167話 ありがとう
アベルたちは沈んだ空気のままブレイドホーム家にたどり着いた。
「そ、それじゃあ私はこっちだから」
シエスタはそう言ってアベルの様子を窺った。アベルはその気配を感じて、小さく頷いた。シエスタは離れに小走りで帰っていった。
「……アベル。シエスタ、泣きそうだったよ」
「――っ。なん、で?」
「知らない。バカ。
ただいまー。セルビアー、ちゃんと大人しくしてた?
ミルクさんに迷惑かけちゃダメなんだからね」
マギーは頬を膨らませて家に入った。
アベルは意味が分からず混乱するが、ジオに背を押されて家の中へと入った。
「おかえりー」
「おかえり」
「ただ、いま」
セルビアとミルク代表に迎えられ、アベルはなんとか声を絞り出す。
「おかえりなさいませ。どうやらめでたく無事に退院というわけではないようですね」
「来ていたのか」
「いけませんか?」
出迎えたマリアは恭しく礼をするものの、そっけない言葉をかけられ簡単に喧嘩腰に変わった。とはいえジオも慣れたもので、特に気にすることなく首を横に振った。
「そうは言っていない。折角だ。留守を任せる」
「私はあなたの部下ではありませんが、まあ良いでしょう。お嬢様も外に出ていますので、もし会う事があればよしなに」
「わかった」
ジオは来客のマリアと会話をし、そのまま外に出た。
「……どこに?」
「……セージが出かけてるから、迎えに行ったの」
アベルがそう尋ねると、マギーが奥歯にものが挟まった物言いでそう答えた。
アベルはそう、と相づちを打って、歩みを進める。
「アベルは、どうするの?」
「部屋で寝る。疲れたから」
アベルはそう言って自室に引き上げていった。
「……重症だな」
「そうですね」
「アベル、ケガ治ってないの?」
セルビアが大人二人に心配そうな声で尋ねた。
「いや。怪我じゃなくて心の問題だ。
まあ心配するな。お前たちの兄は立派なやつだからな。ちゃんと立ち直るさ」
ミルク代表はそう言ってセルビアの頭を撫でた。
「……さて、もうひとりの病み上がりの様子でも見てくるとするか」
******
アベルは自室に戻って、ベッドに寝転がる。全身に倦怠感が広がっているというのに、眠気はない。頭の中のグルグルが加速している。
シェスが泣きそうと言われた。きっと自分のせいで。
胸の痛みがどんどん大きくなる。
大事な女性を守れない自分。
大事な女性を泣かせる自分。
何もかもが嫌になる。
そもそも立派なシエスタと弱い自分は釣り合っていなかった。
だから嫌われて当然だ。失望されて当然だ。
きっと釣り合う男にはなれやしない。
僕にはフレイムリッパーは殺せない。
半端に鍛えたせいで、あいつがどれだけ強いのかわかってしまった。
きっとあいつが居るのは父と同じ場所。
セージならともかく、僕ではそこにたどり着く事はできない。
そこまで考えて、アベルはふと気づくことがあった。
セージがいない。
だから父が迎えに行く。
なにかがおかしい。
ああ、そうだ。おかしいに決まっている。
父があのセージを迎えに行くなんて、心配していると言っているのも同じことだ。
だから、心配するだけの理由があるのだ。
アベルの頭が正常な回転を始める。あるいはそれは暗い思考の坩堝から抜け出したくて始めた現実への逃避。
考え始めればその答えは簡単だった。
セージは昨日には退院していたと聞いている。そしてマギーのあの様子からして、家に帰っていない。心配させまいとアベルに隠そうとしたのだとわかった。
ならセージは何をしているのか。
あいつは、あいつならきっとフレイムリッパーも殺せる。
だから――
「――っ!!」
アベルはベッドから飛び起きた。
それはダメだ。それはダメだ。
それをやるなら自分がやらなければならない。
アベルは地下室へ行った。そこで今の自分でも振るえる武器を手にとって駆け出した。
セージはフレイムリッパーを殺す気だ。
でもあいつに人殺しなんてさせちゃあいけない。
あいつにそんなのは似合わない。
だから僕がやらないと。
僕は、あいつの兄なのだから。
******
一方のセージは一人、薄暗い路地裏に腰を落とし、うずくまっていた。
全身を覆うほどの大きなボロ布に身を包んで、そこらの浮浪児のように装っていた。
ただしボロ布の下は完全武装だ。
手になじむ愛用の鉈に、予備武器としてナイフを一本。
魔物との戦いではリーチと重さを補える長柄の武器の方が便利だが、対人戦ならばむしろ懐に入り込んで取り回しやすい得物の方が勝ると判断した。
服やブーツもこの一年で買い揃えたオーダーメイドの呪鍊兵装。さらには使い捨ての魔道具も腰に巻いたポーチに詰めこんでいる。
戦う準備は万全。
しかし戦うべき相手は、殺したい相手は見つからない。
セージがいるのはいつかの夢で見たアベルが殺された現場。
一度はここでフレイムリッパーを見つけるのを諦めたセージだったが、しかしもう探す当てはここ以外は無くなってしまっていた。
フレイムリッパーを見失った現場にはもう何の痕跡も残っていなかった。
エースに頼み込み警邏騎士が持つ襲撃者たちの調書を見せてもらったが、フレイムリッパーにつながるものは何もなかった。
ダメもとで、そこで分かったクラップのアジトに忍び込んだが、やはりフレイムリッパーとは何の関係もない小悪党たちの集会場でしかなかった。
全員を叩きのめして尋問したが、有益な情報は得られなかった。
それらを一晩で済ませて、セージはここにやって来ていた。
夜も明けない薄暗い時間から、微動だにすることなくセージは過ごした。
精神は研ぎ澄まされている。病院のアベル、シエスタを見つめ、さらにブレイドホーム家に居るミルク代表やマギーたちからも一時も目を離さず仮神の瞳で見守り続けた。
精神は研ぎ澄まされているが、しかし同時にそれは精神をすり減らし続けていることを意味している。
だがそれでもセージは休息は取らず、家族と、そして周辺の警戒に神経を注ぎ込む。
身から漏れる魔力は周囲に同化させていたが、しかしその身から発する緊張感は時に統制を失って漏れることもあった。
それは良い浮浪者避けになっていたが、しかしそれでも小さな浮浪者に興味を持つ者はいる。
「……なに、してるの?」
セージに声をかけたのは、セージよりもさらに幼い子供だった。
薄汚れた服装はセージのような偽装ではない。いや、見ただけでは分からないが、セージの魔力感知はその幼い子供が女の子であることを見抜いた。
必要以上に汚れた格好をして身を守っているというのなら、ある意味では偽装と言えるかもしれない。
「邪魔だ。消えろ」
どちらにしろセージにとっては関係がない。興味がない。
女の子はびくりと肩を震わせ、数歩セージから距離を取る。
それでいいと、セージは思う。
助けられる数には限りがある。身内も、世話をすると決めた不良たちも救えなかった自分が、余分なものに手を差し伸べるべきではない。
だが女の子はその場からは去らず、再び恐る恐るに近づいてきて、セージの顔を覗き込んだ。
セージは女の子を思い切り睨みつけた。
「ひぅっ!!」
女の子は尻餅をついて、その場から走って逃げていった。
セージは知らずため息をついた。八つ当たりで小さな女の子をいじめた気分になって、軽い自己嫌悪をしたのだった。
セージはしかしすぐに自分の中に埋没して、家族や周辺を探る作業に戻る。
心は死んでいる。
そう魔法の言葉を心の中で唱える。デス子からの魔力供給を受け取るためではない。
それはセージにとって、スポーツにおけるルーティンのようなものだ。
文字通りに心身を限界まで使うための意識的なマインドセット。
フレイムリッパーを見つけ、そして殺すために全神経を注ぎ込む。本当に見つかるかどうかもわからない状況で、摩耗していく精神を酷使しながらセージはその作業を続けた。
「……ちっ」
頭の中にノイズが走って、セージは舌打ちをした。集中が乱れた理由は周辺の警戒範囲におかしなものを見つけたから。
それは見捨てるべきだ。
結論は先ほど出した。
助けないと決めた。
なら目の届く範囲で不幸が起きたところで他人事だ。
――ああ、そうだというのに気分が悪い。
女の子が襲われた理由がわかってしまう。
女の子の感情が読み取れてしまう。
ひどい勘違いだ。
なぜ私が助けられないといけない。
セージは腰を上げる。
別に助けに行くわけではない。
ただ女の子の思い上がりを正すためにそうするだけだと、自分に言い訳をして。
その現場はそう離れた場所ではない。
小さな女の子がパンを持ち、それを浮浪者の中年男性が奪おうとしている。
「そこまでだ」
セージは中年の男にそう言った。
「な、なんだお前は。邪魔すんな。これは俺のだぞ!!」
「ちがう!! あたしの!! おにいちゃんにあげようと思ったの」
セージはため息をこらえ、魔力をのせて男を睨む。
「ひぁっ!!」
男はそれで腰を抜かし、何が起きたのかわからない女の子は呆気にとられる。セージはボロ布の下を少しだけ顕にし、腰に差した鉈を男に見せつけた。
「失せろ。恥知らず」
セージがそう言うと、男は一目散に逃げていった。
セージは鼻息一つ鳴らして、その場を後にする。
女の子は、その背中に駆け寄ってきた。
「あ、ありがとうね」
「失せろと言ったはずだ」
セージはそれだけ言って元の場所に戻り、腰を下ろす。
女の子もやってきて、隣に座った。
「……」
「……ぱん、たべる?」
「……食べない」
「たべると、げんきでるよ?」
「……自分が食べろ」
えへへと、女の子は笑った。嬉しそうな感情だった。セージはそれが理解できなかった。
「……なんだ」
「おにいちゃん、やさしいね」
「そんなことはない」
「ねえ、いっしょにたべよ」
女の子はそう言ってパンを半分にちぎり、セージの手に押し付ける。
残った半分に女の子はかぶりつく。
セージも仕方なくそのパンにかぶりついた。
「おいしい?」
「パサパサでまずい」
売れ残って捨てられたパンを漁ったか、あるいは恵まれたのか。どちらにせよ普段食べているパンよりもよほど固くて味気ない。それは懐かしい味だった。
「でも、わらってるよ」
「野菜くずのスープが欲しいと思っただけだ」
「……?」
女の子はセージの言っている意味が分からず、それでも言葉を返してもらったことが嬉しかったのか、笑顔をこぼした。
「君、家族は?」
女の子は首を横に振った。そうかと、セージは相槌を打った。それはこの都市では珍しくない話だった。
「でもね。かぞくじゃないけど、おにいちゃんとおねえちゃんがいるの」
「……それは家族って呼ぶんじゃないのか」
「……よんでいいのかな」
「私が知るわけない」
セージがそう言うと、女の子は困ったように笑った。
「心配してるんじゃないのか。一人で出歩いて」
「……うん。でもおにいちゃんがかえってこないの」
「……」
「このまえね、もうかえってこないんだって、おねえちゃんがいったの。だからあたしがつれてかえるの。つれてかえるまではかえらないんだから」
「それは――」
――きっと帰ってこないんじゃなくて、もう帰ってこれなくなっている。
セージはその事に気づいて、しかしどう伝えればいいかわからずに、別の言葉を口にする。
「――もう、家に帰ってるかもしれない。君は家に帰れ」
「でも、さがしはじめたばかりだから」
「いいから、帰ってお姉ちゃんともう一度話をしろ」
「……うん。おにいちゃんも、うちにくる?」
「なんでそうなる」
「だって、おにいちゃんもパパとママがいなくなっちゃったんでしょ」
「……なぜ」
「だっておにいちゃん、ないてたでしょ?」
セージは言われて、目元を拭う。涙は流れていない。その痕もない。
女の子の言っていることは全てが的はずれだ。セージはそう思った。
「最初から私に親なんていない。行くぞ」
ここで戦闘になって巻き込んでは寝覚めが悪い。そんな建前でセージは立ち上がって、女の子を促す。
「うん」
女の子は元気よく応えて、立ち上がった。
◆◆◆◆◆◆
女の子に先導されてたどり着いたのは守護都市にはよくあるアパートだった。
そこは懇意にしている商会が管理する不動産だった。
まさかと、思う。きっと偶然だろうと。
だが女の子に案内され、ここが自分たちの家だと言われた部屋にたどり着き、その部屋の中にいる見知った少女の魔力を感じ取って、偶然ではなかったと理解する。
不良たちの中の何人かが、血の繋がらない兄弟を養っているのは知っていた。
だから家に帰れなくなったお兄ちゃんが、その不良だったとしてもおかしなことは何もない。
ああ、ちょうどいい。
罰が欲しいと思っていたのだ。
英雄の子供だと、天使だともてはやされながら助けられなかった私を、存分に罵ってくれ。
ありがとう。
名も知らない女の子、私をここに案内をしてくれて。