169話 アベルの答え
剣を携えて家を飛び出したアベルは、息を切らせながらその場所にたどり着いた。
普段から鍛えている体はしかし今はとても頼りなく、ここまで走ってきただけで玉のような汗を流し、激痛を訴えていた。
アベルは確かに鍛えており、同年代のギルドメンバーと比べても優れた魔力量と肉体を持っている。だがそれでもその体はセージのような破格の加護も、ケイのような異端の血も混じっていない、まっとうな人間のものだ。
常人ならひと月以上はベットの上で過ごし、その後は長く苦しいリハビリが強いられるほどの大怪我を治癒魔法という外法の技で誤魔化し、それを鍛えてきた魔力と体力で支えていた。
その体は例えるなら米粒で割れた茶碗をつなぎ合わせたようなものだ。時間をかければその米粒が茶碗と同化するが、乱雑に扱えばすぐに剥がれて容易く割れる。
ここまでの道のりを走っただけでも、それは如実に現れていた。
他ならぬ自分の体なのだ。
無理をしていることも、すぐにでも休息が必要だということも、アベルにはよくわかっている。
だがそれでもじっとはしていられなくて、ここまで来た。
そうしてたどり着いて、しかしその場所にはセージもフレイムリッパーもいなくて、アベルは力尽きて座り込んだ。
「……なにしてんの、あんた」
「ケイ、か」
「あ、うん……。いや、そうじゃなくて、こんなところに来て大丈夫なの。病院連れていこうか?」
地べたに座り込むアベルを見つけて声をかけたのはケイだった。
二人がいるのはフレイムリッパーがシエスタたちを襲った現場だった。
そこは戦闘の痕跡が未だに色濃く残っていた。
多くの建物が倒壊し、路面の舗装が剥げところどころ焦げている。
何人もの騎士が規制線を張り人の出入りを制限して何事かを話し合う傍ら、瓦礫の撤去に土木関係者が行き交う、とても騒がしく忙しい状況にあった。
ケイもセージを探してここに来ており、その当人はいなかったが見分中の騎士に捕まって、折角だからと事件当時のことで説明を求められたため、遅れてやってきたアベルとばったり顔を合わせることとなった。
「……いや、いや。僕は、大丈夫。
そんな事より、あいつを探さないと」
「全然大丈夫じゃないよ。水持ってくるから、そこに座ってて」
ケイはそう言うと騎士たちの休憩所から紙コップに水を入れて持ってくる。少しだけ躊躇ってアベルの横に座り、その紙コップを手渡した。
「はい」
「……すいません」
「――ちょっといいかな。そちらの君は関係者だね。もしよかったら当時の状況を聞きたいのだが」
自分がまともに動けないことを嫌でも理解しているアベルは、ケイに勧められるままに水を飲んで小休止を受け入れた。
そこに声をかけたのはアベルが事件の当事者であることに目ざとく気づいた、見分中の騎士の一人だった。
「だめ。体を休ませないと」
「――いえ。ケイ、僕なら大丈夫。その代わり、わかったことを教えてもらえませんか」
「無理するな、馬鹿。あとでお祖父様がいくらでも教えてくれるから、今は病院に行こう。
セージも、私が探しておくから」
ケイがそう言うと、騎士の眉がぴくりと動いた。彼らが調べているのは当然のことながら部外秘のものだ。
事件の当事者に対しては確かにある程度の情報公開をするが、それでもあくまでそれは一部に限られるのが常である。それを覆して当たり前と言われれば、やはり騎士としては面白くなかったのだ。
もっとも警邏騎士たちの最高責任者であるエースが良いと判断するなら騎士としては反対するつもりはないので、口に出しては何も言わなかった。
「だめだ、それじゃあ、それじゃあ僕は、僕は、何のために――」
――何のために、生きているのか。
言葉にはできなかった思いが、アベルを苛む。
命をかけても大事な人を守れず。
その命も大事な人も弟に救われて。
その弟の役に立つこともできずにこうして気遣われるだけの無様さ。
お前は弱いと、その言葉が思い返される。アベルの胸をじくじくと妬いて黒く焦がしていく。
「……失礼した。話を聞くのはまた後日とさせてもらおう。ゆっくり休んでくれ」
そんなアベルの様子を見た騎士は少し恥じ入った様子で目を伏せてそう言い、加えてケイにも声をかける。
「お嬢様。人手が必要なら言ってください。病院まで運ばせます」
「ごめん。その時は頼らせてもらう。ありがとう」
騎士に対して仕事の邪魔をしたことへの謝罪と、善意への感謝を告げて、あらためてケイはアベルの様子を窺う。
浅い呼吸を何度も繰り返し、顔の色は蒼白で、油汗がにじんでいる。体から漏れるか弱い魔力も、統制を失っていて乱れている。
治癒魔法によって閉じた傷口は、まだ開いていないようだが、これ以上無理をすればそれはすぐにでも訪れるだろう。
ケイはアベルの横に腰を下ろした。
こういう時、なんて言っていいのかコミュ力に乏しいケイにはわからない。
アベルの様子は、一年前の自分に似ている気がした。心も体も傷ついている。
自分はどうやって立ち直ったかと、ケイはそのきっかけを思い出す。
「はっ。知りませんよ、そんな事。ごめんね、なんの苦労も無くすくすく育って強くなっちゃって。このまま私は親父よりも強くなるけど、ごめんね。才能があって。
――それで、貴方は私の何が欲しいのかな?」
……たぶん、いや、間違いなくそれではダメだと、ケイは一人で横に首を振った。そしてその時のことを思い出したら腹が立ったので、今度稽古にかこつけてぶん殴ってやろうとも思った。
ただ今はアベルだと、気持ちを切り替える。
「その、元気出しなさいよ。護衛の騎士は残念だったけど、シエスタは守れたんでしょ」
「……ああ、セージがね」
「せ、セージが来るまで時間を稼いだんじゃない」
なんとかケイはフォローしようと思うが、アベルは暗い顔で静かに頭を横に振った。
「僕は、遊ばれただけだ。時間なんて稼げてない。
セージが間に合わなかったのは、僕が弱かったからだ。
間に合わなくて、それでも何とかできたのは、セージが特別だからだ」
呼吸の整わないアベルは、苦しそうにそう言葉を繋いだ。
「じゃ、じゃあ強くなればいいじゃない。あんたは生きてるんだから」
「……ケイは、僕が君や父さんと同じぐらいに、強くなれると思う?」
「それは……」
咄嗟に答えられず、ケイは口ごもった。
アベルは十五歳という若さで、守護都市でも最低限は通用する中級下位に総合的な戦闘力では至っている。実戦経験の不足等、マイナス要素もあるが、それでもそこには優れた才能と並大抵でない努力が垣間見える。
だがそれでも、ケイには遠く及ばない。
ケイは十歳か十一歳の時には今のアベルぐらいの実力を持っていた。話でしか聞いたことはないが、ジオもそうだろう。そしてセージに関しては言わずもがなだ。
アベルは優秀な才能をもつ努力家だが、あくまでその程度だ。ケイたちのような特別な化物には及ばないし、セージのように足りない才能と経験をバックアップする加護もない。
長く鍛えれば上級にまでは到達できるだろう。だが上級でも下位か、好意的に見積もっても中位止まりだろう。
戦士としてのアベルをそれほど詳しく知っているわけではない。それでもケイの目は、アベルの限界を見抜いていた。
「フレイムリッパーは、君たちと同じだったよ。僕じゃああいつには勝てない。あいつは殺せない」
諦めているというには陰鬱な情念のこもった声で、アベルは言った。その雰囲気に飲まれたケイは何も言えなかった。
「ありがとう。話ができて、気持ちも整理できた」
「そ、そう」
「それじゃあ、僕は行くよ」
アベルはそう言って、剣を杖にして立ち上がった。
「ちょっと、どこに行くの? 病院に行かないと」
「もう退院したよ。大丈夫だから、少し一人にさせてくれないかな」
ケイはそう言われて口ごもった。アベルが邪魔だと感じている事はっきりと伝わっている。
ケイは歩き去っていくアベルに嫌われたくないと思って近寄れなくて、しかしだからと言って一人にさせるのは心配で、距離を取ってその後ろに付いて歩いた。
怒られるんじゃないかと、びくびくと怯えながら、ケイはアベルの後ろをついていく。
誰かを、マギーやマリアを連れてきた方が良いんじゃないかとも思った。それでも今のアベルから目が離せなくて、ついていった。
二人が歩いた距離はそう長くない。
そもそもアベルの身体は少し休んだくらいで治るものではない。むしろ一度休んで緊張の糸が切れてしまったせいで、否応なく体が上げる悲鳴に容易く屈してしまう。
アベルは堪えきれずに膝から崩れ落ち、地べたに手を付いた。
ケイは慌てて駆け寄って手を差し伸べ、アベルはその手を乱暴に払った。
「一人にさせてと言っただろ!! 邪魔なんだよ! お前っ!!」
アベルは叫んで、そして結果として生まれた肺の痛みに耐え切れず咳き込んだ。
ケイは泣きそうな顔で硬直し、アベルの咳が収まる頃にようやく再起動を果たして、ゆっくりと後ずさった。
「ご、ごめんね。余計なことして」
涙目のケイはそう言ってその場から走り去ろうと踵を返し、思わぬ顔を見つけて驚きに再度体を硬直させた。
そこにいたのはセージとジオで、ケイはなぜだか見られてはいけないものを見られた気分で、とても恥ずかしかった。
セージは顔を赤くするケイには目もくれず、真っ直ぐにアベルに向かって歩み寄った。
アベルは来ないでくれと、そう願い、顔に出して、それでも言葉は出ずにセージが歩み寄ってくるのを見つめ続けた。
「帰るよ。立って」
「ちょっと、セージ……」
咄嗟にケイは、立って歩ける状態じゃないと口をはさもうとして、しかしそんな当たり前のことを伝えるのがとても場違いな気がして口をつぐんだ。
「帰るよ」
「……」
再度促されて、しかしアベルは答えずに俯いた。
「帰るよ」
「……ない」
セージはもう一度繰り返した。アベルは、小さな声で返事をした。
それが聞き取れなかったわけではないが、セージは再び同じ言葉をかける。
「帰るよ。立って」
「帰ら、ない。僕はもう、あの家には、帰らない」
アベルは苦しそうな声で、それでもはっきりとそう答えた。