲われる――いや、万が一という事もあるので、戦う力のない監査官を人質にとる。
そうして戦えば――そこで死神の顔が脳裏に過る。男の体から嫌な汗が噴き出した――いやいや、人質を取るだけでは足りない。
最強である俺が戦って勝てない事は無いが、そんな事はあり得ないが、少なからず手傷は負うだろう。敵地となり多くの強者が集う守護都市では少しの傷でも命取りになりかねない。
万全に、そして完全に、一切の反撃も許さない形での勝利をしなければならない。
男はしばし考えた。とてもよく考えた。生粋の戦士なりによく考えた。
そうしてたくさん考えたら疲れたので、近くの外縁都市の娼館で気持ちよく寝て、忘れる事にした。
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魔王からは天使セイジェンドへの接触は固く止められている。
一晩よく励みよく寝てその事を思い出した男は、今度は政庁都市へと向かった。
家族への手出しも禁止されているが、それぐらいならば許されるだろう。
何故なら男は魔王唯一の騎士で、そしてなにより最強なのだから。
男はブレイドホーム長兄、アベルを狙う事にした。
武の道から逃げ、学生などというものをやっている軟弱者。男が聞いたところによると、大学の――それも名門大学の生徒はその軟弱な肩書で毎日毎晩、合コンと言う飲み会を開いて色んな女とヤリまくっているそうだ。
アベルもきっとそうなのだろう。遠目から顔を見れば実に女たらしっぽい顔をしていた。
頭でっかちなインテリである事も含め、何となくスノウを思い出す青年だ。男の股間は戦意に滾っていた。
遠くから顔を見るところまでは上手く行った。
しかしアベルの周囲には常に中級程度の戦士が遠巻きに控えていた。間違いなく護衛だろう。
最強の男にとって中級の戦士は軽く蹴散らせるが、しかし場合によっては時間を稼がれる可能性はある。
そしてその時間でアベルが逃げ、政庁都市に控えている最高位の皇剣である至宝の君や、あるいはその直属の騎士が出張ってくるかもしれない。
軽率に手を出すのは憚られる。
しかし幸い、アベルのいる大学は部外者の出入りも多く、変装する事で男も簡単に忍び込むことが出来た。
男はそうして護衛の気が緩む瞬間を待った。
カフェのオープンテラス席で昼食のサンドイッチを食べながら待っていると、別の席から気になる会話が耳に入ってきた。
「ねえ、アベル君ってレイニアに負けなしだったんでしょ。あのセルビアも何度も試合して、一回しか勝てなかったって記事もあったよ」
「全然喧嘩とかしないし、軍系のクラブと揉めても自分からは絶対に手を出さないのに、本当はすごく強いって格好いいよね」
女学生たちは何やらうわさ話で盛り上がっている。どうも大学内の揉め事をアベルが解決したのだが、その際に大立ち回りを見せたらしい。
女学生たちが言うには強さもさることながら、合法的に話し合いで事態を解決しようと努め、いざ追い詰められた相手が武力行使をした際は容赦なく実力の差を見せつけた姿が最高にクールだったとの事。
「……そうか」
最強の男はそう呟くと静かに席を立った。
本当に強い男は実力を簡単には見せない。都会ではそういう男がモテるらしい。だから席を立ったのだ。
別にセルビアより強いという男に怯えたとかそんな事は絶対に無い。
あくまで多くの女性にモテる最強の男は都会の流儀に従い、簡単に実力を見せないことにしたのだった。
男はアベルを諦めたが、しかし政庁都市まで来て手ぶらで帰るのも馬鹿馬鹿しい。だからもう一人のブレイドホーム、マーガレットを狙う事にした。
マーガレットにも護衛は付いていたし、通っているのが由緒正しい女子高という事で忍び込んで近寄る事も難しい。
だが最強の男には難易度が高い方がちょうど良いというものだ。
護衛は他の女子生徒の目を気にしてか護衛対象と距離を取っている。
だから登下校用のバスに入る前に攫ってしまおう。最強の男は最速を誇る。邪魔をされる前に攫って、その場から逃げる。
シンプルイズベストでありながら最強の男にしか達成できない最高の作戦だ。
男は自身の内から沸き上がった最高のひらめきに満足しながら、校門から出てきたマーガレットを見定め舌なめずりをする。
マーガレットは子供だったが、ある一点が子供らしからぬ主張をしていた。制服に抑えられながらもしっかりと膨らむそれは男には無い柔らかで母性的で素晴らしいものだった。
最強の男は大きなオッパイが好きだった。大好きだった。
アベルでは晴らせなかった獣欲が抑えきれぬほどに猛り、しかして次の瞬間、それは冷や水を浴びせられたかのように萎んで縮み上がった。
バス停のベンチに座ったマーガレットに声をかける人影があった。
黒い髪。
黒い瞳。
この世のものとは思えぬ美貌。
「ひぁっ‼」
男は悲鳴を上げ、一目散に逃げ出した。
「どうしたんだろう?」
少し外れたベンチに座っていた男が急に悲鳴を上げて明後日の方向に走り出したのを見て、マギーがそう訝しんだ。
「マギーの胸を見ていましたね。ストーカーでしょうか?
気を付けた方が良いでしょう」
マギーに話しかけた黒髪の少女はそう言って彼女の豊満な一部を優しく撫で、その手を容赦なく叩き落された。
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懸命に数百キロを走り、這う這うの体で逃げついた先は産業都市だった。
涙と鼻水を拭った最強の男は、そうだ、女子供を狙うなど俺には相応しくないと気を取りなして胸を張った。
産業都市にたどり着いたのは偶然だったが、ここには男の腹に刀を突き刺した生意気なクソガキがいる。
テロリストの部下(正しくは愛国同志)からそう聞いていた。
クソガキには剣の才がそこそこにはあったと認めてやってもいいが、しかし最強の男から見ればまだまだ未熟。
片手で捻り潰せるような雑魚だ。そんな生意気な雑魚を嬲るのが男はとてもとても大好きだ。
そうだ。俺は最強なのだ。怖いものなど何もない。
男はそう思って、カイン・ブレイドホームの仮宿であるカグツチの工房へと足を向けた。
やはりというべきか、姑息なことに工房の周辺には産業都市の騎士がうろついていた。こいつらがきっとカインの護衛なのだろう。
とはいえ工房に入る人間を止めて身体検査をするほどのしっかりとした警備ではない。
最強の男は名工の工房に興味がありますよという体で様子を窺う事にした。
というかそんな演技をするまでもなく、男は名工の工房に興味津々だった。
守護都市に上がったばかりの頃に店主のドワーフに武器を買ってやると声をかけて、殴り飛ばされ追い出された事がある。
もっともその時の屈辱も、強くなってうちの武器を使って下さいと言わせてやるなんて意気込みも、遠い思い出として色褪せてしまった。
だがそれでも名工カグツチの武器はやはり特別で、あの死神の刀も手にした瞬間に魅入られる強さがあった。
魔王の騎士となった男だが、どうにかして自分専用の刀を打って貰えないかと思いつつ工房の裏手を覗き込んで、我が目を疑った。
そこでカインが、死神の竜角刀を手に修練を積んでいた。
それに我が目を疑い、遅れてどうしようもない怒りを覚えた。
あの刀はカグツチの作品でも間違いなくトップレベルの傑作だ。
死神や最強の男ならばともかく、少しばかり才が有るだけの小僧が手にして良いものでは無い。
そうだというのに、男は膝が崩れそうなほどにショックを受けている。
ああ、目にした瞬間わかっていた。
最強の男は最高の才能を持つ。
多くの虚飾で己を誤魔化す男だったが、その才能だけは間違いなく本物だった。
人の持つ限界に限りなく近い才能を持った男は、自分以外の人間の才能を本能的に感じ取る事ができた。だからこそ弱者と見下してきた。
そんな男の類稀なる本能が、刀が死神の手を離れ、カインを主として認めているのを感じ取ったのだ。
だからこそ男はそれが信じられず、許せず、我を失ってそれを見た。
カインは刀を振るう。
それはとても遅かった。男ならばその一振りの間に三度はカインの首を落とせる。
カインは刀を振るう。
そこには純粋な殺意があった。刀の切っ先から柄尻まで。頭のてっぺんから手足の指先まで殺意が満たされていた。
カインは刀を振るう。
殺意は体から漏れる事は無く。
殺意は刀から漏れる事は無く。
刀は振るわれる。
カインの体と一つとなって、振るわれる。
それはとても遅い動きだ。そして何一つとして無駄のない動きだった。
それを美しいと、男は忘我に落とされ感じいった。
「何をしとるんじゃい」
誰何の声を上げられて、男は我に返った。声の主へと振り返れば、工房の主であるカグツチがいた。
「盗み見とは感心せぬの」
「ああ、いや、俺は……」
「ふん。今更ワシのところに来おってからに。
……うん?
ちょっと手を見せい。なんじゃこの手は。サボりにサボりおって。立派になったのは図体と魔力だけかこのバカタレがっ‼」
怒鳴りつけられて、男は反射ですくみ上った。今のカグツチは男にとって格下なのだが、実のところ男は一度負けた相手がとても苦手なのだ。
狼狽えた男にカグツチはちょっと待っておれと言い捨てて、工房の中へと入っていった。
程なくして戻ってきた彼の手には、一本の木剣が握られていた。
「ほれ」
「は?」
差し出された木剣を手にした男は、訳も分からず声を上げた。
「今のおぬしにやれるのはそれだけじゃ。基礎からやり直せい、バカタレが」
「なんだと」
言い返したしたものの、その声に迫力は乗らない。カグツチの剣幕が怖いのもそうだが、瞼には少年の刀を振るう姿が焼き付いてしまっていた。
あんな風にただ強くなりたいと、最後に訓練をしたのはいつだったろうか。
男は思い出すことも出来なかった。
「けっ」
それが何とも面白くなくて、男はその場を去ることにした。
木剣は――怒られるのが怖いので――カグツチに見えないところで捨てようと、そう思った。
しかし工房から出る直前――
「また来い。しゃんとしとれば、その才に相応しいもんを打ってやるからの」
――男の背中にそう声をかけられて、木剣を強く握りしめた。
腐ってもカグツチの作品なのだろう。最強の男が強く握りしめても、その柄が砕かれる事は無かった。
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そんなこんなで穴倉に戻った男がそれ以来、外に出る事は無く割とおとなしく魔王の帰りを待った。
部下の男を犯し、女を抱き、時には木剣を振るって時間を潰した。
そうして、その時が来た。
「おう、良い子で待って……は無かったみたいだが、ようやく出番だぞ、ライム」
「ああ。待ちくたびれたぜ、魔王ベルゼモード」
魔王が戻って、その騎士である最強の男ライム・スーザーに下された最初の命令は、共和国に行くための荷造りだった。