【2】主人公の出逢い
これまで、阿狩杉彦は生きていて幸せを感じることがほとんどなかった。
女の子にモテることもなく、逆に誰かを好きになったこともない。
ひたすら飯食って、学校行って、友達としゃべって、妹とケンカして、飯食って、寝て、という一連の動作を繰り返すだけの毎日を送っていた。
別段つまらなくもなく、特別楽しいこともなく、かといってそれがイヤなわけでもない。そんな生きることに執着心のなかった杉彦は、知らぬ間に死神に目をつけられてしまっていたのだ。
約一年前の何でもないある日、学校帰りに偶然通りかかった道で、得体の知れない生き物と遭遇する。
その生き物は近くにあった銀行の中から壁をぶち抜いて現れたのだ。
それを不覚にも目撃してしまった杉彦は、一瞬何が起こったのかわからず、逃げまどう群衆の中で、体が硬直してしまう。
その生き物は頭が狼の頭部で、上半身が大きく筋骨隆々な人間の体に獣のような荒々しい毛を生やし、下半身はジーンズと靴を履いた人間の肢体というまさに異形な姿をしていた。
それを初めて目撃した杉彦はとてつもない違和感と殺気に支配され、一切動けなくなってしまった。
逃げ惑う街の人々をよそに、異常な外見をした生き物がゆっくりと杉彦に近づいてくる。
脳が必死にSOSを出しているのに、体は言うことを聞いてくれない。次々と消えていく人の気配がどんどん心を空にしていく。
(終わりだ。死ぬんだ)
杉彦は直感でそう思った。
(でもこんなつまらない人生で良かったのか?)
諦めと後悔が激しくぶつかりあい、体の震えが激しくなる。
唾液をだらだら垂らし、唸りながらゆっくりと近づいてきた獣もどきが、大きく手を上げ、杉彦に狙いを定めた。
終幕。
視界が暗くなり、体が倒れそうになった次の瞬間。
爽やかな風が杉彦の前を通り抜けた。
それと共に刀を持った一人の女性が獣もどきに向かって横合いから一閃を放った。
すると獣もどきの両足に一筋の線が入り、表面が切り開かれて血が吹き出た。
痛みを感じたのか、獣もどきが苦悶の咆哮を上げ、仰向けに倒れる。
刀を振った勢いで屈んでいた女性がゆっくりと立ち上がって、杉彦の方に体を向けてきた。
一瞬の神業を見せつけられた杉彦は、目の前に立っている女性をまざまざ見た。
まっすぐ綺麗に整えられた長い髪。
その表面は黄金のように輝く金色をしていた。
切れ長の目に、上質な宝石にも似たエメラルドブルー色の瞳が中に浮かんでいる。
鼻立ちも形と大きさが他の部分と絶妙はバランスを保っている。
口は小さくも力強い真一文字で、赤いルージュを薄く引いた唇が淡く艶めかしい。
武士のような和服が大和撫子を連想させ、その上から勇ましい西洋の鎧に似た胸当てや鉄甲、ひじ当てなどを装着している。
その全体が獣もどきの血で汚れてしまっているが、そこ以外の清潔感は完璧だ。
そして服装の上からでもわかってしまうほど、起伏に富んだ体型。
ウエストの細さが胸とお尻の豊かさを見事にアシストしている。
その上、適度に筋肉のついた腕と、細い手先までが見事なバランスで成り立っている。
足も先までスッとまっすぐ伸びていて美しく長い。
身長一七〇センチの杉彦の頭あたりに胸があるくらいだ。
ものの三秒ほどしか彼女を見ていない杉彦に、ある一つの意志が心から初めて生まれた。
「……好きだ」
思わず口から本音が出た。
杉彦はそれが自分の発した言葉だと最初は理解出来なかった。
今の今までわけもわからず命を奪われそうになっていたのに、こんな気持ちになるのがいけないことのようにさえ思えたのに。
なぜだかこう思わずにはいられなかった。
いや、自分は今心からお願いしているのだ。
目の前に立っている女性が読んで字の如く、「宿った命」にふさわしい女性だと心の底から感じられたのだ。
体が硬直しつつも顔だけを感情のままに頬を赤く染め、ぐにゃぐにゃになっている杉彦に、刀を納めたその女性がふいに声をかけてきた。
「……大丈夫か?」
キイイイイイイイイイイイイインッと頭に大きな衝撃がきた。
声音はかき氷のように硬く冷たいが、その中からシロップのようなとろける甘みが染み出してきて、心が優しく包み込まれていく。
やられた。完全にやられた。
初めて出会っただとかいう常識など関係ない。
今すぐここで彼女と結婚しよう。
そう思い至った杉彦は早速それを彼女に伝えようとした。
「ああああああああああのののののののののえええええええええととととととととととととでででででででですすすすすすすすねねねねねねねねねねボガガガガガガギギギギガガガガゴゴゴゴゴゴゴゴ」
ダメだ。言葉にならない。
杉彦は人の口から出ているとも思えない奇声を発してしまう。
「?」
杉彦の異様さを見て、彼女が眉を細めて思う。
よほど怖い思いをしたのだろうか?
彼女はひとまず杉彦の体調を確認しようとそばに近寄ってきた。
彼女が一ミリ一ミリ近づくごとに杉彦の体温が急速に上昇し始めた。
(イカン!!これはイカン!!!!!)
炎は燃え尽きる手前で一段と激しく燃え上がるのだと、どこかで聞いたことを杉彦はこの時思い出した。
(そうか……俺はここで燃え尽きるのか……)
人生の終焉にしては良い終わり方だと杉彦は思った。
今までろくに心を動かされることもなく生きてきた。
なのに命尽きる直前でこんな素晴らしい体験が出来たことは、間違いなく幸せなことなのだ。
それならば、恥も何もない。
例えここで死ぬことになっても、最期に自分の気持ちを彼女に伝えておくべきではないだろうか?
(……やるしかない……!!)
腹は決まった。
あとは言葉にするだけだ。
「あっ!!!!」
急に杉彦の奇声が大きくなって彼女はビクッとなり、思わず立ち止まってしまった。
ひとまず杉彦としては都合がいい。
これ以上近づかれると、本当に全身が沸騰して干上がってしまうかもしれない。杉彦は乱れる呼吸を整えるために一回大きく深呼吸をした。
(よっよっよしっ、す、少しし落ち着つついたぞぞ)
次にカラッカラになった口の中を元に戻そうと懸命に舌を動かす。
(ふぅ……よし!!)
杉彦はついに「これならいけるぞ」という確信が持てた。
「あっ、あの!!!」
先ほどから奇怪な行動を繰り返す杉彦を不思議そうな目で見る彼女に、今度こそとばかりに一段と大きい奇声を張り上げる杉彦。
ついにキョトンとしてしまった彼女のことなどお構いなしに、杉彦はここで一気にたたみかけようとする。
「ぼぼぼ、ぼぼ、ぼくくくくは、ぁああなあなったったのこっこっことっとがっがっがっが」
(あああと少こっこっしっしっし、だっだっだ!!!!!)
「すすすすすっすすっ」
ぷすっ。
「え」
それは唐突に起こった。
杉彦の首筋に何かが刺さったのだ。
思わず手を首筋に伸ばそうとした時、今の今まで暴れまくっていた心と体が一気に静まり、意識が飛んでしまった。
ゆっくりと後ろに倒れる杉彦。
最期の想いさえ届かず、無念のリタイア。実にあっけない幕切れとなった。
すると杉彦が地面に倒れると同時に、杉彦の後ろに急に新たな女性が現れた。
目に痛いピンク色の長髪でところどころ三つ編みになっている。
上半身が濃い紫色の胸元が大きく開いた忍装束でかなり豊かな胸が強調されており、下半身にはスケバンのようなロングのプリーツスカートに身を包んでいる。更に足には網の荒いこれまた目に痛いピンクのタイツとハイヒールというなんとも異質なお色気丸出しの格好でのご登場だ。
体型も氷群よりふくよかでむちむちしている。その女性は真っ先にキョトンとしていた女性を見定めると全力で抱きついてきた。
「んむうーー氷群ちゃ~ン!大丈夫だったァ!?」
どうやら氷群ちゃんと呼ばれ抱きつかれた女性は、このお色気と認識があるようで、急な抱擁にも冷静な表情のままだった。
「伊賀嵐さん、どうしたのですか?」
「えーどうしたもこうしたもないわよォ~!今変な男が氷群ちゃんを襲おうとしてたじゃな~ィ!」
襲う?氷群は疑問に思う。
彼は被害者だ。ここは誤解を解かねばならない。
「違いますよ。彼は被が」
「ねェー怖かったねェーもう大丈夫だからねェー」
氷群は懸命に杉彦を弁護しようとするが、伊賀嵐は聞く耳を持たない。
ぎゅーっと氷群に抱きつきながら、氷群の頭をぐしゃぐしゃと撫でつけ回している。
すっかりあきれてしまった氷群は、そこで異様な殺気を感じた。
先ほど両足の腱を斬ってもがいていたはずの獣もどきが立ち上がってきたのだ。
しこたま血が吹き荒れたにも関わらず、踏み込む足に力が宿っているし、殺気も増している。
獣もどきはまた荒い息を吐き、唾液を垂らして今度こそとばかりに氷群に向かって巨大な拳を放った。
だが、その拳は氷群を殴りつけることはなかった。
伊賀嵐に抱きつかれながらも、氷群はスッっと軽く右腕を後ろに回し、獣もどきの拳を受け止めた。
そのまま氷群は受け止めた拳を掴み、横合いに放った。獣もどきはいとも簡単に飛ばされ、コンビニの駐車場の壁に激突して、とうとう動かなくなった。
ボロボロに崩れた壁の方を見た伊賀嵐は、
「あらら~ァ氷群ちゃン。ちょっとやりすぎなんじゃないの~ォ?」
とあきれ顔。
「……抱きつかれて身動きが取れなかったものですから」
氷群が反論すると、
「え~ェアタシのせい~ィ~?言い訳なんて氷群ちゃんらしくないぞォー」
という感じで伊賀嵐はあくまで無実を主張する。
「・・・・・・すいません」
これ以上は不毛だと判断した氷群は素直に謝罪した。
「そーそーォ!やっぱりヒムヒムは素直じゃなきゃねェ~♪」
と変なあだ名をつけつつまた頭を撫でつけてくる伊賀嵐。
そこへ後ろから一台の大型トラックが走ってきた。
そのトラックは氷群たちの真後ろで止まると、その助手席から小柄な女の子が一人降りてきた。
青く肩までかかるくらいのセミロングヘアーに赤い鉢巻、幼いが生真面目そうで端麗な顔立ちをしている。服装は上が黄色い柔道着で下がところどころスリットの入ったOLが履くような膝丈までのスカートというこれまたアンバランスな格好をしていた。
「氷群センパイ!!ご無事で……って、なんで伊賀嵐さんもいるんすか!?」
「ナニよ~ォ~アタシの仕事が終わっちゃったから氷群ちゃんを手伝ってあげよーと思って来たげたのォ」
伊賀嵐の反応に女の子は素直な怒りを示し、
「いくら任務が終わっても持ち場を離れないで下さいっす!」
「もォ~飛鳥ちんはいつもオカタイんだからァ~小姑みたいに小言言わないでよォー」
飛鳥と呼ばれた女の子は恥ずかしさと怒りで頬を赤らめ、
「ボクは伊賀嵐さんより年下っす!!」
「わーかってるってーェ」
「それからいつまで氷群センパイに抱きついているんすか!?」
などとすっかり漫才のように二人が言い合っている間に、トラックの荷台から黒子の服を身にまとった性別不明の人間たちが15人ほど現れ、先ほど再起不能となった獣もどきを迅速にトラックへ積み込んだ。
二人のやりとりをあきれ顔で見ていた氷群だが、ふと何かを忘れているのではと疑問が浮かんだ。
その疑問の元を確かめようと目線を伊賀嵐の後ろに向けようとした。
しかしそこに伊賀嵐が顔を突き出してきて、
「んーじゃぁお仕事も無事終わったことだしィ、ヒムヒム帰ろォー」
などと言ってくる。
「あ……はぁ」
なぜか威圧のある表情の伊賀嵐に気圧され、氷群はそれ以上の追求をやめてしまった。
まぁ先ほど伊賀嵐が彼に打ち込んだ針は、象も一発で眠らせられる麻酔針だから大丈夫だろうと適当に理由をつける。
「じゃぁ氷群センパイ!帰って報告書をまとめましょう!」
飛鳥が氷群の手を掴んでひっぱる。
「やぁーア!ヒムヒムはこれからアタシとお茶しに行くのォー」
伊賀嵐もなぜか負けじと氷群の腕を自分の胸に押しつける。
「ダ・メ・っ・す!氷群さんのサポート役であるわたしが許さないっす!」
「んもーォー飛鳥ちんのいけず~ゥ」
「……」
無抵抗の氷群を引っ張り合いながら現場を後にする三人。
そしてすっかり放置プレイされる杉彦。
結局、騒動がひと段落しても通りがかる人々は彼を気味悪がって起こしてくれず、目覚めた時には翌日の早朝になっていた。