289話 絶望の始まり~~IF~~
彼は孤独だった。
生れ落とした母の顔も知らず、物心ついた時には残飯をあさる生活をしていた。
「ですがそれでも、あなたを生んだ母はいます。もう死んでいますけどね」
非力で幼い時分を生き延びる事が出来たのは偏に幸運と、彼の生きようという意思が人並外れて強かったからに他ならない。
「それは認めましょう。あなたには幸運を得る導きがある。そして誰かを糧にしてでも生きようという意思が」
だが孤独な彼に手を差し伸べるものがいなかったわけではない。
「そう、あなたは糧を得ることで生き延びる」
そんな親切な誰かたちは、その優しさから身を滅ぼしていった。
彼はそれを見て、優しさは人を殺すものだと学んだ。
「いいえ、優しさを貪るものが彼らを殺したのです」
彼はだから、優しい人たちと関わらないように生きてきた。
「あなたは絶望の神子。
あなたが愛した人たちこそが、絶望に襲われその命を贄とされる」
彼にはわかっていた。
一生を独りで生きるべきなのだと。
それでも誰かの温もりが欲しいと思う事が、彼にもあった。
寂しいと思う事があった。
そんな彼に、手が差し伸べられた。
俺と来いと、男がそう言った。
「アシュレイ・ブレイドホームがそうであるように」
その男も死んだ。
彼がその手を取ったから、死の運命が定められてしまった。
******
連合歴322年某月。
精霊都市連合〈エーテリア〉にて、英雄とまで呼ばれた男の処刑が執り行われることとなった。
名をジオレイン・ベルーガー。
血の繋がった娘でもあったケイ・マージネルを殺害。
その後、守護都市警邏騎士団本部と幹部邸宅に襲撃をかけ多くの人命を奪った大量殺人犯。
犯行の動機は政庁都市で強盗を繰り返し殺処分された、義理の息子の仇討ちだった。
犯行後、皇剣ラウドを筆頭にした討伐隊に捕縛された彼は、秘密裏に政庁都市へと運ばれ監禁されていた。
捕まってから処刑されるまでの三年間、彼には食事どころか水の一滴も与えられていない。
そうだというのに彼は、憔悴こそしていたものの、その日まで命をつなぎとめていた。
人間ではないと、彼を監視してきた近衛騎士たちはそう言った。
そしてそれは間違いではなかった。
強制的に竜の呪いを活性化されろくに魔力も使えず、全身に特注の枷を繋がれ、彼は精霊エルアリアに仕える至宝の皇剣サニア・A・スナイクと対峙し、出生の秘密を告げられた。
ジオは魔族の住まう帝国、そこに鎮座する絶望を告げる魔女の落とし子なのだと。
正確にはその血を引き、先祖がえりを果たした神子なのだと。
神子とは生まれながらに上位存在と契約を果たした者を指す言葉である。
だがその説明は正確ではなかった。
現世神は本来、子をなさない。世界に奉仕するため死を失った彼らには、その必要が無い。
それでも何かの間違いで交わりを持ち、子が生まれることがある。
生まれた子供は現世神の権能の一部を遺伝し、生まれながらにして世界と強い結びつき――即ち、魔力を持つ。
滅多に生まれぬそれらに倣って、生まれる前から上位存在に愛された者を神子と呼ぶのである。
ジオは正しい意味での神子であった。
先祖は絶望を告げる魔女。
魔女は現世神でありながら世界に奉仕することを止め、俗世に染まった異物であった。
彼女の子は多くいて、その子孫の血を濃くすることで彼は生まれてきた。
魔女を殺す、剣として。
彼に宿る神の血は、彼の覚醒を促すため多くの試練を導いた。
絶望という試練を。
その試練に取り込まれる形で、アシュレイ・ブレイドホームは殺された。
お前のせいで殺されたのだと、サニアは彼に告げた。
彼はそれを嘘だと思いたかった。
彼はそれが真実だと知っていた。
なぜなら彼の親しい人間はみんな死んでいったからだ。
例外はたった一人だけ。
一人だけしかいなかった。
その一人すらも、サニアは死んだと言った。
彼の呪いを解くために心臓を捧げたのだと、彼に弟の心臓を見せつけてそう言った。
呪いはしかし、解かれなかった。
多くの絶望を抱える彼と、数多の絶望を封じ込めた心臓。
竜の呪いは彼を選び、離れることはなかった。
サニアはそれを理解して、失望とともに言った。
「あなたが娘を殺さなければ、保険を使う必要もなかったのですけどね」
そして、処刑の日がやって来る。
国立闘技場。
英雄の処刑という一大イベントに、しかし観覧を許された客はいない。
幾重もの結界に守られたその中央闘技台に、役者だけがそろう。
痩せ衰え、枷をはめられたジオ。
至宝の皇剣サニア。
飛翔剣を待機させた臨戦態勢の皇剣ラウド。
隻腕隻眼の皇剣アルバート。
そしてジオの最後の娘、アンネリーゼ。
「それでは始めましょうか。
さあアンナ、この剣でその犯罪者の首を撥ねるのです。
それで悪い夢はすべて終わり、あなたは家族との幸せな生活に戻れるのです」
「はい、しほうのきみさま。
すべてはあなたのおっしゃるとおりに」
サニアの言葉にうつろな目でアンナは答える。
たどたどしく歩くアンナが迫って来ても、ジオは声一つ上げなかった。
それをラウドとアルバートが忌々しげに見据えている。
「かえる。
あたしはかえる。
みんながまってるいえにかえる。
ひとりはいや。
ひとりはいや」
ぶつぶつと、アンナは独り言をつぶやき、ジオの前に立つ。
焦点の合わない眼がジオを収めて、剣を振りかぶる。
「あたしは、あたしは、あたしは……」
「どうしたのアンナ、あと少しよ。悪い夢はそれで覚める。
さあ振り下ろしなさい」
ジオは黙ってその時を待つ。
死ぬのが怖くないわけではない。
未練が無いわけではない。
それでもここで抵抗する気にはなれなかった。
アシュレイが殺されたかつての皇剣武闘祭の決勝で、ジオはラウドに一方的にやられた。
それはアシュレイを徹夜で町中を駆けずり回って、喧嘩もして、憔悴していたことが大きな原因だった。
もしもアシュレイが行方不明になっていなければ、ジオは万全の状態でラウドと戦えただろう。
そしてその結果、手加減する事が出来ずにラウドはジオを殺す事となる。
ジオに訪れる致死の運命の回避、成長を促す敗北の経験、そして神の血を目覚めさせる糧を生み出すため、彼の血は因果の巡り合わせに作用をもたらした。
だからジオは諦めて死を受け入れる。
ここで抵抗するならば、ジオの血は神子としての適性で劣る娘の命を貪ると、そう教えられていた。
そして死を受け入れるのならば、同質の血を持つアンナがジオのそれを封じ込めると、そう教えられていた。
アンナがいれば、その呪われた命を断てるのだと。
この絶望に終わりを告げてくれるアンナの剣は、高く掲げられたまま小刻みに震える。
「どうしました?
早くしなさい」
「あぁ……」
サニアに急かされて、アンナは嗚咽を漏らす。
焦点の合わない瞳からは涙がこぼれた。
そして掲げられた剣も、手からこぼれて地に落ちた。
「ちっ、使えない。
いいわ。効率は落ちるけれど、アルバート。あなたがやりなさい」
「……わかった」
アルバートはそう言って――かつて恋した少女が使っていた――大剣を抜き、ジオへと歩む。
「憐れだな、英雄」
「……ふん」
ふてぶてしい態度のジオに、アルバートは惜別の思いと共に大剣を振り下ろそうとして、しかしすさまじい衝撃と爆音に阻まれる。
サニアが小さな悲鳴を上げる中、ラウドとアルバートは衝撃の正体に目を向ける。
アルバートはサニアの護衛に付き、ラウドはその正体に飛翔剣を向ける。
闘技場の天井をぶち破って現れたそれはワイバーンと、それを駆る魔族と、その背にしがみ付く男だった。
「なんで」
サニアがそう言った。
「お前が誰も立ち入るなと言ったからだろう」
上級の魔物の侵入を許し、なぜ報告が無いのか。
そう問うたのだと思ってラウドが答えた。
「なんで」
サニアは繰り返した。
「安心しろ、すぐに片を付ける」
ラウドは重ねて言った。
だがその言葉はそもそもサニアに届いていなかった。
「なんであなたが生きているのよ」
サニアはワイバーンに跨る男を誰よりも早く理解して、そう言った。
彼女よりわずかに遅れて気が付いたジオは、その目に光を取り戻した。
ワイバーンとそれを駆る魔族、そしてその背に乗る男に向けて飛翔剣が襲い掛かる。
ワイバーンの翼は大気を自在に操る。
しかし竜を殺すために作られた飛翔剣はその暴風の壁を容易く切り裂いて迫る。
前後に上下に左右。
逃げ場なく囲い込んで襲う六つの剣。それは絶対の必中であり、必中の必殺。
そのはずの殺界は、しかし一人の男の手で破られる。
魔族の背にいた男は、瞬間的に爆発的に魔力を高めてそこから飛び出す。
音よりも速い飛翔剣より、なお速く。
己こそが最速だと謳うように、男は飛び出し刀を振るう。
そうして針の穴を通すような正確さで二本の飛翔剣を切り落とし、ワイバーンが逃げる道を作って見せた。
ワイバーンは作られたその道に逃げ込み、ラウドが腹いせに破裂させた飛翔剣の破片を、翼の力で防ぎきる。
「生きていたか、死神」
喜色を隠せずラウドが言い、アルバートもまた歪んだ喜びで笑みを作った。
「はっ、ははっ、知ってる。知っている。知ってるぞ。俺はお前の技を知っている」
男は笑って、空を駆け降りる。
サニアが発狂気味に叫び声をあげ、ラウドが残る飛翔剣でワイバーンを襲い、アルバートが狂気で己を高めて男に突撃しようと、した。
その瞬間に、ジオは結界を作った。
それは場を支配し、世界を作り変える神の権能。
神子であることを理解した彼はその瞬間、竜の聖域を超える強度でその結界を作ることに成功した。
だが限界を超えて追い詰められ、竜の呪いに蝕まれつくしたジオにとって、それは破滅を決定づける一手だった。
それをわかった上で、ジオは迷わなかった。
ジオはラウド、アルバート、サニアの三人の動きを封じ、飛翔剣を地に落とし、そしてアンナを吹き飛ばした。
この世界で誰よりも信頼できる男に向けて。
神域を発動してできたのはそれだけ。
その一瞬で本当に全ての魔力を使い果たして、ジオは倒れ伏す。
身体はもう動かない。
血も肉もすでに幻想。
魔力が無ければ維持する事もできない。
絶望の神から零れ落ちた力の、その残り滓すら使い果たした。
それでも何もせずにはいられなくて、ジオは声を張り上げる。
「たのむっ‼」
ただ一言。
力を振り絞って言えたのは、ただそれだけ。
それでも伝わると信じた。
アンナを抱きとめた男は、裏切り者を見るような怒りと最愛の人を失うような悲しみをその眼に浮かべて、ジオに睨み返した。
そして降りるのを止めて高く跳び、ワイバーンの背に戻った。
「逃げるぞ、アルドレ」
「良いのか、デイト」
「うるせえ知るか糞が飛ばせっ‼」
アンナを抱えたデイトを回収し、ワイバーンと竜騎士は去っていく。
「な、何をしてるのですか。追いなさい。今すぐに」
サニアの命令に、ラウドは剣に乗って空を飛び、アルバートは跳んで走って応えた。
「なんで、なんで生きているのよ」
残されたジオは、そう繰り返して呟くサニアを見て嘲笑った。
サニアの人形のような美貌が険しく歪む。
「死にぞこないが、何を笑っているのかしら」
「く、ははは。しらないのか、サニア。せいれい、エルアリア」
もはや口を動かす事すら難しくなったジオを、サニアは冷たく見下す。
「何を知らないというのかしら」
「あいつは、ふじみだ」
それがジオが発した生涯最後の言葉だった。
激高したサニアに首を撥ねられ、ジオは死んだ。
胸を抑えうずくまるサニアを見ながら、悪くない最期だと消えゆく意識の中でジオは思った。
あいつなら何とかするだろう。
心配はしない。
死ぬことももう怖くはない。
ただ一つだけ、未練があった。
誰かを殺して生きるだけの生涯だった。
俺と来いと、かつて大きくて強い男がそう言った。
あの人のように、誰かを生かせる男になりたかった。
あの人ほどではなくても、せめてこの手に抱えられるくらいの人は、家族ぐらいは守れる男になりたかった。
それだけが未練だった。
◇◇◇◇◇◇
そうか。