427話 二人は飲み友
「酷い顔ですね」
マリアは寂れた酒場のカウンターでグラスを煽る男に、そう声をかけた。
「……何の用だ」
男は隣に座ったマリアに不機嫌な声を返した。
「スナイク家の未来は暗いようですね。未熟な当主を支えるべき男が、覇気を失っているのですから」
男、ラウド・スナイクはその挑発に舌打ちを返して、マリアから視線を外した。
「本当にひどいものですね」
マリアはそう言って注文した料理と酒が来るのを待ってから魔法を発動した。下級の魔法で周辺への音漏れを防ぐものだ。
「一年前、何があったのか私は知りません。スノウの死と罪の発覚、それだけではない事があったのでしょう。
あなたが、そしてあのジオが塞ぎこむほどの事態が。
それを教えろというつもりはありません。私にその権利はないのでしょう。
ですが、いつまで腐っているつもりですか」
マリアの声音にははっきりと苛立ちが込められている。
皇剣であるラウドに向けるにはあまりに不敬なそれは、しかし今更とも言える。
出会ったころはそうでもなかったが、ジオが引退した後に飲み明かし同じ朝を迎える機会があった。
それ以来、隣に座るこの女は最強の皇剣と名高いラウドに何を臆する事も無くホモ扱いして接してくるのだ。
「く」
最強。
その言葉が脳裏に浮かんだことで、自嘲の笑みが漏れた。
マリアはそれを自身への嘲りと捉えた。
「何がおかしい」
「おかしいさ。
俺もお前も、そこいらのガキと同じだ。
ああ、何の力もない。
ちょっと喧嘩が強いかどうかで、大した違いじゃない。ガキの中でトップを取ったところで、本物の戦士には、本物の化け物とは桁が違う」
ラウドはそう言ってグラスを煽る。
空になったそこに、マリアが自身の頼んだボトルを取って酒を注ぐ。
雑に注がれたせいでグラスを持つラウドの手に雫が撥ねた。それを舐めてからおつまみに手を伸ばし、自身の皿がとっくに空になっていた事に気が付いて、マリアの枝豆に手を出した。
マリアのこめかみには青筋が浮かんだ。
「俺は、精霊を殺すつもりだった。
飛翔剣はそのための技だった」
マリアの顔が驚愕に染まり、手に持ったグラスにひびが入った。
それを横目に見て、ラウドは小気味よく思った。
ずっとずっと、30年も隠してきた秘密なのだ。そんな反応ぐらい楽しんでも罰は当たらないだろう。
なにせ、ともすればこの瞬間にでもラウドは反逆者として、精霊エルアリアに心臓を止められるかもしれないのだから。
「不思議に思わなかったか。飛翔剣は武器を使い捨てる事で魔力を温存する技だ。魔力に困らない皇剣向きの技じゃない。元々はスノウの技なんだよ。
俺が飛翔剣を覚えたのは、あいつが使える事を隠すためだ。俺が馬鹿みたいに作って使いまくれば、何本か無くなってあいつの手元にあっても不思議には思われない」
それはまごう事なき本音なのだが、飛翔剣を爆発させるのは楽しかったので隠蔽だけが目的では無かったし、そのせいでスノウは資金繰りに苦労する羽目になっていた。
「精霊は俺たちを意のままに操れる。
だが心まで自由に出来るわけじゃあない。
スノウがいつか精霊と戦う時に、飛翔剣は力になる。あいつにとっても、契約の枷で魔力ぐらいしか使えない俺にとっても」
「……あなたはスノウの二心に気付いており、それを肯定していたのですか」
震える声には恐怖と警戒と敵意が混じる。だがそれは疑いだけでなく信用したいという迷いが混じったものだ。
少なくとも国賊として目の前のマリアにいきなり殺されることはなさそうだと感じる。
それもまた、今のラウドにはどうでもよい事だった。
「お前だって思うところが無い訳じゃあないだろう。
ここ最近側で働くようになったお前がそうなんだ。ずっと精霊の下にいた俺にも思うところはある。スノウだけじゃなく、義妹の事もあった。
善悪に拘る堅物の弟が国に喧嘩を売るなら、その時は付き合うと決めていただけだ」
つまるところ精霊を殺す技というのは、あくまで保険として手にしていただけのものだ。
ラウド自身には反逆するに足るだけの理由は無く、国家と精霊エルアリアへの忠誠も失っているわけでは無い。
「だからこうして腐っていると?
弟のためなら国を裏切り命を捨てても良いと思っていたのに、何も言わずにこの世を去られたから?」
「ふん。
……ああ、そうだな。それで納得しておけ」
スノウが死んだという事を、実のところラウドは信じてはいない。
あの性悪の弟がそう簡単にくたばるとは思えないし、殺したテロリストの主犯格があのベルモットとなれば、二人して自分を騙して陰で笑っている方がよっぽど想像がしやすかった。
だがそう思っていても、実際にスノウはいないし、ベルモットもいない。スナイク家の屋敷には、もう気安くラウドをからかってくる人間は一人もいない。
腐るほどの事でもないが、寂しさを感じるのも事実だった。
「それだけではないと言っているようなものではありませんか」
もったい付けずにさっさと話せと、マリアは苛立ちを込めてラウドのグラスに酒を注ぐ。
そんな雑な扱いが心地よく、そしてそれ以上に何もかもがどうでもよくてラウドは口を滑らせる。
「弱いんだ、俺は。
努力をすれば、特別な力を持つ連中にも負けはしないと思っていた。
ジオや、ケイや、セージ、そしてお前にもな。
だが違った。
持っている連中には資格がある。本物の化け物と対峙できる資格が」
そこまで言って、ラウドは弱々しく首を振った。
「俺には無かったんだ」
30年前にジオと初めて戦った時から、自分が持たざるものだという事は感じていた。だがそんなジオに勝って、ラウドは皇剣となった。
精霊エルアリアから魔女という想像を絶する現世神の存在を教えられても、自身の力を鍛え精霊から与えられた力を使いこなせば戦えると思っていた。
だが一年前、魔女との出会いを経てそれがただの驕りだったのだと絶望と共に思い知った。
そして絶望と共に刻み込まれたのは、唯一その魔女に対峙しえた少年への後悔。
無駄に死ねと、ラウドは幼い少年にそう命令した。
その少年は魔女からひどく苦しめられて、しかしラウドを責める事も無く、ああ、それどころか何事も無かったかのように――そう、ラウドも魔女すらも恨むことなく平然としていた。
その姿に己とは違うと、ジオにも感じたことのない敗北感を味わった。
「ふん。老いましたね、ラウド」
言葉少なく項垂れ酒を舐めるラウドに、マリアは辛辣な言葉を浴びせる。
それが今の彼には心地よかった。
そうして、確かに老いたのだと実感する。
例え敵わぬと分かっていても、例え超えられぬ壁だと分かっていても挑むだけの情熱が、今のラウドからは失われていた。
「世代交代という奴だろう。アルの小僧にでも期待をしておけ」
かつてラウドはジオを倒して皇剣となったが、剣を交えたことで身に秘めた才覚には一線を画す差があると感じた。それでもその事を悲観する事は無かった。
ケイに敗れ、彼女とセージに憧憬と対抗心を燃やすアルバートには、懐かしい思いを覚えるのだ。
今のラウドは、アルバードの様にはなれない。
「情けない事ですね」
「好きに言っていろ。
そもそも、お前が本当に気にしているのは俺じゃあないだろう」
マリアがラウドに奮起しろと発破をかけるのは、その気にしている男こそを元気づけたいからだろう。
日々を飲んだくれて過ごすラウドに、スナイク家の人間は聞いてもいないその男の近況をあれこれと吹き込んできた。
彼らと同じように、或いはそれ以上に対抗心を煽らせようと、そう思っているのだろう。
その推測はへの字に曲がったマリアの口元が正しいと証明していた。
そんな回りくどい事をする嫁ぎ遅れに、酔いのまわった頭でラウドは助言する。
「臆病者め。そのでかい胸で慰めてやれば――」
マリアはまだ中身の残っているボトルでラウドの頭を思いっきりぶん殴った。
ボトルは割れて頭から酒を浴びたラウドは、精霊への叛意の吐露では殴らなかったし、マリア自身がもっとひどいセクハラを妹分にしているのにと、そんな事を思って笑った。
悪くない気分だったが、それは絶望から抜け出すには十分では無かった。
******
「粗茶ですが」
道場にて一人座禅を組むジオに、そう言ってお茶が差し出された。
ジオは何も言わずにそれを受け取って、口に含んだ。
そして口の中には圧倒的な苦みと渋みが広がった。
「……何だ、これは」
「粗茶ですが?」
それ以上の弁明は無く、お茶を入れた美しい女性ことルヴィアはジオの対面に座った。
「……」
「……」
道場には他に人気は無く、二人の間に会話もない。
「……」
「……」
無言で静かな時間が流れていく。
「……(ちらっ)」
「……」
瞑想を再開していたジオが薄目を開けてルヴィアの様子を盗み見ると、冷たい眼差しに見据えられた。
「……何か、用があるのではないか」
沈黙に耐えきれず、ジオは口を開いた。正直なところルヴィアの事は少し苦手なのだ。
だから目を閉じていても道場に入った時点で気づいていたのに、声をかけられるまで何のリアクションも見せなかったのだ。
ちなみにそんなジオの内心は機微に聡いルヴィアにはお見通しである。
「いつまで悩んでいるのですか」
言われて、ジオはだからルヴィアは苦手なのだと思った。
息子のように人の心を突き刺すような言葉を放つ。
そして、息子とは違って遠慮も気遣いもない。
だからこそ嫌いにはなれず、どう接していいかもわからない。
「悩んでなどいない」
「強がりですね」
バッサリと切り捨てられて、ジオは口元をへの字に歪めた。
どうもやり辛く、それでいて内心がさらけ出される。
セージに似ているというのもあるが、ルヴィアを見ていると同時に二度と会う事の無い女性も思い出してしまう。
もしかするとその嘘つきで冗談好きで悪戯好きで人を困らせるのが趣味でいつも楽しそうにふざけている――そして、誰よりも誠実に接してくれた大切な――女性はセージに似ていて、ルヴィアを通して思い出してしまうのかもしれない。
「いや、強がりかもしれない」
ジオは感傷に苛まれて、正直に自身の思いを吐露した。
ルヴィアはそんなジオを鼻で笑った。
そんなぞんざいな扱いこそがジオには心地よく、同時に心苦しく思うところであった。
セージと同じ顔で、同じ雰囲気で、同じ様に家族として接してくる姿が、苦手なのだ。
「セージを避けているでしょう」
短く核心を突くその言葉に、ジオは堪らず視線を逸らした。
「やはり、自覚はあるのですね。
セージは我慢強く、そして状況の変移に身を任せるきらいが有ります。心が広く優しい子ですからね。
あの子は当然、あなたに避けられている事を気付いています。
あなたも、その事に気付いているでしょう。
いつまで甘えているつもりですか」
ルヴィアはそう言って、自身が用意したお茶を口に含み眉根を顰めた。
人を生かすことに精通する医者が人が死ぬ条件に精通する様に、お茶に精通するルヴィアもまたどうすればお茶がまずくなるのかをよく理解していた。
そして嫌がらせのためにあえて渋く苦くお茶を淹れる事は、彼女の茶道に反する行いだった。故に自罰のためにジオと同じお茶を自身にも淹れていたのだ。
「……」
美しさを損なわない程度に上品なしかめっ面を披露するルヴィアに、ジオは嘆息する。
完全に瞑想を――内界に目を向けそこに眠る神力を理解する――する気分が失せたので、その腹いせをすることにした。
「お前の方こそいいのか。父親の処刑が近いのだろう。セージが気にしていたぞ」
「……私は良いのです。
そんな事より、あなたの事です。
セージが帰ってきた際には――」
滔々と耳に痛い言葉がルヴィアの口から叩きつけられる。
一言ケチを付けたら十倍以上になって返ってくるあたりが本当にあいつの母親だとジオは思った。
さて、こんな口の上手い奴にはどう返すだろうと考え、自分の問題を棚上げした時はよくこう言われたなと思い出した。
「子供の教育に悪いな」
「――なっ、あなたに言われたくありません‼」