162話 目を覚まして、それを見た
地面に投げ捨てられる衝撃で、アベルは目を覚ます。
頭が痛い。腹が痛い。全身が痛い。
痛みは全て鈍いもので、それは眠気にも似ていた。
このまま寝ていたい。休んでいたい。
気の遠くなる本能的な欲求に、心が全力で抗う。
このままではいけない。寝ていてはいけない。立ち上がらないといけない。立っていないと奪われてしまう。
意識は朦朧とし、それでも恐怖が体を突き動かす。
立ち上がって、前を向いた。どこが前なのかは定かではない。
それでも前を向き、そして大きな音に引かれて向きを変える。
どしゃんどしゃんと、大きなものが絶え間なく落ちて弾ける音だ。
危ない音だ。だからそこに行かないと。
思考はまとまらず、それでも間違えずにそちらに向かう。
そして砂塵の向こうに、アベルはその姿を見つける。
顔は見えない。それでもわかる。そのシルエットだけでわかる。
その人は大事な女性だから。
だから、ああ、やめてくれ。そんなひどいことはやめてくれ。
ぼくにできることならなんでもするから、じべたにあたまをこすりつけろというならよろこんでやる。くつをなめろというならすみずみまでみがく。しねというならためらいなくしぬ。
だからそのひとにひどいことをしないでくれ。
「や――」
声は出ない。想いは発せられない。
肺は痛めつけられてとっくに機能不全。こうして歩いていることが既に限界を超えた所業。そこから先を求めたところで気持ちの空回り。
なにより、そんな時間も許されない。
咳き込むこともできず、アベルはその光景を見る。
男の振るう凶器が、大事な女性を貫いた。
男は女性を捨てて、どこかへ去っていく。
女性は力なくその場に倒れる。
走った。
つまずきながら走った。
もどかしいと思うような速度で、それでもアベルは懸命に走った。
何もかも手遅れだと、こんな無様な走り方しかできないからだと、そんな少しずつ狂いたくになる思考を必死で否定して、走った。
「あ、ああ……」
そうして血だまりに倒れる彼女の、変わり果てた姿と向かい合う。
「ああああぁぁぁぁぁぁぁあああああっっ!!!!!!!!」
いつかの安らかなダストとはまるで違う顔。
いつかの苦しみぬいた両親とまるで同じ顔。
胸からはだくだくと血を噴き出し、ぬくもりは一秒ごとに失われていく。
目は痛みと悲しみと絶望でよどみ、光を失っている。
焦点の合わないその瞳は、それでも助けを求めるように見返してくる。
「――て」
いやだ。こんなのはいやだ。こんなのはまちがっている。
なんでかのじょが。なにもわるくないのに。
「――いて」
あたまがいたい。のどがいたい。しんぞうがいたい。
なにもかもまちがっている。
ひどくわるいゆめなのに、どうしたってこれはさめない。
わかっている。わかっているんだ。
よわかったから。よわいから。まもれなかった。
ぼくが、ぼくのせいで、ぼくは――
「――邪魔だって言ってるっ! どけっ!!」
――ぼくは、僕は、投げ飛ばされた。
大事な人から引き剥がされた。
体の痛みがぶり返す。それでもと起き上がる。
起き上がって、そしてアベルはその異様な光景を目にした。
******
心臓を貫かれたシエスタの前に、セージが立つ。
何をと、アベルは疑問に思った。
何をするのかと、アベルは期待を抱いた。
セージならばと、なんの根拠もない希望を抱いだ。
楽観的で無責任な信頼が、アベルを狂気から正気に少しだけ引き戻す。
セージの周りに濃密な魔力が漂う。何をしているのかはわからない。何かしているのだけはわかる。
助かるのかと、アベルはそう言おうとして咳き込んだ。
声は出ず、何をしているのかも分からず、それでも見逃さないようにと、目を凝らしてその光景を目に焼き付ける。
シエスタに何かをしているセージが、不意に鉈を抜いた。
何をする気だと、緊張を抱くアベルの前で、セージは自らの手首をかき切った。
アベルはその異常な行為に息を飲む。
セージは手首から吹き出す自らの血をもう一方の手で押さえ、シエスタに落とした。
「……儀式魔法」
ぽつりと、そんな言葉が横から聞こえた。
「ここは陣の中だ。下がろう」
いつの間にか傍に現れ、そう促したのはスノウだった。
アベルは何もわからないまま、その言葉に従って立ち上がろうとした。
だがアベルは上手く立つこともできず、スノウに抱え上げられてセージとシエスタから距離をとった。
周辺の建物の崩壊は既に止んでいる。砂塵は変わらず舞っていたが、セージはその砂塵と充満する魔力の只中で、厳かに変わらず何かをやっていた。
「何を、しているんですか?」
「さて、ね。……トート監査官は、どこをやられたの?」
ズキリと、胸が痛む。あの光景を思い出す。吐き気をこらえ、アベルは答える。
「胸、を」
「……そう」
「助かるん、ですか」
スノウは静かに首を振った。縦ではなく、横に振った。
「上級の治癒魔法なら、確かに臓器の治療や、あるいは一からの再生もできるよ。でも心臓は脳についで、再生の難しい部位だからね。さらに言えば自身にかける治癒魔法と、他者にかける治癒魔法では難易度がまるで違うんだ」
アベルは押し黙った。
スノウが言ったことは正しい。他者の四肢欠損を治療できる医療魔法士は国内でも有数であり、さらにそれが臓器ともなれば両の手だけで数えられるほどに希少だ。
だがそれならば、それぐらいの常識ならば、セージならなんとかできるんじゃないかと、アベルは祈るように期待を抱く。
スノウはそんなアベルを見て、押し黙った。
スノウが無理だと断じた理由は他にもある。
心臓の魔法による治癒は確かに上級の治癒魔法でなければ成し得ない高難度の治療だ。だが単に傷を塞ぐだけなら、儀式魔法のような大掛かりの魔法は必要がない。
だとすればシエスタの心臓は普通ではない武器で傷つけられた可能性が高い。呪いか、あるいは特殊な形状の武器によって修復の難しい傷が付けられたか。
加えて治癒魔法による臓器の一からの再生は決して行われたことのない事ではないが、それは無菌の手術室で、患者の負担を最小限にし、さらに多くの機材のバックアップを受け、複数の一流の医療魔法士が協力して綿密なプランを組み、練習を繰り返して行われ、その上で成功率五割程度となるような行為だ。
こんな場所でぶっつけ本番に出来るような行為ではない。
さらにまだ問題はある。
かつてジオは自身の足の欠損を自らの治癒魔法で治し、その足で帰った。
だがそれは類稀なる魔力保有量と体力を持つジオだから出来たことだ。一般人ならば足をまるまる再生させるなんて大掛かりな治癒を施せば疲労で動けなくなるか、そのまま倒れ込んでしまう。
そしてそれは心臓という重要臓器にも当てはめることができる。
そもそも一般人のシエスタは保有する基礎魔力が低い。心臓を貫かれたのなら、その時点でショック死しているだろう。
せめて中級以上の魔力量を持っていれば期待もできるかもしれない。仮初でも心臓らしきものを作って代替とすれば、もしかしたら大きな病院で人工心臓に付け替えられるまで命がもつかもしれない。
だがそんなもしもを考えたところで意味はない。シエスタは魔力の乏しい一般人なのだ。治癒魔法に耐えられるだけの体力も、それを補助する魔力もない。
だから助かるはずがない。
そうだと言うのに、スノウもまたアベルと同様に目の前の光景から目を離せないでいた。
兄ラウドを初めとして、多くの上級の戦士と触れ合うスノウをして膨大と言える魔力の奔流と、それを使って形成される濃密な魔力場。
儀式魔法のたぐいはそうそう目にする機会はないが、それでもこれがそうだと言うのは見て分かる。
十数人単位で行われるであろう規模の儀式魔法を機材のサポートもなく単独で成立させて、目の前の少年はどんな奇跡に挑むのか。
スノウは背筋を震えるのを感じた。
心臓マッサージや人工呼吸といった蘇生法は存在する。だがそれはあくまで死が確定していないものを呼び戻す行為だ。
心臓を破壊され、確実に死んだものを生き返らすとなればそれは本当に奇跡としか呼び得ない行為だ。
そうだと言うのに、出来るはずがないのに、しかしもしかしたらとスノウすらも期待を寄せてしまう。
出来たとしたらそれは異常、普通ではない。
確かにセージは普通ではない。おそらくはあの男と同じ生まれながらの契約者。特別な神子。
でもだからと言ってこれは――
「――ああ、ああ。そうか。僕はまた見誤っているのか。
困ったな。これだからファンタジーの住人は苦手なんだ」
スノウは嘆くようにそう言って、それ以上の思索を止め、ただ繰り広げられる光景を目に焼き付ける。
成功するにしても失敗するにしても見逃してはいけない。これからの事を考えれば、セイジェンド・ブレイドホームを見極めることは間違いなく重要なこととなるであろうから。
◆◆◆◆◆◆
間に合わなかった。
わかっていた。その状況を正しく把握できた瞬間に、そうなると分かってしまった。
死に通じる仮神からもらった魔力感知は、彼女に訪れる死を絶対のものだと私に教えた。
それに全力で抗っても、フレイムリッパーは私の妨害の全てを嘲笑って乗り越えた。
負けた。
完全に負けた。
感情を読んでも行動を読んでも、しかし何一つあいつを揺さぶることはできず、あいつは私の行いを嗤う余裕すら見せつけて上をいった。
だがまだ終わりではない。終わらせるつもりはない。
私の魔力感知はシエスタさんが殺されるのを予見したが、しかしこうして心臓を破壊されて即死しても、まだ完全には死にきっていないのを教えてくれた。
「邪魔だって言ってるっ! どけっ!!」
遅まきながら現場にたどり着いた私は、シエスタさんに覆いかぶさり慟哭する兄さんを引き剥がした。
シエスタさんの脈は完全に止まっている。
当然だ。心臓が切り裂かれても機能するようなデタラメな生き物なんてそうはいない。
だが脳死はしていないのか、シエスタさんの魔力は完全に体から消えていない。その魔力を生成する、魂とでも呼ぶべきものが肉体の中にとどまっているのを、仮神の魔力感知が教えてくれている。
致命的な遅刻をしたが、それでもまだ手遅れではない。そのはずだ。
ならやれる。だからやる。
この女性はこんな形で死んでいい人じゃあない。
こんなわけのわからない事件に巻き込まれて、ファンタジーの塊みたいなむちゃくちゃな男に襲われて死んでいい人じゃあない。こういう人は、当たり前に普通に生きて、せめて普通な死に方をするべきだ。
こんなのは認めない。
おかしな事件なら全て私のところに来ればいい。理不尽な死なら全て私に訪れればいい。
そうでなければ私が生きている意味がない。
魔力はある。
状況は見えている。
私には上級の治癒魔法は使えない。だから使えるようになればいい。制御技術は十分。実演は一年前に見た。だから再現はできる。
失われた脚をつくるのと壊れた臓器を治すのが違うだけ。修正をかければいい。
それは不細工でもいい。シエスタさんの血を全身に巡らせることが出来ればそれでいい。
ああ、私にはできる。
与えられた仮神の瞳は、シエスタさんの全身の全てを見抜き教えてくれる。
簡単な図工だ。指先の器用な人間が壊された模型を修繕するようなもの。
ああ、出来て当たり前の行為だ。何もおかしなことはない。
だというのに、もどかしい。
間に合わない。
遅々として進まない。
壊れた心臓を直そうというのに、シエスタさんの中に残っている魔力が反発をする。
強引に推し進めればゲームオーバー。
丁寧にやっていてはタイムオーバー。
シエスタさんの体から流れる出す血が止まらない。体の中から残り少ない魔力が消えていく。
壊れた心臓を再生させ傷を塞ぐ前に、脳死だか成仏だかが訪れてしまう。
覆すチャンスがなくなってしまう。
ああ、ふざけた話だ。
魔法なんてふざけたものがある世界で、魔力なんてものを鍛え上げてきたというのに、その技量不足で手からこぼれ落ちてしまう。
いや、そうだ。そうか。
魔力だ。
魔力があればいいのだ。
シエスタ・トートに、魔力があればいいのだ。
私は答えを知る何かに突き動かされて、鉈を抜く。
その刃を、自分の手首に添え、引いた。
切れ味のよい自慢の鉈は骨にまで届き、盛大に血を引き出すことに成功する。
脳髄に心地よい罰が染み渡る。
それに浸っていることは許されない。
私はその血をシエスタさんに落とす。
輸血にはならない。
魔力の譲渡にはならない。
それだけでは足りない。
でも知っている。
他人に魔力を与える関係を、私は知っている。
生まれる前の記憶に、それはある。
そのために最低限必要なことを、私は知っている。
「私と、セイジェンド・ブレイドホームと契約してください、シエスタ・トート」