Side-A①
優雅な曲が流れるホールの中で、華麗なステップを踏む人々。
豪奢な衣装に包まれた年若い少年少女たちや、真新しい軍服に身を包んだ若い兵士達である。
隣の王国との戦争がいよいよ間近に迫りつつあるなか、この夜の宴を開いたのは、バルザレッティ家の現当主、〈甲軍〉総指令官アレッシオ=バルザレッティ将軍である。
彼の指揮する〈甲軍〉は公国四軍の中でも拠点防衛力に優れた部隊のため今回の出兵には参加しない。──というより、〈甲軍〉は元々、公都や国境砦などの要所を防衛することを主任務としているので、今回のような開けた戦場ではあまり活躍できようもないのだが。
だが、徹底された実力第一主義の公国において、『公国御三家』と称せられるほど、同一の家系から優秀な武官を数多く輩出し、国内外にその名を知られるバルザレッティ家当主として、そして自身もまたその優秀な軍人の一人でもあるアレッシオ卿は前線に赴く兵士たちと、その家族たちのために、贅を尽くした宴を開くことにしたのだ。
といっても、時期は開戦間近。
何事にも限度というものがある。
少しばかりの酒と、普段よりもいくらか豪華な料理。それと音楽。
たったそれだけのもてなししかできない。
それでも大方の客人には好評のようだった。
優雅な管弦楽の音律にのってくるくると回る人々。
その顔はどれも皆にこやかで、今、このひとときの夢のような時間を噛みしめているようでもあった。
そんな中、月明かりに照らされたバルコニーに一組のカップルがいる。
恋人同士の逢引き。そんな風に見えなくもないが、その雰囲気は、決して穏やかなものではないようにも見える。
「…父上はやはり許してはくださらないそうです」
沈黙に耐えきれず、少女の方が口を開いた。
再び重い沈黙が二人を包む。
年の頃は十五、六。月光の下で金に輝く髪は美しく、翡翠色の瞳とスッキリととおった鼻筋は、父でもあるアレッシオ卿によく似ている。
少女の名はソフィア=バルザレッティ。
公国御三家の一つ、〈尚武のバルザレッティ家〉のご令嬢である。
少女は、光沢のあるシルクの生地で仕立てられた、鮮やかな赤のドレスを着ている。
人によっては下品な印象を与えそうな原色の赤も、彼女が一度その身にまとえば、彼女の清廉さと高貴なまでの美しさを引き立てるだけの飾りにしかならない。その立ち姿はホールの中にいる子女たちの誰よりも美しく、ひとたび笑顔で舞台に立てば、誰もが目を離せなくなることだろう。
それは、一種の恐れに近いほどの美貌だった。
しかし、その美しさも、今はどこか翳りを帯び、翡翠色をした大きな両の瞳は少しうるんできているようにも見える。
いまだに目の前の青年から言葉は帰ってこない。
沈黙が耳に痛い。
たまらず少女は目を伏せる。
家の中から聞こえてくる陽気な管弦楽の調べすら、今は耳障りである。今すぐにも飛び出していって、奏者を片っ端からひっぱたいてやりたい…そんな衝動に駆られてしまう。
「そんな怖い顔をなさらないでください」
不意に頬に触れられる。
相変わらず、顔に似合わない武骨な手だ。
少女は知っている。
この武骨な手は軍人のものだ。それも、人並み以上に苦労と修練を積み、強い覚悟と信念を内に秘めた軍人の。
それはまるで彼女の父親と同じように。
顔を上げると目の前には、いつものように優しく、しかし、多分に苦みの多い顔で微笑んだ青年が立っていた。
「他国にさえ名高い〈尚武のバルザレッティ家〉、その中でも十指に入るほどの優将と称されるアレッシオ将軍からしてみれば、わたしのような「文官の家の次男坊ごとき青二才」には大切な娘はやれん、ということなのでしょう。それは、貴女にお会いした時から、そしてわたしのこの思いを貴女に告げる前からわかっていたことです」
「そんな時代錯誤で非効率的な理由など知りません!!」
青年の言葉に、金切り声をあげて否定を返す少女。
それでも青年は苦笑を浮かべたままだった。
彼には分かっている。それは、少女の強がりであることが。
「…嫌いです。あんな父上など…」
そんなはずはない。
青年は、もちろん知っている。
彼女が、父親をどれほど尊敬しているか。
だから、彼には、何も言わず微笑むくらいしかできない。
青年の名はアレッサンドロ=アマルフィターノ。公国御三家の一つ、〈賢政のアマルフィターノ家〉と称せられる文官の名門一家の次男である。アマルフィターノ家もバルザレッティ家同様、建国とほぼ同時に頭角を現し、過去に幾人もの優秀な文官を輩出してきた名家である。
この青年の近親者で言えば、青年の祖父の兄弟──つまりは大叔父にあたる人物が先代の宰相を務めている。
とはいえ、国力において周辺諸国と大きく溝を開けられているこの公国は、実力第一主義を掲げているため、宰相や将軍の親類縁者でしかなければ、いかなる権力も持たない。普通の庶民と同じように…とまではさすがにいかないが、良家の子息、子女程度の扱いしか受けない。
賢人の息子が必ずしも賢人ではないように、英雄の息子が必ずしも英雄ではないように。この国の文化として、歴史として、その者個人の実力を重視するようにしているのだ。
そうして、他国と比べて、人も資源も乏しいこの国は成り立っている。
そのおかげもあって軍事面、政治面とも大きな混乱もなく、むしろ小国には分不相応なほどに強大な勢力を誇っている。
だから、本来「文官の息子だから」という理由で交際を許可しない親は少ない。
まぁ、もっとも、結婚前の娘がどこぞの男と交際するのを快く許可する男親がいるのか、と聞かれると、答えは「否」なのだろうが。
青年もまた美しい金の髪をしている。淡い海色をした瞳は、その双眸でじっと見つめられれば、だれでも容易く魅了してしまうほどの強い神秘性と妖しげな魅力を兼ね備えていた。
誰しもに恐れを抱かせるほどの美貌を持つソフィア嬢と、意図せずとも乙女を虜にしてしまうアレッサンドロ卿。
第三者の目から見れば、これほどお似合いの相手はいないのではないだろうか。
アレッサンドロはアマルフィターノ家の人間にしては珍しく、軍に志願している。
だから、今晩の宴にもアレッシオ卿と同じ──といっても胸の勲章や襟章の数など、まったくもって、比べるべくもなく、同一のものには見えないのだが──軍人の礼服で参加している。
家は長兄が継ぐことが既に決まっているし、その長兄は既に監察官として公国各地を回る忙しい身だ。
彼はなにより、この少女と結ばれることを願っている。
この少女もまた自分の目の前の青年を愛してくれている。
だからこそ、彼は軍に志願し、彼女の父上の眼鏡にかなう男になろうとしていた。
だから、青年は、目の前で今にも泣きだしそうな少女に告げることにした。
「今まで黙っていたのですが、先ごろ辞令がありました。先月からルジェロ将軍麾下の〈翼軍〉第二中隊に配属されました」
「はぇ?」
ソフィアの口からは、およそ良家の淑女らしからぬ声が漏れる。
「おそらく次の戦争にはわたしも参加することになります。ようやくの初陣となりましょう」
青年がそう告げると、少女の顔はさっきまでの紅潮した顔から、青白い顔へと、文字通り血の気が引いていた。
…ふらっ
「危ない!!」
膝から崩れ落ち、そのまま倒れそうになった少女を、青年は抱きかかえる。
少女は青い顔をして、それでも青年の頬に手を伸ばして問いかけた。
「サンドロ様、なぜ今までお話しくださらなかったのです?普段ならば賛辞を贈らなければならないところですが、何もこのようなときに〈翼軍〉に配属などと…。それが軍人にとっての栄誉であることは承知しておりますが、わたくしにとってはそんなものに意味はありません。ただ貴方様がわたくしの傍にいること、ただそれだけを願っていたというのに…」
〈翼軍〉は公国四軍の中でも最強の部隊とされている、機動力と制圧力に優れた部隊だ。
部隊の実力に比例して、与えられた権限は四軍のどこよりも大きく、現場での指揮権は基本的に〈翼軍〉が優先される。
だから、〈翼軍〉に配属される兵士は、基本的に優れた能力を持っている。それが、戦闘にしろ作戦立案にしろ、だ。それ故に、〈翼軍〉に配属されることは、自分の持つ力を認められた証でもあり、それ自体が多くの兵士にとっては、大変に栄誉なこと、とされている。
逆に言えば、何の実績も経験も持たない人間が〈翼軍〉に配属されることはない。
なにか特別な思惑が働かない限りは。
例えば、どこかの将軍からの口利きがあったとか…。
「ソフィア様、貴女にも分かるでしょう。何の実績も経験も持たないわたしが〈翼軍〉に配属された意味が。これは好機です。あなたの父上、アレッシオ将軍が与えてくださった好機なのです」
アレッサンドロには分かっていた。
これはアレッシオ将軍が作ってくれた好機であることが。
そして、その内に隠された思いが。
「〈翼軍〉は四軍の中でも特に実力主義が強い軍です。中に入ってみてよく分かります。力こそがすべて。そこには家柄も生まれの貴賤すらも関係ない。徹底したまでの信賞必罰です。そこで結果を残すこと。それさえできればお父上も、アレッシオ様もわたしたちを認めてくださいます」
そして同時に、そのことにも気付けないような阿呆には、もとより娘をやる気がないことも。
アレッサンドロは将軍の思いをほぼ違えず受け取っていた。
もっとも、将軍の内心はこれほどに友好的なものではなかったが。
「ですから、もし願ってくださるならば、わたしの武功を願ってください。そうすれば、わたしは必ずや大きな武功を上げてみせましょう」
先刻からずっと彼に抱えられ、じっと動けないままでいる少女に彼は声をかけた。
すると少女はゆっくりと顔を上げ、少し背伸びをし、彼の頬にそっと口づけをした。
「分かりました。わたくしはこれからいつも願っています。サンドロ様の、貴方様の無事を。武功などいりません。欲しくありません。たとえそれが敵の血であっても、貴方様の手が汚れてほしくはないのです。わたくしには、ただ貴方様の無事だけが褒美。それだけが願い。それを決してお忘れにならないでください。貴方様にご武運を。〝父なる星と母なる大地の祝福を〟」
最後はほとんど涙声で、それでも思いの限りを伝えてくれたこの世で最も愛しい人に、青年はそっと微笑み、優しい口づけを返した。
「お約束します。再び貴女と出逢うために、こうして貴女を抱きしめるために、わたしは必ず帰ってまいります。〝父なる星と母なる大地の祝福を〟」
ホールではラストダンスの曲が流れ始めたが、二人がいないことに気付いた者はいないようだった。
バルコニーで静かに抱き合う恋人たちを、夜空の月だけが静かに見ていた。




