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天使と悪魔の伝説  作者: 弥生遼
第三十七章 光射す道
233/263

10

 朝を待つまでもなく事態は急転した。眠れぬ夜を過ごしていたレクスターは、ふと思い立ったことがあった。

 『兵士達に酒でも振舞おうか……』

 数日、兵士達に支給している食料は明らかに目減りしている。これに対して兵士達から不満が噴出していることは、レクスターも耳にしている。ここでさらに補給物資が来ないと知れると、兵士達の憤懣は頂点に達するだろう。撤退するにしても兵士達の気を和らげておくに越したことはないだろう。その程度のことはレクスターの裁量の範囲で行っても問題なかった。

 早速に各部隊に命令しようとレクスターが天幕を出ると、何やら騒がしかった。複数箇所から人の怒声が聞こえてきた。

 「何があったのだ?」

 レクスターは見張りをしていた兵士に聞いた。見張りは首を振るだけであった。誰かに調べさえようとしていると、近くで、

 「脱走だぁ!」

 と叫ぶ声がした。やがて夜の闇の中を複数の松明が流れていった。脱走した兵士を追ったものか、あるいは脱走した兵士そのものであるか。レクスターもその松明の方へ行ってみようかと思っていると、イーベルがあたふたと走っているのが見えた。

 「イーベル殿!」

 レクスターが声をかけると、イーベルは立ち止まってくれた。彼の憔悴した顔を見ると、単なる脱走事件ではないことはすぐに知れた。

 「これは一体……」

 「脱走でありますよ。しかもかなりの数に及んでいるようで……」

 要するに集団脱走であった。目が眩む思いであったが、兵士達の気分を考えると無理からぬことであるようにも思われた。

 「兎に角、総員に起床を命じ点呼させましょう」

 「そ、そうですな……」

 イーベルは憔悴した顔色を隠すことなく、各部隊に総員起床の命令を出した。

 結果は小一時間ほどで分かった。実に脱走したと見られる兵士は、皇帝直轄軍だけで百名あまり。各領主が連れてきた兵士になると、千名近くにまで及んだ。中には部隊ごと消えているという事態も発生していた。

 「なんたることだ……栄光ある帝国軍がこのような状況になるとは情けない……」

 イーベルは驚き呆れていたが、レクスターからすれば予想された結果に過ぎなかった。

 『そもそもこの遠征には無理があったのだ。それにすでに今の帝国に栄光などという言葉があろうか……』

 口にこそ出さないが、ジギアスが率いている帝国軍の残滓を目の当たりにしているような気がした。同時に帝国の高級軍人としてその残滓に殉じねばならないという覚悟が生まれていた。

 「それで我が軍の現在の総数は?」

 「ざっと七千……」

 イーベルが重そうに口を開いた。当初の半分以下である。これに対して包囲しつつある敵軍は倍以上の兵士を擁している。しかもこれまで幾多の戦場で勝利してきた剽悍の士ばかりで士気も高い。ここから逆転して勝てる要素など微塵もなさそうであった。

 「イーベル殿。もはや一刻の猶予もありません。陛下をお起こしてご裁可を得ましょう。このままでは我らは死を待つのみです」

 「左様ですな」

 流石にイーベルも事態に深刻さを思えば皇帝に奏上することを躊躇わなかった。レクスターはイーベルを伴ってジギアスの天幕へ向った。

 ジギアスの天幕は灯りが消えていた。酒宴はとうにお開きになり就寝しているようであった。

 「陛下はおひとりでご就寝か?」

 イーベルは衛兵に尋ねた。衛兵は小さな声で、お一人ですと答えた。

 「火急の要件がある。陛下にご起床願いたい」

 イーベルがそう告げると衛兵は無言で頷き天幕に入っていった。ややあって、陛下がお待ちです、と衛兵が戻ってきたので、レクスターとイーベルは天幕に入った。ジギアスはベッドに腰掛けていていかにも眠そうであった。

 「どうしたというのだ?二人が連れ立って……敵襲と言うわけではなさそうだが?」

 「実は……」

 イーベルが言いよどんでいるので、代わってレクスターが発言した。

 「兵士達の脱走が相次いでいます。すでに千人近くに及んでいる模様です」

 ジギアスの顔にさっと朱色が挿した。勿論怒りの朱色である。

 「理由」

 ジギアスは短く言った。

 「補給が滞り、兵士達の食料が不足しています。それが原因かと……」

 「子爵の補給部隊はどうした?」

 「まだ見えておりません」

 「けぇぇぇぇっ!」

 ジギアスは急に奇声を発すると、近くにあった小机を蹴り上げた。

 「あの腐れ野郎。年長で見所があるから機会を与えてやったのに!俺の善意を不意にするか!」

 「畏れながら補給についてはすべてこのディーベルにあります……」

 「奴を補給部隊の任せたのは俺だ!だからこそ許せんのだ!」

 ジギアスはさっき蹴り上げて転がっている小机を踏み潰した。

 「陛下。お怒りはご尤もながら、今は左様なことを言っている場合ではありません。すでに我らは数において圧倒的不利になり、包囲されている状態です。このままでは座して殲滅を待つのみです」

 「撤退せよ、と言うのか……」

 ジギアスは下唇を噛み、いかにも無念そうであった。撤退せねばならない現状と、それを許せぬ矜持とが皇帝の中で鬩ぎあっていた。

 「幸いにして夜です。夜陰に紛れ撤退を……」

 と言いかけたのはイーベルであった。

 「俺に野盗のような真似をしろと言うのか!」

 「け、決してその様な……」

 ジギアスの怒声にイーベルは恐怖で声を震わせた。

 「それにすでに脱走兵が敵陣に駆け込んでいて、敵も警戒していよう。なれば今撤退するのも明日に撤退するも一緒であろう」

 ジギアスの腹は撤退に決まったらしい。しかし、夜にひっそりと撤退するのは彼の矜持が許さなかったようである。

 「明日の朝、撤退する。それまでは全軍に休息を命じよ」

 それだけを言い残し、ジギアスはベッドの中に潜り込んでしまった。こうなってはどうしようもなかった。ただこのまま悪くならないよう祈って朝を待つだけであった。

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