Side-B①
進軍する兵士たち。規則正しい、軍靴の石畳を叩く音が聞こえてくる。
三列に並んだ歩兵の列が、城門から王都外門を抜け、さらにそのはるか先まで続いている。
城内で行われた進軍式に出席した兵士達だろう。
道の両端には、行進する兵士たちに声をかける民衆が立っている。
十人や二十人ではない。
お前ら、仕事はどうした?と聞きたくなるような、まるでこの王都に暮らす人々が皆ここに集まっているような、そんな気分にさせられる。
今年の兵は随分と鍛えられているな…。
そんなことをまったくの他人事のように考えながら、同じ道の端を一人の男が歩いている。
その男は軍服を着ている。
行進に参加していないことを考えると、指揮官か、少なくともそれに類する役職の者だろう──行進自体は、国威発揚も兼ねた、一般兵士によるデモンストレーション的要素が大きい。
それがどんなものであれ、何らかの役職にあるものが、開戦間近のこの時期に考えるようなことではおそらくないだろう。そういう意味では、明らかにこの男は異端であった。
男はある目的があって、とある場所に向かって歩いている。
勧誘、だ。
このたびの戦争で王国軍では、新兵器と、それを専門に運用する新部隊の設立が決まった。
この男はその部隊の運営責任者として、今回の戦争にも参加することになっている。
ただ、頭の痛いことに、その新設部隊を任せられるだけの実力があり、かつ信頼のおける部下がいない。
これまでことごとく軍内のアウトサイダーであり続けたこの男の周りには、優秀な人材も数多く集まってはいたが、その誰もが新部隊の現場指揮官という重責を担うには、経験、実力、いずれかが劣っていた。
なにせ、実戦投入されるのは今回が初めての新兵器を主力に据えた新設部隊にもかかわらず、軍上層部は結果をも求めているからである。
上層部としては、開発費だけでも国庫を圧迫しかねない額を使っているのだから、少なくともそれ以上の成果が欲しいのだろう。
それは、部隊の運営を預かる身としても理解はできる。
理解はできるが、やれるかと言えば「俺には無理」と言いたくもなる。
というか、この男は上層部からの打診を受けて、二つ返事でそう言ってのけた。
そして、自分にできないことを自分の部下に押し付けるような無責任さは、この男には無かった。だからこそ、部下にも慕われるのだろうが。
ではどうするか。
男の頭の中には、指揮官としての打診を受けた時から、自分の代わりとして、自分以上の成果をあげられる人物の名前が挙がっていた。
経験と実績にあふれ、自分のみならず軍上層部からの信頼も厚く、部下からも慕われる。
そんな理想の人材がまだこの国には残っている。
今は半ば引退の身にあるかつての〝英雄〟を今から勧誘しに行くところなのだ。
「ふぅ。」
額に浮かぶ汗を拭う。
休憩を入れるために地面に下された鍬は、普通の一般的な農夫が使うものと比べると、いささか、いや、あまりにも、とてつもなく、巨大すぎるものだった。
おそらく、先ほど行進をしていった王国軍の兵士たちですら、誰一人、持ち上げることはできても、振り上げ、下すという、農作業をこなせはしないだろう。
今耕している畑には何を植えようか。
そうして、世間で栄養価が高いといわれている野菜の名前をいくつか頭の中に浮かべ、そして消していく。
長患いの妻にはせめて栄養の付くうまいものを食わせてやりたい。
三人の子供たちもまさにこれからが育ち盛りだ。
できれば良いものを食べさせてやりたいが、あいにくと金が無い。
土地と屋敷を維持していくのでギリギリ。
実際にはそれすら少し足りないのだが、かつての名声のおかげで助けてくれるものは多い。
おかげでなんとか、親子五人日々の食事にありつけてはいる。
だがやはり、生活は苦しい。
少しでも足しになればと庭を掘り返し、畑(のようなもの)を作ってはみたが、それも芳しくはない。
効率のいい部隊の進め方や、より簡単な人の殺し方ならばいくらでも思いつくのだが、こと生活面の能力の低さと言ったら…。
正直、自分一人ならとっくに飢えて死んでいてもおかしくはない。
自分に似ず人付き合いのいい長男と、母に似て生活能力の高い長女のおかげで人並みの食事にありつけている。
父親としては情けない限りだ。
この男の名前はブライアン=オルフェウス。十年以上前、南部国境拡張戦で、王国軍最強の精鋭部隊として名高い〈紅軍〉、その中でも一騎当千の猛者揃いと言われる騎兵隊の副隊長として幾多の戦場を歴戦し、そのほとんどで歴史に残る勝利を挙げてきた、王国軍の誇る伝説の英雄だ。今なお兵士たちの憧れの的である。
三年前、三人目の子を産んで以来、病床に伏せている妻と幼い子供たちのためにと、今は軍を辞め、今までの蓄えを食いつぶしながら細々と暮らしている。
英雄と呼ばれるのにふさわしく、その体躯は見上げるほどに大きく、屋敷の玄関をくぐるにも頭を屈めなければならないほどだ。全身の筋肉は軍を辞めた今も衰えることなく、というか、日々の畑仕事のおかげで、書類仕事ばかりをしていた軍人時代(の最後の頃)と比べると、むしろ逞しくなってすらいる。その腕は今や丸太のように太い。
全身日焼けで浅黒くなり、漆黒の頭髪も合わせると、遠くからは、巨大な熊が歩いているようにしか見えない。
「よう、元気にやってるか…?…って、黒っ!!」
やたらと馴れ馴れしい声に振り向くと、そこには懐かしい、かつての同僚の姿があった。
最近は新設部隊がどうのといって、滅多に訪ねてこなくなったこの軽薄そうな男は、名をオーウェン=アダムズという。跳ねっ返り気が強く、軍上層部には毛嫌いする人間も多いのだが、同時に優秀でもあるため、極めて扱いの難しい男だといわれている。
「久しぶりだなぁ…ブライアン。というか、少し見ないうちに、また随分と黒くなったな。それにまたちょっとデカくなったんじゃないか?」
英雄の肩書と、それに見合うだけの大きな体で、畏怖の対象にしかならないブライアンに対し、このように気軽に話しかけてくるのはもうオーウェンくらいのものだ。
二人は新兵訓練所で同室となり、それ以来幾度も戦地を同じくしている、文字通りの戦友だ。語られるブライアンの戦果の内、その幾らかはオーウェンの立案した作戦によるところが大きいのだが、そのことが認知されることは今までなかった。それは、オーウェンという男が軍上層部と個人的に仲が悪いことと、決して無関係ではないだろう。
「この年でまだデカくなって堪るか、阿呆。」
ぶっきらぼうにも聞こえる返答にも、オーウェンは決して嫌な顔をしない。
彼は知っているのだ。目の前にいる、熊のような──というか近くで見ても九割方、熊寄りな──この男がただ口下手なだけで、友人にも部下にも愛され、慕われていることを。
そして、その誰よりも彼自身が、友人や部下を愛していることを。
ブライアンは、大きく一つ息を吐き、鍬を下す。
「随分と久しぶりだな。我が戦友。茶でも飲んでいくか?」
「おう。今日はそのつもりで来たんだ。アメリアちゃんの茶は美味いからなぁ」
あっはっは、と陽気な感じに笑っているこの男が、そんなしょうもない理由でこの家に訪ねてくるだろうか?とブライアンは首肯したが、すぐにそれもあり得るな、と考えてしまったあたり、信頼されているんだか、いないんだか。
アメリアというのは、今年7才になる長女の名前だ。
どこが良いのか、オーウェンにすっかり懐いてしまい、男親としては、可愛い娘の男の趣味を疑ってしまう事態になっている。
二人はそろって玄関に向かって歩き出す。
「それで、奥方の調子はどうだ?」
「アンナか…。相変わらずだ。元々丈夫な方ではなかったが、あまり好くなる気配はないな。最近はずっとベッドに寝たまま、時折体を起こすくらいだ。俺も、子供たちも心配している」
精悍な顔つきと巨躯が自慢のブライアンは珍しく肩を落とす。
その体は普段の二回りも小さくなってしまったように見える。
「医者に見せてやりたいが、あいにくと金も無い」
「お前なら、ただで見てくれる医者も多いだろうに。仮にも王国の英雄〝血染めの竪琴〟の頼みを断るやつはいないだろう」
これは、嘘でも冗談でもなく、本当にそう考えていることだ。おそらく、他の誰に聞いても似たような言葉が返ってくるだろう。
ブライアン=オルフェウスといえば、王国では並ぶ者のいない英雄である。
名前だけならば国民の大半が知っているだろう。
小さな男の子ならば、一度はその英雄譚を耳にし、憧れを抱く。
良識のある大人たちの間では、正体は聖人だか鬼だか云々、という話や、国家の策略によって作り出された偶像だ、という話など、好き勝手に話されているとか。
だが、当の本人はというと、大きく一つ溜息をついて、
「そういうのは好かん。俺だって英雄などと祭り上げられてはいるが、所詮は一人の兵士だ。権威をあからさまに振り回す姿が、他人にはどれほど醜く映るかはよく知っているつもりだ。アンナのことを思えばそうも言ってられんのだがな。だが、そういうのは、本当にいざとなったら、だ。それに、今ですら周りには十分助けられているしな。結局、国からもらえたのは、栄誉とちっぽけな勲章一つ。あの頃ならばそれでも良かったが、所詮栄誉では腹は膨れん。今は金が要る。食うにしても、暮らすにしてもだ…」
ブライアンという男は昔から潔癖のきらいがあった。だが、それにも増して王家への忠誠心と軍への信頼は厚かったのだが、そこはここ数年ですっかり変わってしまったようだ。
だがそれ以上にオーウェンには気になっていることがあった。
「そうか…それにしても、今日はやけに饒舌じゃないか。なにかあったのか?」
「む…」
そう、ブライアンは本来こんなにおしゃべりな男ではない。
長年の戦友相手だとしても、今日の彼はいささか饒舌が過ぎる。
「かもしれん…。最近は開戦が近いとかで、訪ねてくる仲間も減った。俺もどこか寂しかったのかもしれないな」
そう言って力なく笑う姿には、かつての英雄と呼ばれた頃の面影はすっかり無く、日々の生活に疲れた一人の父親のそれしかなかった。
そんなかつての戦友の姿は見るに耐えられず、オーウェンはこの男の下を訪ねた理由を告げることにした。
「実はな、お前に頼みがあって今日は来たんだ。お前をこの国の英雄、〝血染めの竪琴〟と見込んで、そしてなにより、あの紅軍騎兵隊副隊長としての経験を見込んでの頼みだ」
「断る」
「ちょちょちょちょちょちょ~~~~い待ちっ!!」
「なんだ?」
「『なんだ?』じゃない!早いよ、断るの!せめて話だけでも…」
「いらん」
取りつく島もない。
普通の人間ならば、ここまで煽てられれば話くらいは聞いただろう。
だが、生憎とこの熊のような男は、普通ではない。……どちらかと言うと熊に近い。
普通の人間ならば、ここまで拒絶されれば諦めただろう。
だが、生憎とこの軽薄そうな男も、普通ではない。
「金、いるんだろ?」
それは、さながら悪魔の囁きだった。
先を歩いていたブライアンの歩みが止まる。
それでも振り返ろうとしないのは彼の矜持故なのか。
「お前にやってもらいたいのは、俺が指揮する新設部隊、〈重弩中隊〉の護衛隊の指揮だ。名目上の指揮官は俺の部下の内の誰かをつけることになると思うが、残念ながら経験も実績も足りない。だから、実質の指揮権はお前に与えるつもりだ。役職は〈重弩中隊護衛隊隊長補佐〉。正式な辞令付の役職だから、当然、戦役手当も増える。重弩中隊の配置は本陣の傍になるだろうから、直接の命のやり取りも少ない。敵と出逢うのは、側面からの奇襲か、戦闘の最終盤になるだろう。重弩隊は機動力が皆無でな。その分、護衛隊には負担がかかることになるだろうから、任せられる奴が他にいない。な、考えてはくれないか」
途中で断られないように、早口で、一息でまくし立てた。
口調にはそれまでの軽薄な印象はなく、さながら人が変わったようでもある。
真面目にやろうとすればできる男ではあるのだ。
ブライアンの方はというと、立ち止まってからピクリとも動かない。
そして訪れる、しばしの沈黙。
やがて、ブライアンが静かに口を開いた。
「…俺がいなくなったら、アンナは、子供たちはどうなる?もし、俺が戦場で命を落としたら…。いや、そうじゃない。戦争が始まればしばらくは帰れない。その間、家族はどうする。…無理だ。俺には…行けない」
頼んできたのが他の人間ならば、ここまで悩んだりはしなかっただろう。
オーウェンは戦友だ。
幾度も共に死線を潜り抜けた、生涯の友だ。
そんな相手に、お前の力が必要だ、お前の経験を認めている、と言われることは、何事にも増して嬉しいし誇らしい。
本来ならば、誰よりも先に自分が手を差し伸べなくてはならないのに。
だからこそ、断る理由を探している自分が、情けなくて仕方ない。
苦しい葛藤。それが透けて見えるようにぽつぽつと語られた言葉は、オーウェンの胸に響いた。
かつて、戦場で敵味方を問わず、鬼神と恐れられた英雄の姿はなく、今はただ一人の子煩悩な愛妻家がいるだけなのか。
「受けてくれるなら、俺の方で人を手配する。お前が気に病むことの無いように、奥方も子供たちも、健康な生活が送れるように手配しよう。それと…」
一度、言いよどんだ末に、少し迷ったが、続きを口にする。
「それと、もし、万が一にもあり得ないことだとは思うが、もしお前が死ぬようなことになったら、国からの見舞金と軍からの特別褒賞金が出るように、取り計らっておく。家族四人、少なくとも子供たちが成人するまでは、不自由のない生活を送れる額が出る」
普通の軍人にはここまでの恩賞は受けられない。
この待遇は、まさしく破格だ。
正直に言えば、のどから手が出るほどに、今すぐにでもこの話に飛びつきたい。だが…。
「俺に、妻と子供を生かすために人を殺せ、と。お前はそう言うのか」
ブライアンの心の葛藤は、大きかった。
自分の体を治すために、夫は人を殺しに行ったのだと知った妻はどう思う?
自分たちの食べている飯は、父が人を殺した金で買ったのだと、そう知らされた子供たちはどう思う?
何より、それを知られたとき、自分は彼らの家族でいられるのだろうか。
そう思うと、彼は決断できないでいた。
だが、その言葉を聞いたオーウェンは、何の迷いもなく断じた。
「そうだ」
と。
一息ついて、昔を思い出すようにゆっくりと、しかし力強く続ける。
「お前は何も気に病むことはない。お前はただ、俺と俺の部下たちとお前の部下たちを守れ。ただそれだけで良い。全ての罪も、全ての憎しみも、全ての悲しみも、俺が代わりに背負う。それが指揮官としての俺の務めだ」
それこそが、軍という規律の求められる組織において、常にアウトサイダーであり続けたこの軽薄な男の、高潔なまでの矜持だった。
十年前もこの言葉に救われた。そんなことをふと思い出す。
「一晩、考えさせてくれ」
そういうと、振り向くことなくブライアンは家に入っていった。
雲のない、月夜の晩。
窓辺に座り、考え事をしている父の傍に少年はやってきた。
「父様」
「…ルークか」
少年は長男のルーク=オルフェウス。次代のオルフェウス家当主である。
まだ十才になったばかりの、幼さの残る顔つきをしている少年だ。
「戦争に行かれるのですか?」
どうやら昼間のやり取りを聞いていたらしい。
「お前はどうして欲しい?」
狡い聞き方だ。
子供に頼ってどうする。
ブライアンは心底自分に失望した。
ここまで弱くなってしまったのかと。
「すまんな。しようもないことを聞いた。もう寝なさい」
そう、息子を促すと、
「行ってください」
ブライアンは耳を疑った。今この息子は何を言ったのか、と。
だが、驚いたままの父が何かを口にする前に、少年は改めて言った。
「行ってください、父様。家は僕が守ります。母様もアメリアもトビーも、みんな僕が守って見せます。だから父様は行ってください。友達は大切にしろ、といつも仰っているではありませんか」
その幼い両の瞳には確かに決意が見て取れた。
戦場で幾度も見てきた。
誰かを守ろうとする、男の眼だ。
この息子は、いつの間にか、一人の男になっていたのだと、かつての英雄は気付かされた。
そのことが堪らなく嬉しくて、息子を抱き寄せると、声を殺し泣いた。
息子は、初めて見る父の涙に戸惑いながら、それでも力強く父の首に抱き着いた。
別れを惜しむ親子の様子を、夜空の月だけが静かに見ていた。




