2決意と孤独
ここは星空も月さへもほとんど見えない。
高層ビルなどの建物が天を掴もうとするかのように聳え建っていて、月の光がいらないほどネオンが輝いている。
歩道に等間隔に並べられた街灯。
街はこんなに賑やかなのに、街灯の明るさは淋しさを感じさせた。
建物の入り口にある木製のベンチに美香は、大きな撫子色をしたチェックの鞄を抱えて座っていた。
初めて見た夜の街に緊張する。
仕事帰りのサラリーマン。ファンデーションを何重にも塗ったとわかるような化粧をした派手な服装の女性たち。
美香は両耳の上で結えた髪型。水色のフリルのついたキャミソールと足が隠れるほどの白いロングスカートという格好をしている自分を見て、場違いな服装をしていないだろうかと不安になった。
そんなことより、これからどうしよう……。
家を飛び出したものはいいけれど、その後のことを考えていなかった。
美香は閉口する。
「ねぇ、君」
低い男の人の声が聞こえた。
声が聞こえた方に顔を向けると三十代くらいの、たれ目の男性が立っていた。
「……はい」
急に話かけらてたことに狼狽えながらも返事をした。
「君、中学生だよね?」
そう訊かれ、ドキッとする。
美香は本当は高校一年生なのだが幼顔がそう思わせるのだろう。
たれ目の男は美香の座っているベンチに腰をかける。
「その大きな荷物は家出か何かかい?」
「………」
美香は当然のごとく口ごもる。家出です、と言えるはずがない。
補導されるんじゃないか、と不安になった。
男は次々と質問をしてくる。
早くどっか行って。お願い!!
膝の上で両手を握り締め心の中で懇願すると、
「そんな怖がらなくても大丈夫だよ。補導とかする気ないし」
まるで美香の心を読んだかのような言葉が返ってきた。
「えっ!?」
美香は吃驚する。
たれ目の男は淡々とした口調で尋ねた。
「その反応だとやっぱり家出か」
男は苦笑する。
「行く宛あるの?」
と、付け足した。
その問いに、はっきりとない、と答えた。すると男は美香のような家出を
している子を泊める場所があると言った。
そんな都合の良い話があるのだろうか?
訝しげな表情をすると、
「君みたいな子供に手を出すほど飢えてないよ」
男はそう言って苦笑する。
ピルルル、と携帯電話の音がする。
「ちょっと、ごめん」
と合掌して、ベンチから立って離れていった。そして悠然とした態度で電話に出る。
信用しても大丈夫そうだ、と美香は安堵した。
しばらくして男は話を終え、美香を駐車場まで案内した。そこの駐車場の入り口にある一本の街灯は明滅して光を失いかけていた。
美香は赤い光沢のある四人乗りの軽自動車に乗る。信用してもよさそうとは思ったものの、もし襲われたりなど無いように後部座席に座った。
車の中はタバコと甘いオレンジの香り芳香剤の匂いが混じっていた。車酔いしなさそうな人でも長時間乗っていたら気持ち悪くなりそうだ。
男はバッグミラーから美香の姿を見て言った。
「君、警戒心強いね」
「え?」
「助手席に乗らないのは警戒してる証拠だろ?」
「はぁ……」
「そういえば、君いくつ?」
「十六です」
「うそぉ! もっと若く見えるよ」
男は驚くと、車が急に止まった。
美香の頭の上には疑問符が浮いている。
車の窓から外を見ると、幅広い歩道のあちこちに木などが植えられている。それを挟んで高層ビルが建っていた。歩道の真ん中には大きな棒の先端に丸い翼の生えた時計が付いている『天使の卵』があった。ここは、まだ街の中心部だ。
こんな所に男の人が言った家出の子をかくまう場所があるのだろうか?
「もう、着いたんですか?」
と訊くが返事がない。
ガバッ!!
後部座席の両側のドアが開いた。美香が驚く暇もなく、両脇から見知らぬ男が乗り寄せて来た。
「おっ!! 可愛いじゃん」
右側にいる野太い声の偉丈夫な男がそう言った。
もう一人の左側にいる華奢な男は美香の体を舐めまわすように見て、
「本当に好きにしていいんですか? 田村さん」
鼻息を荒くして、運転席にいるたれ目の男に尋ねた。
田村と呼ばれた男は美香を一瞥し、嘲るような笑みを見せ、犯罪にならない程度にやれ、と言った。
私はこのまま、男どもに弄ばれるのだろうか、と恐怖と不安に襲われる。
華奢な男が美香の胸を触ろうとした。たが咄嗟に足元に置いてあった自分の鞄を掴み、横に大きく振った。すると鈍い音がして華奢な男の顔面を直撃した。
美香は自分の執った行動に呆然とする。
男は苦痛の声をあげた後、憤慨して、
「何すんだよ!!」
美香の左頬を殴打した。
それを見て田村は舌うちをして華奢な男に、殴ったら証拠が残るだろ、と叱声を放つ。
「その女、外に出せ!!」
と、田村は怒声に近い声を上げ、男二人は怯えた様子で美香を車から押し出した。
弄ばれなくてよかった、と安堵する余裕もない。殴打された左頬が疼き、両手で押さえた。美香がしゃがみこんでいるアスファルトがやけに冷たく感じた。自分の鞄がないことに気づく。あの中には財布が入っている。手元に残っているのは携帯電話だけ。
これからどうしよう……。
でも、あすこには帰りたくない。
「誰か助けて……」
と、か細い声で呟いて恐怖で強張った自分の体を抱きしめ、黒い雲がかかった月を見上げ
た。
掃除をしていない台所のような生ものが腐食している匂い。美香はその匂いで何度も目を覚ました。
薄暗い路地。人間が二人ほど入られるくらいの幅の中で美香は身をひそめて寝ていた。
上を見ると、二つの高層ビルの間から眩い朝日が少しだけ差し込んできている。
やっと朝になったか、と肩をなでおろす。
体中に油の幕を張ったような不快感。お風呂に入ってないせいだ。顔などを洗いたいところだが、昨日、悪漢どもに荷物を持っていかれた。殴打された頬がまだ疼く。それに、腹部に空洞ができたような感じがする。
「……お腹すいた」
と、しゃがみこんでいた美香は立ち上がり、白いスカートについた砂を払った。
とりあえず歩道に出ると、日差しが眩しく感じた。暗い所にいたためだろう。
朝の街は安穏としていた。不安にさせるようなものは一つもない。美香は朝と夜の違いに驚いていた。
立っていてもしょうがない、と思いしばらく闊歩すると腹の虫が鳴いた。
美香は慌ててお腹を押さえ、周りを見渡す。さほど大きな音ではなかったので誰も気づかなかったようで安堵する。
ふと、下を見ると何かを見つけた。シャネルのマークが印してある横長の財布が落ちている。
美香は財布を拾うと少し重みがあった。
どれだけ入っているんだろう、と気になり中身を調べる。見たとたん自分の目を疑った。
三百ページほどの文庫本の厚さはあるであろう。お札がぎっしりと詰まっていた。
私ってなんてラッキーなんだろう。辛い思いをした後には福がくるって本当だったんだ、と喜ぶ。
これだけあったら何ができるだろう。
まずはお腹が空いてるから食べ物を独り占めして……。
和洋中の料理が美香の頭の上に沢山、浮かんでいた。
気づかないうちに口の端からよだれが出ていて、慌てて手の甲で拭う。
少し罪悪感はあるが、落とした方が悪いんだ、と思い財布のファスナーを閉じた。
「ちょっと、何してんの」
背後から女性の声が聞こえた。美香は吃驚して後ろを振り返ることができなかった。
「今、中身覗いてたでしょ」
「………」
「なんとか言いなさいよ」
女性に詰問され、美香は項垂れながら向き直り、
「ごめんなさい……」
と、財布を差し出して謝った。その手は震えている。
ゆっくりと自分の財布を受け取り、美香を見て柔和に微笑んだ。
「返してくれてありがとう」
美香は安堵し顔を上げる。女性は何かに気づく。
「それどうしたの?」
「あっ、これは……」
慌てて両手で頬を隠す。昨日の殴打された後に気づかれた。
「何かあったの?」
「なんでもないです」
「でもすごい腫れてるわよ」
女性は心配そうな顔で美香を見る。
昨日の悶着を意地でも言わないと首を横に振る。
「でも痛いでしょう。手当てしてあげるから」
と言われたが断った。けれども女性は引き下がらない。
「大丈夫よ。手当てするだけなの」
「本当にいいです。大したことないですから」
「頑固な子ね。いいから来なさい!」
女性は美香の手を握り締め、歩き出した。
昨日のことが心的外傷になってるのか、どこに連れていかれるのか不安だった。
美香は何気なく空を見上げた。空は残酷なほど澄みきった色をしていた。
街から少し離れた所には古びたマンションが建ち並ぶ。その建物の前には等間隔に長い花壇が置いてある。
白い三階建てのマンションの急な階段を上った。階段が錆びていたためもあるのか上るのが少し怖かった。手書きで『柏木』と記された表札が飾られている黒い扉の前に到着する。
ここに来る間に『松平麻由』と名乗っていた金髪の女性はいきなりインターホンのボタンをしつこく連打した。それを見て美香は驚く。
バタバタと慌しい音がしてから扉がゆっくりと開いた。
「はいはい。居るって」
と、めんどくさそうな顔をした男の人が出てきた。
年は麻由と同じくらいの二十歳。肩まである茶髪と精悍な顔つき。赤いYシャツと黒いズボンという格好。美香は一目でホストだと判った。
「何回も押すなって言ってんだろ! あんたは金融会社のヤクザか!!」
「今の時間。いつもは寝てるじゃない」
声を荒らげる柏木に対し麻由は淡々とした口調で返した。
柏木は深いため息をつく。
「で、何の用?」
「言わなくてもわかるでしょ」
そう言うと麻由は美香を一瞥した。柏木はその一瞥で状況を把握したのか頷いた。
そしてどうぞ、と部屋の中に入れる。
「じゃぁ、私は仕事に戻るから」
「えっ!? 一緒に入らないんですか?」
この部屋の中には柏木という男しかいない。昨日みたいに何かされないだろうか。
美香の不安げな表情を見て、麻由は柔和に微笑む。
「大丈夫よ。この男、気が小さ……」
バシンッと柏木は最後まで言葉を聞かずにドアを強く閉めた。
そして、美香の顔を見て取り繕った笑顔を見せる。
「うるさくしてごめんね。どうぞ、入って」
そう言われ、窮屈な玄関から出て、七畳くらいの広さがある部屋に上がる。
玄関を上がってすぐ左の使っていないんじゃないかと思うような台所が目に入る。台所の向かい側に三人くらいで食事ができる黒いテーブルが置いてあった。茶色の床は何故か光沢がある。
男の人にしては綺麗な部屋だ。この柏木さんって人は几帳面な人なんだな、と美香は思った。
柏木は台所の奥にある冷蔵庫の中身を覗きながら、
「奥の部屋で、適当な所に座っといて」
と言った。
言われたとおり、淡い茶色の戸を開け、中に入った。
白いソファーに座っていると、柏木は両手に飲み物が入った硝子のコップと救急箱を持
ってきた。
美香は横で柏木に頬の手当てをされながら、麦茶で乾ききった喉を潤す。食道から液体が入っていくのが生々しいほど判った。
手当てが終わり、柏木は救急箱の整理をしながら訊いた。
「君、名前なんて言うの」
「……大原美香です」
「美香ちゃんね。俺の名前言ってないよね」
「はい……。でも柏木さんですよね」
「知ってたか。でも『絢』でいいよ」
「けんさんですか……」
「そう。絢爛の『絢』だよ」
絢爛の『絢』って……。
美香は心の中で苦笑する。
柏木は救急箱の蓋を閉じて、美香に向き直る。
「美香ちゃんは家出してんだよね」
「えっ!? なんで……」
「男の勘ってやつかな」
にっこりと微笑んでそう言った。
女の勘はよく聞くけど、男の勘って何?
美香は小首をかしげる。
急に柏木は美香の腕に触れそうな位置まで近づく。そして顔を覗き込んだ。
「家での理由、よかったら教えてくれないかな」
どうして家での理由を言わなきゃならないんだ、と思い首を横に振った。
柏木はため息をつく。
「よく居るんだよね。そうやって殻に閉じこもる子」
そう言って、ソファーの背もたれに背中をかける。
「そうやって殻に閉じこもってて苦しくない?」
「……あなたには関係ないことです」
「顔に似合わず頑固だね。まぁ、無理しない程度にね」
柏木はソファーから立ち上がり、救急箱を持った。
彼の優しさに気がつくと涙を流していた。まるでコップに溜まった水が溢れ出したかのようだった。
家に帰っても両親がいない寂しさ。母親は仕事から帰ってくるなり厳しくあたる。愛されていないという気持ち。学校では目立たないように明るい女子高生を演じていたのに、
影で友達から悪口を言われていた悲しさ。
孤独に耐えきれなかった自分は今、こうしている。
本当は誰かに助けてもらいたい。でも孤独から助けられる人はいるのだろうか。言ったことで嫌われたりしないだろうか。
柏木は再びソファーに座り泣いている美香の頭をそっと撫でた。
「辛かったんだね。もう大丈夫だよ」
と優しく言う。すると急に、美香のお腹の虫の音が鳴った。
二人は目を丸くして驚いた。そしてクスッと小さく笑った。
冷蔵庫に何もなかったのか、柏木はお湯を入れたインスタントラーメンを持ってきた。
美香は美味しそうにラーメンをすする。
「荷物とかないみたいだけど」
そう訊かれ、少し悶着があって、と取り繕った。そうすると柏木はしばらく考えてから、
少しの間なら泊まってっていい、と言った。警戒心はまだ解けないが行く宛がないので、そうすることにした。
柏木の家に泊まって三日が経つ。
狭いベランダのフェンスに手をかけ、美香は燃えるような赤い空を眺めて思う。
こんなに居心地の良い場所が今まであっただろうか。絢さんはまるで私を妹のように接してくれて、服とかを買うお金をくれる。この間、恩返しに料理をしたら失敗して台所を汚してしまって
綺麗好きの柏木さんはきっと怒るだろうと思ったら、にっこりと笑って
私の頭を撫でて許してくれた。麻由さんも同じ風にしてくれる。
しかし嬉しい反面、申し訳ない気持ちがあった。
美香は部屋に戻ろうと、ベランダの窓を開ける。白いソファーの上で柏木は横たわって雑誌を読んでいた。
部屋に入ってきた美香に気づき、起き上がる。
「そんなに外に出たい?」
「そういうわけでは……」
「ごめんね。俺、ホストだから家に女の子がいるってバレたら厄介なんだ」
「絢さんが謝ることではないです」
「そう……」
と言って座り直し、何故か深刻そうな顔をして美香を見る。
「美香ちゃん、話があるんだけど」
「はい……」
「もうそろそろ働かない?」
「えっ……」
やっぱり負担になってたんだ、と思いうつむく。
「正直言うと、No.1ホストじゃないしさ。収入もそんなにないわけ」
「私もちょうど、そう思ってました。でも十六歳で働ける所ってあるんですか?」
「ちょっと難しいかもね」
「じゃぁ、どうすれば……」
「援助交際ってのが早く稼げて、そこらのバイトより儲かるけど」
その言葉に美香は少し躊躇った。
「援助交際って、アレをしなきゃいけないんですよね」
「あぁ。性交渉ね」
柏木はあっさりと言った。
「でも、お茶するだけでも大丈夫みたいだけど」
と付け足した。
「それなら私、やります」
「本当にいいの?」
美香を真剣な眼差しで見つめて訊いた。
「はい!」
「そうか……」
その答えを聞いて柏木は複雑な表情を浮かべる。
「絢さん?」
「いや、なんでもないよ」
とにっこりと笑った。美香は怪訝な顔をした。
柏木は少し悲しげな声で言う。
「何かあったら困るから携帯の番号とメルアド教えて」
暗闇に包まれた街。いつも美しく見える月の光さへも不気味に感じた。
美香は丸い時計に羽根が生えた『天使の卵』の近くにある店の茶色の壁の前に立っていた。壁の横には服を着たマネキンがポーズをとって
ガラスの向こう側にいる。
ファッション雑誌の一面のような風景だ。
援助交際と言っても美香は経験がない。何をしていいのかわからなかった。
しばらく店の前に立っていると、七三分けの髪型をした四十歳ほどの男性が横に寄ってきた。人に見られないようにコートのポケットから六万円を出してきた。
援助交際が初めてなことを伝えると、半分の三万円に減った。この人は性交渉を求めていたらしいがお茶をするだけで許してくれた。
その三万円は今までのお礼に柏木に渡したのたが、自分で稼いだお金なんだから自分で使いなさい、と言われ別に欲しいものはなかったので貯金した。け
れど援助交際を続けるうちに、美香の欲は強くなった。お金がいっぱいたまる快感を覚えてしまったからだ。
お茶だけでは二万から三万くらいしかもらえない。
美香は車の中で輪姦未遂にあったことを忘れ、性交渉をするようになった。
欲しい。欲しい、と狂ったようにお金を求めた。
「―はぁ」
古びたマンションの黒いドアを開け、柏木は深いため息をついた。
どこからか主婦たちの笑い声が聞こえる。
昼間からにぎやかだ、と思い玄関前のフェンスに肘を乗せ、セブンスターと書かれた箱からタバコを一本、取り出した。
タバコに火をつけようとした時、
「柏木くん!」
と、女性の高い声が聞こえた。
柏木はかまわず火をつける。
「ちょっと! そんなもの吸ってる場合じゃないでしょ」
「うるさいな。昼間に俺の家くんなって言ってるだろ」
慌てた様子の麻由を見て鬱陶しげな顔をする。
「本当に冷たい男。他の女の前では優しくするくせにね」
「バカ。あれは全て演技だ」
「それより美香ちゃんは?」
「いないけど」
タバコを燻らしながら柏木はそう言った。
「やっぱり……」
「訊かなくても新聞に載ってんだろ」
麻由はため息をついて頭を抱えた。
「あんた、そんな暢気にしてて大丈夫なの?」
「捕まるってんだろ。大丈夫だ。あの子、夜にしか出かけないようにさせてたから」
「今の警察はすぐ嗅ぎつけるわよ」
「その時はその時だ」
それにホストがこんな仕事してるなんて思わないだろ、と嘲笑う。
家出の子などをカモにして援助交際を薦めて慣れてきたら風俗に売る。そんな仕事を裏でしていた。麻由はカモを捕まえてくるキャッチだ。
金にまみれた世界。その中で人を欺いて生きている自分に酔いしれ、快感を覚えていた。
柏木は不適な笑みを浮かべて言う。
「やっぱ世の中、金だよ」