120話 皇剣様は蚊帳の外
学校は嫌いじゃない。
むしろ好きだった。ちょっと前までは。
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「ちょっとセルビアっ! 聞いてるのっ?」
「聞いてる。なに?」
「だからっ、私がなか良くしてあげてもいいって言ってあげてるの。わかるでしょ?」
セルビアは違うクラスの少女にそう言われて、ため息をついた。
「いらない。あんた弱いし」
「なっ!! 私はマージネル家の、次き当主の長女なのよ!!」
「知らないし。あんたのパパが強くたって、あんたはあたしより弱いもん」
そう言って、セルビアはその少女と別れようとする。
時間とは有限なものであり、昼休みの時間は特にそうだ。給食を食べ終えたセルビアはいち早く自主訓練の場である体育館へ急いでいた。その最中にデボラ・マージネルに呼び止められて、不機嫌さを隠そうとせずにそう言った。
セルビアとしてはそれで別れの挨拶はしたつもりだったが、デボラの気が済む訳もなく、カリカリとした足取りでセルビアについて来た。
そして二人はそのまま体育館までやって来た。
「ふーん。お昼までくんれんするなんて、まじめなのね」
「別にいいでしょ。じゃましないで」
「じゃまなんてしてないし」
セルビアはため息をついた。
学校は嫌いじゃない。友達と遊ぶのは楽しい。よく知らない子と仲良くなるのはワクワクする。
でもその楽しさが今は不真面目で、無意味なものに感じてしまうのだ。
自分が楽しい事ばかりしていたから、置いて行かれたと。
そう感じてしまう理由には、いつも見ていた兄が遊ぶよりも働いていたり、訓練していたりしていた事も関係していた。
「なによ」
「べつに」
セルビアはそれ以上デボラを相手にしようとせず、用具室から木刀を引っ張り出して、鏡――フォームチェック用の大人の全身が映るほどの大きな姿見――の前に陣取り、素振りを始める。
自分がどう動きたいか。その理想の姿は頭に焼き付いている。
セルビアが必要としているのはその理想通りの動きを再現できる肉体と魔力、そして理想と現実の動きのズレを把握して、それを正す事だった。
無心で素振りを繰り返すセルビアを見て、デボラはむくれた表情で同じように木刀を取り出し、隣に立って素振りを始めた。
デボラの表情にやる気は欠片もなかったが、その動作は武門の名家に恥じない綺麗な型通りの素振りだった。
しばらく二人は並んで自主訓練を続ける。
熱心なセルビアはもとより、基本の動きが体に染み付いているデボラもまた多くの汗をかいた。
素振りを先に切り上げたのは、セルビアの方だった。
「なに、もう終わり?」
「もう時間。汗ふきたいし」
勝ち誇ったようなデボラの言葉に、セルビアは多少イラっとしながらもそう答えた。
「あ、ホントだ」
セルビアはデボラの相手をせずにシャワールームに向かった。流石にシャワーを浴びる時間も無ければ、そもそも着替えも用意してはいなかったが、タオルは持ってきていたので、顔を洗い、また濡らしたタオルで汗を拭いて軽く身奇麗にした。
「……ねえ、タオルかしてよ」
「べつにいいけど」
セルビアはそう答えて、使い終わったタオルを貸した。
デボラはそれを水で洗ってきつく絞ったあと、セルビアと同じように汗を拭った。その後でもう一度タオルを洗って、ありがとうというお礼を添えてセルビアに返す。
セルビアは『ん』と短く答えた。
その後は一言二言ぐらいを交わして、それぞれ自分のクラスに戻った。
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クラスの違うマージネル家の令嬢とはこうして知り合って、折に触れてデボラはセルビアに話しかけてきた。
もっとも二人がまともに話をするのは昼休みぐらいだ。
クラスが違うので基本的な授業は別であるし、本来合同授業となる実技訓練でもセルビアは飛び級扱いとなっていた。
登下校も家の方角が離れているし、そもそも治安の悪い守護都市では子供たち――特に少女――は、ほぼ保護者同伴となる。
デボラの護衛役であるマージネル家の騎士たちは、セルビアの保護者であるジオに近寄らないよう気を付けていた。
二人が顔を合わせる昼休みでやる事は、変わらず自主訓練だった。
二人で剣を交える事はなく、時折熱心さを感心した教師が打ち込み稽古の相手をしてくれる事があるくらいで、基本的に二人は素振りを繰り返すだけの自主訓練に勤しんだ。
武門の名家出身に恥じないデボラではあったが、飛び級を認められたセルビアは教師陣からとある暴力少女の再来かと噂されるほどで、その差はハッキリとしたものであった。
まだ幼い二人もその事はなんとなく感じていたから、お互いに直接剣を交えることは望まなかった。
そんなある日の昼休み。
二人は自主訓練を終えて、揃ってシャワールームで汗を拭った。
デボラも二日目以降はタオルを持ってきており、それはとある商会の粗品でもらえるような安っぽいゴワゴワのものではなく、布地はフカフカで、さらにデフォルメされた動物が可愛くプリントされたものだった。
ちなみにその日以降セルビアからデボラに話しかける機会が増え、さらにセルビアも新品の可愛いタオルを持って来るようになった。
そんな日々を経て、今では体育館から教室の短い道のりで、二人は何気ない会話をするようになっていた。
「セルビアは次のじゅぎょう何?」
「さんすう。たしかテストやるって言ってた」
「うわ。たいへんだね」
デボラは同情するようにそう言ったが、セルビアとしてはその言い分はよくわからなかった。
「べつに。テストきらいじゃないし」
「そうなの」
「うん。まちがえたところなおすと、ちゃんとわかるようになるし」
もちろん百点が取れればそのほうが嬉しいし、それを家族に見せて褒めてもらえればもっと嬉しい。ただ一番褒めて欲しい人は家にいなかったが。
「セルビアはえらいね。私なんて百点とらないとお父様が怒るからテストすごいきらいなのに」
「……あたしのオヤジは算数できないから、怒らないもん」
セルビアの言いように、デボラ意外だと声を上げる。
「セルビアのお父様は怖いって聞いてたんだけど、そんなことないの?」
「怒ったら怖いけど、だいたいいつも怒られてるから、怖くないよ」
セルビアがそう返すと、デボラの表情は不思議そうな色が強まった。
「怒られてるって、だれに?」
「……アニキ」
そう答えたセルビアの表情には悲壮感が浮きでていたが、デボラは気付かなかった。
「お兄様? セルビアにはお兄さまが三人いたよね。やっぱり一番上のお兄様?」
セルビアは首を横に振った。
「セージ」
「セージ君? あんなに優しいのに?」
「アニキのこと知ってるの!?」
セルビアは目を剥いてデボラを見つめた。
「え? うん。……あれ? セージ君、今は私の家にいるよ?」
知らなかったのと尋ねるデボラだが、セルビアはマージネル家にセージが預けられている事を知らされていた。
ただセージがいなくて、しばらく家に帰ってこないという事ぐらいにしか理解していなかった。具体的に言えば、今のセージがどこで生活しているかという想像が働いていなかった。
そして想像が働き始めれば、セルビアの気持ちには黒いものが浮かんでくる。
マージネル家にセージを取られた。だから帰ってこないんだと。
デボラはいきなり押し黙ったセルビアを心配して、口を開いた。共通の話題として相応しいだろう、セージの事を。
「セージ君て優しいし、カッコイイよね。他の男の子とぜんぜんちがってて。このまえ家の道場でくんれんしてるの見たんだけど、大人の人たちよりも強かったし、それにタオル渡したらありがとうってわらって――」
「うるさい!!」
セルビアは、デボラを殴った。
全力で、殴り飛ばした。
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セルビアに殴られたデボラは吹き飛び、頭を打ってそのまま気を失った。
思いっきり殴って正気になったセルビアは顔を青くして、すぐに倒れたデボラに駆け寄って起こそうとしたが、体を揺らすなとたまたま近くを通りがかっていた教師に静止された。
デボラはそのまま教師に抱えられて保健室に連れて行かれた。セルビアもそれについて行った。
その後、セルビアはその教師の命令に従って授業を休み、事の経緯を聞かれ、さらには厳しく叱責されることとなった。
だが幼いセルビアには十分な説明はできず、初めて受ける大人の本気の怒りに涙がこらえきれなかった。
魔力を操ることで、幼い子供でも人を殺せるだけの腕力を発揮することができる。
幸いデボラも優秀と分類される子供であったため大事には至らなかったが、今のセルビアが七歳の子供を本気で殴れば、不幸な事故が起きてもおかしくはない。
教師としてもセルビアが幼いからこそ、むしろ厳しく叱責した。
強い力を持つ者の中には、人を傷つけることに暗い悦びを見出すものが少なからずいる。
騎士養成校のその教師は才能ある子供をそんな誤った道に進めさせたくなかった。
熱意ある教師の長く厳しい叱責はセルビアがぼろぼろと泣き出しても終わる事はなかったが、しかしブレイドホーム家とマージネル家の確執を把握しているグライ教頭が現れ、取りなすことで矛が収められた。
そしてグライ教頭は泣き続けるセルビアを宥めながら、早退させ、自ら手を引いてブレイドホーム家にまで連れ帰った。
グライ教頭はセルビアをジオに引渡し、また教師としての勤めからデボラとの事の顛末を説明した。
その後セルビアに『明日、ちゃんと謝るんですよ』と言って、胃の辺りを抑えながら帰っていった。
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「学校で喧嘩したんだって」
「……うん」
「うんじゃなくて、はいだろ」
「……っ、はい」
泣き疲れたセルビアはグライ教頭が帰ったあとしばらく寝ていたが、夕食には起きてきて家族と食卓を囲った。もっとも、その箸はろくに進まなかった。
そうして食事を終えてから、アベルがそう問い詰めた。
「何でそんな事したんだ。一歩間違えればそのデボラって子は死んでたかもしれないって聞いたぞ」
「……ごめんなさい」
「なんでやったのかって聞いてるんだぞ、僕は」
「ちょっとアベル、もうちょっと優しくして」
目尻を釣り上げるアベルに、シエスタが慌てて間に入る。
「なにか理由があったんでしょ、セルビアちゃん。ほら、お父さんをバカにされたとか」
セルビアは首を横に振った。
「子供なんだから、喧嘩なんて普通じゃない?」
「お嬢様の基準で考えないでください。……まあ、私もしましたが。それにこの問題は大きな怪我をさせたことと、相手がマージネル家のデボラ様ということですよ」
「どういうことだ? つーか、あっちにはセージがいるんだろ? 上手いことやるんじゃね?」
マリアは人質であるセージが責任を取らされると危惧して言ったが、勘の良いカインはむしろセージは首を突っ込んで取りなすから心配いらないだろと、その危惧は無意味だと口にした。
「それでも謝りに行ったほうが良いでしょ。カインが喧嘩して泣かせた時もお菓子持って謝りに行ってたよ。セージが」
「え、なにそれ。聞いてないんだけど」
「二年以上前のことだけど、セージが隠しておいてって言ったから」
マギーとカインのそんなやり取りを聞いて、シエスタとマリアは七歳の子がずっと前にそんな気遣いするってどういう事と、頭の中で疑問を浮かべた。
「それなら私が行ってこようか。デボラも叔父様も知ってるから」
「だめですよ。お嬢様は一ヶ月はマージネル家に戻ってはダメです。それにこういう事は家長の仕事でしょう」
マリアはそう言って、同時にちゃんとやるのかという不審な目をジオに向ける。
「まあそれぐらいやるが、そんな事よりセルビア。まだ理由を聞いてないぞ」
ジオはそう言って、セルビアを真っ直ぐに見た。
セルビアは涙をたたえた目をそらした。雫が頬を伝って、テーブルに落ちた。
「お父さん」
「セルビア、言え」
見かねてマギーが割って入ったが、ジオは繰り返しセルビアにそう言った。
「……だって、アニキがいないから」
セルビアはポツリとそう言って、ふたたび涙をこぼした。
「そうか」
ジオはそう言って頷いた。そしてそれ以上言うことはないと、そのまま押し黙った。
「他にはないんですか」
「……? 特にないな。まあ腹が立ったら殴るぐらいのことはするだろう。
だが手加減ぐらいは覚えろ」
ジオはそういって話を締めて、セルビアは、はいと泣いたまま頷いた。
「……何のために聞いたんですか」
「聞きたかったからな」
マリアが冷たい目でそう言うが、ジオは短く答えるだけだった。
マリアは問い詰め足りないという顔をしていたが、しかしブレイドホーム家の面々がその態度に不満を持っていないようなのを察して、矛を収めた。
それからはアベルとマギーが主体でお詫びにはどういう服装でどういうお菓子を買っていけばいいかという話がなされ、シエスタやマリアも意見を出し、決まったことにジオは頷いて答えた。
「……」
そんなやり取りを、ケイは黙って見ていた。