112話 アール・マージネル
アールは騎士養成校を首席で卒業した。
同期にはスナイク家の次男坊であり、当時期待の新星と呼び声高かったラウドの実弟であるスノウが在籍していた。
スノウには学業面では数歩譲ったものの、実技ではアールが大きく勝りなんとか主席を守って卒業した。
名家の直系で優秀な戦闘技能を持つアールは、当然のことながら周囲から皇剣の座につくことを期待されていた。
だがアールはジオの同年代である。
二度ほど参加した皇剣武闘祭の本選では、どちらもジオと当たる直前で敗退し、直接対決する機会はなかった。
口の悪いものの中には、アールがジオにみっともなく負けるのが嫌で手を抜いて負けたのだと陰口を叩くものもいた。
三度目の皇剣武闘祭は、カレンとダックスが死んで初めてのその皇剣武闘祭には、アールは参加しなかった。
するつもりが無かったわけではないが、確実にそこでジオを殺そうと慣れない裏工作にかまけて予選落ちしてしまった。そしてジオは数々の刺客も妨害工作も踏み越えて、あっさりと優勝した。
次回こそはと怨念のような恨みを抱くアールだったが、その次回は訪れることがなかった。
今から九年前に起きた史上かつてない大竜の襲撃。この国で最高の戦力を揃える守護都市にも甚大な被害をもたらしたその戦いでマージネル家は皇剣の一人を失い、守護都市とこの国の窮地を救ったジオも大竜の呪いのため現役を退くこととなった。
醜聞にさらされるマージネル家を守り、多くの人材を失った守護都市を再興させる義務のあったアールは目の回るような忙しさに晒されたが、その合間に一度だけアールはジオと出会っていた。
ジオはその事を覚えていない。
なぜならその時のジオは気を失っていた。
魔人ジオレイン・べルーガーが喧嘩に敗れて、気を失っていたのだ。
今でこそ八割程度の力は問題なく扱え、足を失ってしまうもののごく短い時間ならば全力も出せるが、竜に呪われたばかりのその当時のジオは、まともに魔力を扱うこともできなかった。
鍛え抜かれたジオの体は一級品であったが、魔力が通わなければさすがに守護都市の猛者たちには劣る。
特に何かしらの因縁があったわけではないのだろう。
酔っ払ったジオと、同じく酔っ払っていたであろう誰かが喧嘩をし、負けたジオはそのまま気を失って路上に倒れていた。
それはアールがジオと出会ってから初めて見た、弱りきった姿だった。
アールの中にあるジオの姿はいつも強く、大きく、そして名家の嫡男であるアールのことなど眼中にないと、ふてぶてしい態度だった。
アールにジオを殺せる機会があるとすれば、その時をおいて他に無かった。
だがアールは気を失ったジオに肩を貸すと、近くの高級ホテル――守護都市はその性質上、連れ込み宿は多数あるが通常の宿泊施設は極端に少なく、視察などで滞在する一部の高官向けの高級ホテルしかない――に放り込み、そこのスタッフに多めのチップを与えて世話を任せ、自分のことは決して口外しないようにと言い含めて、その場を去った。
その時から、アールの恨みは形を変え始めていた。
大切な二人が死んだ。
その事への怒りと悲しみがジオへと向いたが、しかしそれは正しいものではなかった。そんなことは最初からわかっていた。
ただジオの傍若無人な振る舞いが目障りで、ずっと大きな背中で自分の前を歩いているのが許せなくて、憧れて、何とかして目にもの見せてやろうとムキになっていた。
エースが心惹かれたように、奔放なアシュレイが手間をかけて育てようとしたように、ジオには人を惹き付ける強い輝きがあった。
それは圧倒的な強さの才能。
強さを重んじるこの守護都市において、おそらくは並び立つものがいないであろう圧倒的な才能に魅せられ、その輝きがどれほど強いものになるのか見てみたいと、エースはジオを鍛えた。
それはエースが既に強さのピークを過ぎていたからこそ抱く事の出来た、純粋な期待だった。
同じ輝きに、アールもまた魅せられていた。
だがエースと違ってアールは若く、その輝きに張り合おうとし、結果として嫉妬で心を曇らせることとなった。
いつしかアールはジオの持つ輝きを汚してやりたいと黒い感情を持つようになっていた。
だが弱りきったジオの姿を見て、それは正確ではないと気づいた。
己のような凡人が何をしてもその圧倒的な力で踏み越えていく、その姿こそを美しいと感じた。
輝きを汚してしまおうとするちっぽけな自分を、意にも介さず我が道をゆく姿にこそ憧れた。
父親に期待されなくとも、アールはマージネル家の嫡男として皇剣になることを望まれた。
敷かれたレールを歩くことに不満はない。マージネル家への忠誠も愛情も確かに胸にある。この国を守っていくのは私たちなのだという自負もある。
それでも、ジオのように思うがままに生きられたらどれほどに痛快かと、心を遊ばせる日は確かにあった。
アールはジオを苦しめようとしたが、同時にアールが何をしても決して揺らぐことのないと、行き過ぎた幻想をジオに抱いていた。
その幻想は、しかし路地裏で痛めつけられ、薄汚れた姿で転がるジオの姿で打ち砕かれた。
アールは己がひどい思い込みをしていると気づいた。
そこでようやくアールは、胸の奥にこびりつくジオへの敵意とカレンたちに起こった悲劇は別の問題だと、認めることが出来た。
ダックスが自殺したのは本人の心が弱かったからだ。
そしてその心をカレンと自分たちマージネル家が追い詰めた。
アールにしても慰めるのなら娼婦のところになど連れて行かず、二人の仲を修復させるよう働きかけるべきだった。
それに何よりカレンが身ごもったとき、アールは心の奥でかすかに喜びを感じていた。
それは自分に子供がおらず、末の妹が子供が欲しいと悩んでいたのを知っていたから祝福したのだと、そう思い込もうとしていた。
だがジオへの憧れを認めて、気づくことがあった。
エースから話があった時、アールは心の奥底で妹が他でもなく、ジオの子供を産むのを喜んだのだ。
だからカレンが死んだ時、ケイを引き取ると迷わず口にしたのだ。子育ての経験もない男の片親などと、周囲は反対し、ほかの弟や妹に任せるべきだという言葉に耳も貸さずに。
そして信頼する兄貴分であったアールのそんな心を見抜いていたから、ダックスは何も言わずに自殺などという道を選んだのだ。
そう気づいて、あるいはそう思い込んで、アールは己こそが裁かれるべきだと、そう思った。
その思いはジオと同等の才能を見せるケイの成長を目にするたび強くなり、胸が締め付けられた。
ケイが父親からの愛情に飢えているのは知っていた。たまに稽古をつければ目を輝かせて喜び、教えることはなんでも容易く身につけていった。
出来の良い弟子の面倒を見ることが、師として嬉しくないわけがない。義理とは言え愛娘が楽しそうに甘えてくるのが嬉しくないわけがない。
だがその嬉しさを感じる資格が己には無いと、アールはケイを遠ざけた。
その事で、ケイが悲しむことには目を背けて。
何も感じず、何も考えず、アールはただマージネル家とこの国のために奔走した。それだけが贖罪となると信じて。
アールは日毎に心を擦り切らせて、次第に後悔するようになった。
ジオが出場した最後の皇剣武闘祭で、己は本選にも出れなかった。
もしやり直せるなら小細工などせずにジオと真っ向から戦い、そしてその剣で切り伏せて欲しかった。
だがそのジオは引退し、戦う力を失った。
アールの願いは叶うことがなく、そして大竜によって大きな損害を受けた都市と家を再興するため、忙しさに追い立てられる日々を送るうちに、その自殺願望には蓋がなされた。
その蓋が外れるきっかけは、二年前にさかのぼる。
セージのギルド登録に合わせて、ジオの噂も再び市井に上がるようになった。
最初は子供を無理やりギルドで働かせているという、ジオらしからぬ噂だった。
さらにはその子供はジオの血を引きとてつもない才能を有しており、だから幼い我が子をギルドに登録させて中級に推薦したと。
そんな本当かも知れないと疑う噂が流れれば、同時にジオがじつは貧乏で、その子供に養ってもらっているなどというおかしな噂も耳に入った。
そんな噂を聞くとはなしに耳にしていると、ジオの娘が騎士養成校に入ることが決まった。
アールの父である当主エースはこれを期に、再びジオとの距離を縮めようと調査の手を伸ばした。
力を失った今のジオは無闇に周囲に害を振りまくことはなく、またジオとの関係が良好なものに戻れば、ケイを傷つけることなく真実を打ち明けられる日が来るかもしれない。そうすれば、マージネル家の中でのケイの孤立が多少でも緩和されるかもしれない。
アールとしても反対する理由はなかった。
そうしてマージネル家がジオの動向に目を光らせていたら、管制室の機器が破損する重大事故が起こった。
それはジオがその身にもつ膨大な魔力を開放したことが原因だった。
たったそれだけで、ともすれば守護都市に大きな危機を招きかねない重大な事故が起こった。
それはまさしく在りし日のジオの所業だった。何の悪意もなくただ思うがままに振舞って、災厄と奇跡をなす英雄の所業だった。
何ら変わってないと、その力は取り戻されていたのだと、アールは静かに喜びを覚えた。
アールの心になされていた蓋は、その時完全に取れた。
ジオと戦って、そして死にたい。
叶わなくなったはずの願いを、もう一度抱くようになった。
だがアールはマージネル家の次期当主筆頭候補である。アールが決闘を申し込み殺されれば、マージネル家は威信をかけてジオとの対決の道を選ぶだろう。
そして威信がかかっていなくとも、エースは報復に決起するだろう。
今のアールは自身が父から愛されている事を疑っていない。不出来ながらも一応はケイの父親を務めたことで、少しはエースの気持ちが理解できたのだ。
さらに言えばアールは名誉ある死ではなく、無残な敗北者としての死を望んだ。妹夫婦を死に追いやった愚かな人間に相応しい末路を望んでいた。
それらを叶えるためには、馬鹿な犯罪者になるのが都合がいい。そんな妄想をするようになった。
そしてその妄想を叶える機会が降って沸くようにやってきた。
セージを殺したいかと聞かれれば、アールは否と答えただろう。
マリアの教育により優しい子に育ったケイはセージを殺さずに捕まえようとするだろうし、そうなれば根が善人のリオウもアールを説得しようとするだろう。
そうすればセージを殺そうとしたのはアールただ一人となるし、ジオはそれを理解するだろう。
アールはしかし同時に、セージが死んでも構わないと思っていた。
突発的な思いつきの、穴だらけの考えでは死んでもおかしくないと思っていた。だがもうどうでもよかった。
セージを殺せば、少なくともリオウはジオに殺されるだろうと、思惑通りに事が進んでも身内を巻き添えにするリスクは高いと、アールはわかっていた。
それでも止められなかった。
偽証ではあるものの共生派のテロリストと告発されたセージが単独で産業都市に降りると教えられて、この機会を逃せばもうマージネル家の存続とアールの願いの二つを叶える機会はないと、そう思って踏み出してしまった。
そうして迎えた結果に、後悔はない。
誰ひとり死なず、多くの不正に手を染め重大な偽証を行ったマルクと、それを受け入れて暗殺を指示したアールのみが裁かれる。
名家の後継者を退くという裁きはあくまで査問会議の決定であり、正式な法的裁きはこれから行われる。
そこではこの会議での決定を受けて、マージネル家側で過失があったのは偽証を信じ強制的に命令を出したアールのみとなるのだ。
ジオの手で殺されないことには不満が残るが、それでも最低の犯罪者として罰せられるのは心地よいものだった。
欲の深いクラーラあたりはマージネル家の警邏騎士への権限をいくらか奪っていくだろうが、それでもマージネル家の損害は最低限で済むはずだ。
ある意味で理想以上の結果を得たアールの心は、しかしジオの息子であるセイジェンド・ブレイドホームの言葉によって凍りつく。
「はっきりと謝罪が欲しいですね。私の父、救国の英雄ジオレイン・べルーガーに対して、ね。
それとも先の、己の判断を恥じるという言葉は、この場を切り抜けるための方便ですか?」
挑発的な物言いは、アールの心を大きく揺り動かした。周囲は怨敵であるジオに頭を下げるのを度し難い屈辱なのだと見てとったが、しかし実際は逆だ。
己の本心に気づいてから、アールはずっとジオに謝罪したいと思っていた。
幼い頃、妬みから何度も辛辣な言葉をぶつけた。
カレンの件以降は勝手な逆恨みで多くの嫌がらせをした。
今なお守護都市で語り継がれるジオレインの悪辣な武勇伝の中には、アールが意図的に流したデマも多い。
そして皇剣武闘祭では卑怯な裏工作に手を染めた。
アシュレイの死の真相を知ろうと、興味もない皇剣武闘祭に出続けていたジオの考えは知っていたのに、それを邪魔した。
そして今回も一方的な自己満足に巻き込んで、大事な息子を殺そうとした。
それら全てを心から謝罪し、その首を差し出したかった。
だがそれはできなかった。
己は許しを乞うてはいけないと、そんな権利はないと思い、同時にここで謝らなければマージネル家が危ういと理解していた。
相対したのはほんの短い間だが、目の前のセイジェンドはスノウ同様に人の心を弄び、利益を貪る人種だと感じた。
謝罪するべきであり、謝罪しなければならない状況で、アールはギリギリまで葛藤した。
アールが最後のプライドを捨てて頭を下げようと決意した時、セイジェンドは必要ないと前言を撤回した。
このクソガキはやはりスノウ同様に性格が悪いと、アールは確信した。
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そしてそのセイジェンドは、重ねてアールの心を揺さぶった。
「ケイさん、家に来ませんか?」
それは認められないことだった。
「普通の家族みたいにってわけにはいかないでしょうけど、もともと家は孤児の集まりですからね。普通からは離れてる。そんな場所で良かったら、一緒に暮らしませんか? もちろん、マリアさんも一緒に」
「ダメだ!! そんなことは許さんぞ」
重ねて口にするセイジェンドに、アールはそう怒鳴った。ケイの顔は、見れなかった。
「ダメと言われましてもね。ケイさんは親父の娘ですよ。あなたたちの血縁者でもありますが、騙して人殺しをさせるような人間に親権があるとは思いません」
「――っ!! だがケイを皇剣にまで育てたのは俺たちだぞ」
胸の奥がズキリと傷んで、それに耐え切れずにアールはそう叫んだ。視界の端で、ケイが泣いているように感じた。
「つまりケイさんが皇剣だから手放せないんですね」
「それはっ」
「ならお金を払いましょう。さて、人一人を成人まで育てるのには平均でいくらかかるんでしたっけかね。あとで調べて、その十倍のお金をお支払いしますよ。それでいいでしょう?」
ニヤニヤと、馬鹿にするような笑いに演技ではなく頭がカッとなる。セイジェンドが口にしたその言葉にケイが傷ついていると理解して、耐え切れずに叫び声を上げる。
「ふざけるな、金の問題じゃない。ケイは――」
だがそれを俺が口にしていいのかと、アールは言葉を詰まらせた。
「ケイは――の後に、俺の娘だと胸を張って言えないんですね、あなたは」
セイジェンドはアールが咄嗟に詰まってしまった言葉のその先を、綺麗に言い当てた。
「本音を喋ってくれませんか。どうしてもそれができないって言うんなら、ケイさんを自由にしてください」
「お前は、何を……」
セイジェンドはその一瞬だけ微かに笑った。
それまでの作ったような笑顔とは違う、愚かな子供を哀れむような、そんな優しげな笑顔だった。
「あなたは何故、ケイさんに私を殺させようとしたんですか?」
「二人が死ぬことになった、復讐だろう。逆恨みなのは分かっているだろうが……」
その問に、代わって答えたのはアールの父エースだった。その答えにセイジェンドは首を振った。知られていると、そう直感した。
「それは違いますよ。アール氏は親父に責任があるなんて思っていない」
言わないでくれと、アールは願った。
このまま己は馬鹿な犯罪者として家族から見放されたい。同情なんてされたくない。心の重荷になりたくない。
同時にもう言ってくれと、そう思った。ややこしく考えるのはもう面倒くさい。
全てぶちまけて楽になりたいと、そう思った。
「アールは親父に殺して欲しかった。そうでしょう」
それは、否定のできない事実だった。
次回、決着。