417話 ルヴィア奮闘記・上
最愛の息子は、ともすればこの国の主たる精霊エルアリア様と敵対する覚悟を胸に抱いている。
家族を巻き込まぬようにたった一人でそうしようと、悲壮な覚悟を何でもないような顔をして胸に抱いている。
それはもしかしたら訪れる事のない未来なのかもしれない。
息子は争いを得意としているが、決して好んではいない。
守護都市で育った身ながら、まず話し合いをしようと試みる優しく理知的な子だ。
だが争いが必要となった時に、躊躇う事も無い勇敢な子でもある。
精霊エルアリア様は神の力を欲し、この国の全てを生贄にしようと画策している。
心優しい息子がそれを知れば必ず止めようとするだろう。
そして精霊様には神子である息子を危険視し、皇剣ケイや処刑人デイトを使って暗殺を目論んだ過去がある。
息子と精霊様の致命的な対立は、いつ起きてもおかしくはないのだ。
そうなったとき、私が取るべき立場はとっくに決まっている。
息子はそれを望まないだろう。あの子は多くの罪を重ねた私にまで、普通の幸せを望んでいる。
たとえ息子のためでも、いいや息子のためだからこそ、私が精霊様に弓を引くなど決して望みはしない。それは破滅への道なのだから。
それでも、私の望みは息子の幸せにしかない。
だからいつか来るかもしれない最悪の未来のために、私は私に出来る備えをしなければならない――
「……」
――ただそれはそれとして、ブレイドホーム家での新生活はルヴィア・エルシールにとって慣れないことばかりで苦労も多く、刺激的で、何より夢に見る事も叶わなかった息子との楽しい日々が続いていた。
******
ルヴィアは朝の6時に目を覚ます。寝起きは悪い方ではあったが、早めの就寝を心掛けて何とかこの時間に起きれるようになった。
行かず後家の名家令嬢だったころや、当主名代として夜会とロビー活動に駆けずり回っていた頃からは考えられない程に、健康的で真っ当な生活を送っている。
ただそれでも、この家では早起きとは言えない。
ベッドから這い出れば寝ぼけた頭とふらつく足取りで洗面所に向かい、冷たい水で顔を洗う。
鏡に向かって笑顔を浮かべれば、氷のように冷たく鋭利な美貌が映る。低血圧の彼女にとって、この時間はどうしても血行がよろしくない。
なまじ美人なだけにその表情にはえも言われぬ迫力がある。この顔で保育士に遭遇すれば悲鳴を上げられるし、幼子に会えば泣かれてしまうような美貌だった。
「あ、おはよう。母さん」
ただしその一言を貰えれば、正しくはその声を聞けば、ルヴィアの血液は稲妻の如き速度で身体を駆け巡る。
あまりの血流の巡りに鮮血が鼻から噴き出しそうになるが、しかし今の暮らしを始めてからはこれは毎日の事だ。
さすがに彼女も慣れてきて、鼻血を我慢する努力は最初の頃に比べれば一割も減っている。
ちなみに挨拶をした彼女の最愛の息子ことセージは、幽霊が徘徊してるみたいで怖いから早めに声をかけてと周囲から頼まれているのだが、それはルヴィアの知る由もない事だった。
「おはよう、セージ。今日も早いのね」
「まあ習慣ですから、母さんは無理をしないでね」
そう言われて、ルヴィアは苦笑した。
息子は彼女よりも一時間は早く起きていて、食事の準備や道場での朝練をしている。
家族での朝食のために邸内に戻ってきているが、この後も炊き出しの手伝いと朝練の続きが待っている。
ルヴィアとしては炊き出しや朝食作りの負担だけでも肩代わりしてあげたいのだが、朝五時に起きるのも大量の料理もまだまだ彼女には荷の重い仕事だった。
「ええ、そうね」
今でさえ辛く役立たずになっているのに、これ以上早起きをしてもとんでもない足手纏いにしかならない。彼女自身がそれを――何度かの失敗を経て――分かっているから反論せず受け入れた。
ちなみに息子に早起きの秘訣を聞いた際は、早めに寝れば起きたい時間に起きれるので意識した事は無いですとの答えが返ってきた。
ちなみに息子の就寝時間は夕食後の妹との宿題を見た後なので、ルヴィアよりも遅い。だから凄いぞと思っていた。
「朝ごはんでしょう? 行きましょう」
ルヴィアはそう言って、セージと連れ立って食卓へと向かう。
セージが事前に下ごしらえをし、セルビアが仕上げた朝食がちょうど出来上がったところだった。
「おはよう、セルビア」
「……ん」
セルビアは短くそう言うと、顔を背けた。
明るく人見知りをしない子だと聞いているが、大事な兄の実母という事で勝手が違うのだろう。
嫌われているわけでは無いし、よく見れば背けられた少女の頬は少し赤い。時間をかければちゃんと仲良くなれるだろう。
セージにとって特別な子は、ルヴィアにとっても特別なのだ。ちゃんと可愛がりたい。セージは大人びていて可愛がらせてくれないし。
そう思ったところで、ふと同い年のエメラの顔が脳裏に過った。
姪っ子はエルシール家で廃人の様に過ごしていた自分を気にかけてくれた。癒しだった。
エルシール家は先の一件で名家ではなくなった。権威も財産もほとんどが取り上げられ、国賊の烙印を押された。まともな将来は望めないだろう。
無垢な少女から全てを奪ったのは、他ならぬルヴィアだ。
「どうかしました?」
セージに問いかけられ、ルヴィアは心の中で魔法の言葉を唱えた。
kill my heart.
心配をしてもらう権利などない。
「いいえ、何でもないわ」
ルヴィアは笑顔でそう答えた。
三人は出来上がった料理を食卓へと運び、ほどなく道場から家長のジオが、庭で朝の運動を終えたシエスタが、離れから寝起きのマリアがやって来て、みんなで食卓を囲んだ。
******
軽めの朝食――ジオ、セージ、セルビアは朝練前に少し食べているし、女性陣はそこまで食が太くない――を終えれば、シエスタはマリアを伴って役場に、セルビアは学校に、そしてセージもまた仕事に向かう。
セージの仕事はギルド以外にも商会に顔を出したり、縁のあるいくつかの道場で指導もやっている。
今日はその道場巡りをする日だった。
この商会傘下の道場は前回の精霊感謝祭で守護都市に上がり、ブレイドホーム家の道場に入ることを希望しながらも選考からあぶれた者たちが入った道場だ。
ブレイドホーム家の二枚看板であるセージとジオがそれらの道場に出向いて指導をすることで、道場がブレイドホーム家傘下にある事を内外に示し、道場は皇剣と皇翼の指導を得ているという箔を得る。
そして道場生はギルドでパーティーを組む際、あるいは仕事を受ける際に、そして守護都市を降りる際にブレイドホーム家の意向をある程度は斟酌してくれるようになる。
それだけを聞けば不当な搾取であるが、道場生にとってもギルドから提案される仕事で、あるいは引退後の就職斡旋で、ブレイドホーム家がギルドに睨みを利かせてくれるというメリットがある。
特に今のギルドはジオやセージの庇護下にある戦士を軽く扱うわけにはいかない。それは今だに不正の蔓延る守護都市において何よりも得難いメリットだった。
ルヴィアはセージを見送った後、一度本邸に戻った。ジオもブレイドホーム家の道場での指導に残っているが、そちらで手伝える事はほとんどない。
冷やした濡れタオルなどを準備して、道場生の汗を拭ったり打ち身を冷やしたりする事ぐらいはできるのだが、前に道場生が訓練に身が入らなくなるからと追い出されていた。
なので彼女は託児所と道場の帳簿記帳、取引先とのやり取り、あるいは役所に提出する書類整理と言った事務仕事の手伝いをする事にした。
もっともそれらは雇っている保育士の仕事だ。シエスタとミルクが十分に教育しているため、一通り問題なく仕上がっている。ルヴィアはそこに不備がないかを確認するだけで良い。
エルシール家での当主名代をやっていた頃に比べれば量も質も軽い仕事だ。加えてルヴィアはブレイドホーム家に監視されている身分であり、大事な仕事を任されて良いとは思っていない。
あくまでシエスタやセージが最終チェックをする前にミスを洗い出し、保育士に修正を指示して二人の負担を減らすのが目的だった。
ともあれそれは二時間もあれば終わる話で、終わった後は託児所の手伝いか商会に顔を出すのがルヴィアのここ最近の日課だ。
「……さて」
託児の手伝いは楽しいし、子供を見る大人の目が増えるという事で役にも立っているはずだ。だが必要かと言えばそうではない。十分な経験を積んだ保育士を何人も雇っているのだから。
「行きましょうか」
だから、今日は商会に顔を出すことにした。
エルシール家の取り潰しに合わせてルヴィアも資金と資産を失っているが、それでも経験や人脈まで失ったわけでは無い。
たった一年でエルシール家を掌握し、その悪行の全てを白日の下に晒した稀代の悪女。それが今のルヴィアの世間の評価だ。
そんな彼女が顔を出すだけで、ミルク代表のポピー商会は大きな商談がやり易くなる。
ルヴィアにしても多くの情報に触れ、そして有力者に印象付けをする機会が得られる。
お互いにメリットの大きい関係で、託児業の手伝いよりもそちらを優先させるのは合理的な事だろう。
ルヴィアはそう思って、庭に響く子供たちの楽し気な笑い声から遠ざかった。