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天使と悪魔の伝説  作者: 弥生遼
第三十三章 裁かれしもの
204/263

3

 シードは薄暗い牢の中で何をするでもなくぼんやりとしていた。

 どうやら自分の素性は知れたらしい。らしい、というのは、実感がないからであった。

 エシリアがずっと言ってきたようにシードは天使ユグランテスであり、天帝の力を分け与えられた存在であった。簡潔にいえばそう言うことなのだが、これはとんでもないことであった。

 しかし、それでもシードにとってはどこか他人事のようであり、大それたことであるという実感がまるでなかった。

 それは当然であるかもしれない。なにしろシードにはシードとしての二年間の記憶しかなく、実は天使である、天帝の力を与えられたなどと言われても、その真偽を判断するには二年間の記憶というのはいかにも材料として不足していた。

 『まだユグランテスとしての記憶もないし、力も自由に使えない。僕はまだただのシードなんだ』

 ただのシードとしては、ありのままの状況を受け入れるしかなかった。天帝の力を与えられたのはユグランテスという天使のことであり、シードのことではなかったのだ。

 「でも、エルマさんは心配だな」

 天使と悪魔の真実。そしてエルマの正体。これも途方もない事実であった。エルマには相当の衝撃だったようで、あれだけ動揺し憔悴したエルマをこれまでシードは見たことがなかった。そのエルマはどこか別の牢に繋がれていることだろう。

 「助けないと……」

 エルマを救えるのは自分しかいない。シードは真剣に考えていた。だが、周囲の様子もまるで分からないし、牢から抜け出る力もシードにはなかった。

 「くそっ!」

 シードは鉄格子を叩いた。がしゃんという音だけがむなしく響いた。

 「僕は無力だ……」

 天使がなんだ。天帝の力がなんだ。今のシードは、二年前からの記憶をもたないただの人間の少年なのだ。

 「へへ。こんなの所にいたか、少年よ」

 「マさん……」

 牢の奥からマ・ジュドーの声が聞こえた。周囲が暗いので、にやけた目だけがぷかぷかと浮いているようであった。

 「探したぜ探した。へへ、俺の嗅覚もまだまだいけるな」

 「どうしてここに?今まで何処に……」

 そんなことどうでもいいだろう、とマ・ジュドーは、けけと笑った。

 「マさん、大変ですよ!エルマさんが……」

 「言わなくても分かっているよ。へへ、俺とお嬢は一心同体だぜ」

 「だったら、エルマさんは助けないと……」

 「だからお前さんの所に来たんだよ」

 「僕の所に……。僕は何の力も」

 「冗談言っちゃいけねえぜ。天帝の力を持っているんだろう?」

 どうしてマ・ジュドーはそのことを知っているんだろうか。マ・ジュドーはあの場にいなかったはずである。いや、巧みに姿を消していたのだろうか。

 「マさん……。あなたは……」

 「俺様のことはいいってことよ。それよりもお嬢を助けてくれ」

 それをできるのはお前さんだけだ、とマ・ジュドーが言うと、シードの額部分が光り始めた。見たこともない紋様が幾つも浮かび上がっていった。

 「あ……ああああああ!」

 シードの体中を何かが駆け巡っていった。熱された血液が加速度つけて体内を流れていくと同時に、様々な光景が脳内に奔流のように入り込んできた。

 天界の風景。あれはエシリア。エシリアと天界の街を一緒に歩いていて、学校に行っていたんだっけ?

 そう。魔力の実戦練習でひとつも魔法を出せず、他の生徒や教官から馬鹿にされた時のものだ。そのことを家に帰った後、エシリアに話したんだ。するとエシリアはシードのことを馬鹿にした天使達に対して怒る同時に、シードを庭に引きずり出し、魔法の練習をさせたのだ。

 『これはユグランテスの記憶……』

 ユグランテス。そう。ユグランテスであるシードの記憶だ。

 あれは、そうだ。初めて地上に下りることが決まった時のことだ。あの時は本当に嬉しくて一晩かけて準備をしていたものだ。エシリアは心配そうに眺めていたんだ。

 「そうだ。エシリアは、付いて行くって言っていたんだ。でも、僕が猛烈に反対すると、エシリアは悲しそうな表情を浮かべたんだ……」

 すっと浮かび上がっていた紋様が消えていった。その瞬間、シードの全身に力が漲ってきた。

 「へへ、封印解除完了だな」

 マ・ジュドーがにたにたと笑っていた。

 「僕の記憶が戻った……」

 ユグランテスの記憶。シードの記憶。その両方が明晰にシードの脳に存在していた。そして、今までにない漲った力を制御している自分がいた。

 「さて、ひと暴れていくかね、少年」

 マ・ジュドーが言うと、シードは力強く頷いた。

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