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天使と悪魔の伝説  作者: 弥生遼
第一章 記憶のない少年と旅をする少女
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1

 一面に広がる黄金色の麦畑。その麦畑の間を一直線に通っている作道を一台の幌馬車が走っている。格段急いでいる様子もなく、牧歌的な情景に合わせるようにのんびりと馬が幌のついた荷台を引いていく。

 作道は本来、農耕用のもので舗装されていない。従って道はでこぼこしていて、石なども無造作に道に転がっている。幌馬車がゆっくりと走っているのも、悪路ゆえの振動を極力抑える為なのだが、不運にして車輪が大きめの石に乗り上げてしまった。がくんと荷台が上下に大きく揺れた。荷台で転寝をしていたシード・ミコラスは、その振動で目が覚めてしまった。

 「すまねえ、兄ちゃん。石を轢いちまった」

 荷台の先に座り、馬の手綱を握っている初老の男が大きな声で言った。ただで乗せてもらっている以上文句も言えず、シードは苦笑いをしながら、構いませんよと返した。

 シードは幌から顔を出した。視界いっぱいに広がる麦畑。この光景を『麦の海原』と表現する人もいるという。残念ながらシードは海を見た記憶がない。しかし、絵画などで見た海の様子というのは、この麦畑とよく似ていた。

 海は魚や貝、海草といった食物を生む。それだけではない。人にとって重要な塩を製塩することもできる。そういう意味では、麦もまたパンや麺に変わり、人々の腹を満たす。海と似てなくもない。

 シードはこの麦畑の光景がとても好きだった。単に光景として美しさだけでなく、人の生命を食という形で繋いでいく事実に神秘を感じるのだった。だから、この麦達を刈っていくという作業もとても好きであった。

 「そういえばもうすぐ収穫だね。兄ちゃんはカーブ村の人だったっけ?」

 「そうですよ。明日から収穫ですよ」

 「なるほど、そうか。だから急いでいたんだな」

 初老の男はかっかと笑った。

 シードは世話になっている教会の司祭に頼まれて、隣村へ使いに行っていた。行政区分としては隣村かもしれないが、徒歩で片道二日はかかる距離である。余裕を持って出かけたシードだったが、思いのほか使いの内容に時間がかかった上に、先方から大いに歓待を受けて出発する日にちが予定より過ぎてしまっていた。このままでは収穫の日に間に合わないところであったが、この親切な行商人に出会い、荷台に乗せてもらっていたのだった。

 「兄ちゃんが世話になっているのは、カーブ村のブラシス司祭だろう?わしもあの人には世話になっていてね。こうして商売ができているのも、あの人のおかげなんだよ」

 行商人は滔々と世話になった経緯を語った。要するに商売を始めるのに多少の便宜を図ってくれたということらしい。

 その話を聞いて、なるほどブラシス司祭らしい、とシードは思った。ブラシスにはそういう困っている人を見捨てて置けない篤実な酔狂さがあった。そうでなければ、自分を含めた十数人の孤児を養うなんて真似をしないであろう。

 「兄ちゃんも神託戦争で孤児になったのかい?」

 「ええ、まぁ」

 シードは曖昧に答えた。シード自身、そうらしいということしか知らない。

 「ひどい戦争だったもんな。終わって二年も経つが、まだ戦災から復興できていない場所もある。この辺りは戦火が及ばなくて幸いだよ」

 神託戦争。帝国を二分したその戦争は多くの死傷者と戦災孤児を生んだ。帝国の政治と経済は、その疲弊から立ち直ったとは言い難い状況にあるが、カーブ村のあるレンストン領バルフェスト郡一帯は、帝国の食料を支える穀倉地帯だけに双方の陣営が意図的に戦禍に巻き込むのを避けたとされている。

 しかし、それさえもブラシスなどから聞いた情報でしかなく、シードの記憶の中にはまるでなかった。

 「お、ついたな」

 行商人が幌馬車を止めた。道が二つに分かれていて、小高い丘を登る道を行けばカーブ村である。

 「ありがとう。おじさん」

 シードは、行商人に例を言いながら、荷物を背負って荷台から降りた。

 「いいってことよ。司祭によろしくな」

 はい、と応じたシードは、しばらく行商人の幌馬車を見送ってから、カーブ村のある丘を登り始めた。二年前、シードの記憶はここから始まっていた。


 シードには二年前以前の記憶がまるでなかった。ブラシス曰く、ちょうど幌馬車から降りた分かれ道で倒れていたらしく、シードの記憶は、そこでブラシスに介抱されて目を覚ましたところから始まっていた。

 当然ながら生国は勿論、自分の名前すら分からなかった。シード・ミコラスという名も、ブラシスがつけてくれたものでしかなかった。

 記憶のないシード・ミコラスとは何者であるか。調べる術がないわけではなかった。帝国では新生児が生まれると、各市あるいは各村にある教会に名前を登録しなければならない。謂わば戸籍が教会にあるわけだ。

 平時であれば各地の教会に照会し、戸籍を辿っていけばやがて行方不明人として浮かび上がってくる可能性がないわけではなかった。しかし、今は戦後である。何万人とされる死者、行方不明者がおり、戸籍が焼失してしまった教会も少なくないと言われる中、記憶喪失の少年の正体を突き止めるのは事実上不可能であった。

 尤もシード自身、記憶喪失に対してそれほど悲観的ではなかった。過去に持っていた記憶がどのようなものであるか分からない以上、失って惜しいものなのかどうかの判断もできないので、感情の動きようがなかったのだ。シード・ミコラスは、そういう少年であった。

 丘の道を登りきるとそこがカーブ村である。丘の上の狭い平地の中に三十戸ほどの民家と教会が、密集するように立ち並んでいる。帝国の行政区分として最も小さい『村』に属するが、穀倉地帯だけにどの家も比較的裕福で、家構えも隣村に比べれば遥かに上等であった。

 「おう!シード。帰ってきたか!」

 村唯一の目抜き通り歩くと、万屋の店主が声をかけてきた。小さな村だけに全員が顔見知りであった。

 「ただいまです。何とか収穫日に間に合ってよかったよ」

 「そうだな。おかげでこっちはこのとおり閑古鳥よ」

 万屋の店主は肩をすくめた。店頭に客の姿はなかった。村の皆は収穫に向けて農具を手入れなどで忙しいのである。店主自身も明日には店を閉じ、しばらくは収穫に借り出されるのであった。

 店主に別れを告げ、シードはさらに目抜き通り行く。人に会う度に声をかけられ挨拶をする。同じく教会で世話になっているケーツなどは、そのことが煩わしいと口を尖らせていたが、シードは村全体が家族のような雰囲気は嫌いではなかった。

 シードが世話になっている教会は、村の一番奥にあった。家屋のほとんどが平屋のカーブ村にあって、三階建ての教会はとても目立ち、村のシンボルと言って過言ではなかった。

 「ただいま戻りました、司祭」

 ちょうど教会の前で、ブラシスが倉庫から出してきたばかりの農具を広げていた。シードの顔を見るや否や、作業する手を止めて破顔した。

 「おお、シード。お帰り。お疲れさんだったな」

 ブラシスはさきほどの行商人とさほど変わらない年齢だろう。初老と言っていい。しかし、肉体的にも精神的にも老け込んだところがなく、その声にも張りがあった。

 「遅くなりました。エスマン司祭がなかなか帰してもらえなかったもので……」

 「あいつは昔から宴会好きだからな。仕方のないやつだ」

 隣村のエスマンはブラシスよりも年下で、神学校の後輩に当たるらしい。ブラシスから頼まれた用事というのは、エスマンが所持している教会に関する書物を借りてくるだけのことだったのだが、宴会好きのエスマンが連日連夜シードを歓待する宴席を開き、なかなか帰してくれなかったのだ。

 「そうだ。これが例の書物です。あと、司祭が仰った以外の書物もいくつか貸してくれました」

 シードはリュックから三冊の書物を取り出した。いずれも立派な表装だが、朽ちてボロボロになっている箇所が多く、書物としての年季を感じさせた。

 「ほほ、これはありがたい」

 ブラシスがそのうちの一冊を手に取り中身を確認し始めた。手持ち無沙汰になったシードが視線を倉庫の方にやると、鍬の入った箱を抱えたマリンダが倉庫から出てきた。

 「シード!お帰り!」

 箱を地面に置いたマリンダが子犬のように駆け寄ってきた。年齢は十六歳。記憶喪失のシードは自分の年齢を知らないが、見た感じでは同い年かひとつふたつ下であろう。どちらにしろブラシスが世話をしている孤児の中では年長の部類に入り、一番年齢も近いらしい。そのためかこの少女との仲はとてもよかった。

 「よかったよ、収穫前に帰ってきてくれて。うちの戦力はシードと司祭と私ぐらいなものだもん」

 「戦力って……。ケーツは?」

 「駄目駄目。どうせあいつ、すぐサボるもん」

 ケーツもまた孤児達の中では年長の部類に入る。ただマリンダより二つほど年下の少年で、まだまだ子供っぽいところがあり、ブラシスに言い付けられた用事をよくすっぽかすことがあった。

 「そんなこと言うなよ。お姉さんとして面倒見てやれよ」

 マリンダは女の子の中では最年長である。自然とお姉さん的な地位を確立していた。

 「それを言うとシードもお兄さんなんだから、ちゃんと弟分の面倒を見なさいよ」

 痛いところを突かれた。シードも男の子と中ではどうやら最年長らしい。マリンダがお姉さんなら、シードはお兄さんになるのだが、実際の年齢が分からないので、どうにも実感のない話であった。

 「兎に角、明日から頑張ってよね。司祭、そろそろ休憩にしませんか?」

 書物に熱中していたブラシスが顔をあげた。

 「おお、そうだな。シードも休んでおくれ。マリンダ、お茶を頼む」

 はーい、と答えたマリンダが作業をしている他の子供達に休憩を告げた。子供達も、はーい、と元気に返してきた。シードはようやく我が家に帰ってきた気がした。

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