【13】主人公の悲劇
時を遡り、再び幾久の時代へ。
想い人である陽黄を一生賭けて守り抜くと誓っていた幾久は、日夜、それこそ死にもの狂いで剣術の修行に明け暮れていた。
罪人や妖を退治するという将軍様からの要請も積極的に請け負い、幾久は十六歳にして将軍様の正式なる側近の座に就くことが出来たのだった。
そして来年には陽黄も将軍様の元へ側室として迎えられることが決まっており、これで未来永劫、陽黄の近くにいられることが約束されたと幾久はいたく喜んだ。
某日、側近就任の儀を無事終えて意気揚々と帰路に着く幾久。
帰ったら陽黄は自分を褒めてくれるだろうか?美味しいご飯を用意して暖かく迎えてくれるだろうか?
などと様々な期待を膨らませていた。
将軍様のお屋敷から武稽古場まではかなり距離があり、早朝に側近就任の儀が執り行われたのだが、武稽古場に戻ったのは夜も更けた時刻になっていた。
それでも自分の帰りを師範代や陽黄、稽古仲間が迎えてくれるだろうと幾久は軽く考えていた。
だがしかし……
×
氷群たちが向かった湾岸地帯は、杉彦の住む街の中で一番東側にある地域だ。
この街は大きな港を擁しており、そこで輸出入される荷物を管理する巨大な倉庫が一面に広がっている。
中には使われなくなった倉庫も存在し、たびたび犯罪の温床になっていたりする。ただ、獣化犯罪に関して言えば、ほとんどが民家や店舗、または女性を狙った犯罪者が獣化するという事件が多く、こうした密売の現場から獣化犯罪者が現れることは今まで例を見なかった。
とはいえ、廃倉庫なら一般人が巻き込まれる恐れがほとんどないと予見できるので、今回が杉彦にとってハードルの低いスタートとなりそうだ。
一足先に現場に到着した氷群。
まずは犯人がどこにいるのか探さなければならない。広大な敷地の中、氷群はかすかな騒音を頼りに、犯人がいるであろう場所に見当をつけて再び走り出す。
少し遅れて杉彦も現場に到着した。杉彦の場合は犯人の居場所の特定より、氷群が向かった方向を定めることで、一気に氷群との間合いを詰めた。
そして二人が犯人の居場所につけたのはほぼ同時となった。
おそるべし杉彦の愛のパワー。
ちょっと前まで四キロをバテバテで走っていたとは思えない。
こうしてなんとか合流に成功した二人。まず氷群は犯人が潜んでいる倉庫に目を向けながら、作戦を杉彦に告げる。
「まずは私が扉を開けて中に入る。君は入り口で待機していてくれ」
おそらく氷群は杉彦の抜刀術を評価して、入り口での待機を命じたのだろう。
氷群自信、杉彦の抜刀術を生で見ていて、その破壊力の高さに一目置いていた。
更に初めは技術の技の字もなかったが、ここまで驚異的なスピードで技術を習得してこれた杉彦を、氷群は単純にすごいと思っているし、尊敬に値するとも思っている。
それに周りが杉彦について良くない噂をしているのを知ってはいたが、彼の純粋な成長を見続けてきた氷群には、彼の表面的な問題点を気にすることは単純に出来なかったのだ。
このような氷群の想いには全く気づかない杉彦は、ガチガチになっていた体を必死になってほぐし、もの凄い勢いで首を上下に振った。毎度毎度、氷群の前では声を出そうとする度に奇声を発してしまうため、なんとかジェスチャーだけで意志を示そうという本人にとっては苦肉の策だった。
それが今は逆に犯人を刺激しない方法となっていて、氷群は若干満足げに、杉彦の返答を見てコクッとうなずく。
そのままゆっくりと扉に近づく氷群。
場に緊張感が走り、杉彦は思わず生唾を飲み込む。
一通り安全を確認した氷群は、勢いよく扉を開いた。
すると、中から酷く鼻につく臭いが溢れ出てきた。かなり鉄臭く、その原因はそこら中に倒れている人間から流れ出している血の臭いだとわかった。
その周りには大量の白い粉がばらまかれており、どうやら倒れている人間たちは麻薬の密売に関わった人間たちで間違いなさそうだった。
そして屍たちの中心に一段と体の大きな人間が、座り込みながら粉をすうすうと吸い込んでいた。そいつの頭は、大きな角が二本生えた牛のような状態になっていた。上半身は今まで現れた獣化犯罪者よりも巨大に隆起しており、まさに闘牛の如く凶暴な姿に変わった犯人だった。
しかし、当の本人は麻薬に夢中なのか、氷群が侵入してきたのにも全く気づいていない。
相当な緊張感をもって挑んだだけに、氷群も杉彦も拍子抜けしてしまった。
(……ま、こういうこともあるんだろうね)
杉彦はすっかり気を抜き、氷群の後に続いて倉庫に入ってきた。
そこで突然、犯人の鼻息が荒くなった。それに杉彦が違和感をおぼえた瞬間、とてつもない勢いで犯人が杉彦の方へ向かって走り出してきたのだ。
×
やっとの思いで武稽古場に戻った幾久。
「幾久、只今戻りました!」
帰宅したことを告げ、皆の待っているであろう茶の間に向かう。しかし、皆が集まっているのならば少し騒がしくてもいいものの、なぜか屋敷内は異様な不気味さ包まれていた。
少々不安を感じる幾久。
それも束の間のことで、茶の間にはちゃんと行灯の明かりが点いていて、幾久は胸をなで下ろす。
物音を立てず、急に入っていけば皆は驚くだろうと、幾久は内心笑いながら勢いよく茶の間の襖を開け放った。
ところが、そこには陽黄しかいなかった。
生き残っていたのは。
×
あまりの勢いに、杉彦は反応出来なかった。
だがこうした場面でも冷静さを失わない氷群が、杉彦の前に素早く出て犯人の突進を刀で押さえ込んだ。急に目の前に現れた氷群の姿を見て、ようやく状況を理解できた杉彦。
だが氷群に対する緊張と、以前初めて獣化犯罪者に殺されそうになった時の記憶が合わさって、体に全く力が入らない。
「逃げろ!!」
氷群が大声で避難するよう促すが、その声も今の杉彦には届いていなかった。
氷群は氷群で、これまで合間見えてきた獣化犯罪者に比べて段違いの力を持った相手に、少し押され気味になっていた。
このままだと力負けしてしまうと感じた氷群は、なんとか相手の力を横合いに受け流した。犯人は勢いのままに斜め後ろの壁を突き抜け、向かいの倉庫の壁に直撃してようやく止まった。
その隙に、氷群は杉彦の肩を掴んで揺さぶった。
「おい!大丈夫か!?」
しかし、杉彦は呆然とした表情のまま反応がない。
そもそも無理のあることだったのだ。
つい最近まで杉彦は単なる一般人だったのだから。
いくら氷群に賭ける情熱が垣根なしにずば抜けていたとしても、たったそれだけで心も体もそう易々と鍛えられるものではなかったのだ。言わば氷群への執着心は単なる麻酔に過ぎなかった。
今、本当の恐怖に直面し、これまでの躍進は単なる幻だったのだと杉彦はここでようやく実感した。
更に言えば、どうしてこんなことになってしまったのだろうとさえ思えてきた。
最初に自分が望んでいた【氷群に告白する】という目標とは、遠くかけ離れた場所に来てしまっている気がした。
やっと彼女に手が届く場所まで来たのに、結局いつものように陰でコソコソやるだけで終わってしまう。
ここまで過ごした怒濤の日々は何だったのか?
もう考えることすら面倒くさい。
怖がることも、愛することも面倒くさい。
全てがどうでもよくなってくる。
完全に暗闇に落ちてしまった杉彦に、ひたすら懸命に話しかける氷群。
だが時間は猶予をくれない。
大したダメージを被っていない犯人が、再び二人に向かって突進してくる。
いったん杉彦の正気を取り戻すことを止め、また相手の力を受け流そうとする氷群。ここですぐ両断してしまうのはそう難くないやり方だが、相手の力の強さを考えると、勢いが殺しきれずに、杉彦に被害が及んでしまうことを氷群は恐れた。
何とか相手を杉彦のいる場所から遠ざけようと力一杯、刀を振るう。
今度は横合いに相手を吹き飛ばすことが出来た。横倒しになり、上半身が重いせいでなかなか起き上がれない犯人。
よし、これで仕留められると、氷群は犯人に向かっていく。
それをただただ見守る杉彦。結局、自分は彼女を見ていることしか出来ないのだと、無力感に身も心も委ねてしまっていた。
だが、次の瞬間。
杉彦に大きな変化が訪れる……
×
「……はぁ?」
幾久は自分でも気づかぬうちに、情けない声を出していた。まだ短い半生だが、こんなにも理不尽過ぎる光景を見たことがなかったからだ。
目の前に広がるのはどろどろとした血の海。
そこに浮かんでいるのは、師範代を始め、一緒に修行をしてきた仲間たちだった。
そして、部屋の一番奥に、髪の毛を掴まれて吊し上げられている陽黄が見える。
これは一体どういうことなのか?
幾久には全く理解し難い光景だった。
しかも、陽黄の髪を掴んでいるのは、妖ではなくただの人間のようだ。ただし、かなり体が大きく、熊や猪の体毛と固く編み込まれた縄で作られた服を身にまとい、片手で巨大な斧を持っている、どうやら流浪の山賊らしかった。
どうやら陽黄の髪を毛を切ろうとしているようだ。
確かに最近、この先の村々で凶悪な山賊が暴れ回っているという噂を聞いてはいたが、まさか自分の武稽古場で、しかも貴重な輝く髪を持つ陽黄が狙われるというところまで考えが至らなかった。
完全に油断していたのだ。
だが今更何を考え出しても遅い。
かろうじて息だけをしているが、完全に意識を失っている陽黄。その陽黄の髪を握り締めている山賊は荒い息を吐いている。
このまま黙っていればどうなるか。
幾久は残酷な予感しかしなかった。
×
素早い動きが封じられた犯人に、氷群はゆっくりと近づく。
また足の腱を斬ってしまえばいい。そう思い、氷群は刀を水平にかまえる。
チェックメイト。
誰もが氷群が勝つ瞬間を目撃できると思える状況。
そこで予測不能の事態が起きる。
遠くで見ていた杉彦には何が起きたか全く理解できなかった。
急にダァァン!!という大きな音がした瞬間、氷群が道に崩れ落ちたのだ。なんと、氷群が刀を振るう直前、暴れていた犯人が急に動きを止め、おもむろにズボンのポケットから拳銃を取り出したのだ。
おそらく、まだ普通の人間だった時から持ち合わせていた拳銃だろう。
しかし、今まで出現してきた獣化犯罪者は、知能すらも獣化していて、そのほとんどが本能のままに暴れることしかできていなかった。
それがまさか、拳銃という文明の利器を使うことがあるとは、氷群もまったく予想していなかった。
軽々と銃を手にした犯人は、ニヤっと笑って、なんのためらいもなく氷群に向けて発砲した。あまりにも予想外な出来事に氷群は全く反応できず、無抵抗のまま凶弾を受けた。
それを見た瞬間、ようやく杉彦は体を動かすことが出来た。
ふらふらと氷群に近寄っておそるおそる様子を窺うと、氷群の胸の真ん中に穴がぽっかりと空いていた。
それを杉彦が見た瞬間、自身のありとあらゆる箇所がドス黒い感情で覆われた。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
×
幾久の登場にも全く動じていない山賊は、独り言でこうつぶやいた。
「ッヒッヒッ。髪さぁ切"っだら、あとでたっぷりかわいがってあげらぁなぁ」
ゾゾクッ!っと。
幾久は自分の中に得体の知れない奇妙な生き物が入り込んできたような錯覚に陥った。そして山賊に向かって、幾久は叫んだ。
「やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
山賊はそんな幾久の存在を無視して斧を大きく振りかぶり、勢いよく陽黄の首に叩きつけた。
鈍く大きな音と共に、陽黄の首から下が、ドン、と床に落ちた。
それをはっきりと見てしまった幾久。
走馬燈の如く、陽黄との思い出がよみがえり、そして心に描いていた希望の未来までもが続けて頭の中を流れ、最後は暗く深い闇に全て落ちていってしまった。
視界が真っ暗になる。
しかし意識は飛ばず、ただひたすらに心が酷く痛い。
受け入れることも、耐えることも出来ない非情なる感情が、幾久の全てをすりつぶした。
「があああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
×
この瞬間。
現在と過去。
杉彦と幾久。
二つの負の感情が時代を越えて重なり相い、そこで全く同じ、一つの生命体が顕現した。
杉彦の視界が開けると、目の前にいたはずの獣化犯罪者が粉微塵になっていた。
そしてその先に佇む一人の人間。
血の如く真っ赤な長髪に、全身に闇にも劣らぬ黒さをまとい、ギラギラメラメラとした紅黒い光を漂わせる刀を持った、長身痩躯の侍。
背には大きくサンスクリット語でこう書かれていた。
『鬼神 羅刹』と。