【1】主人公の日常
午前八時三三分四一秒。彼女が自宅から出てきた。
昨日より二分十五秒ほど遅い。おそらく肌荒れが原因だろう。
昨日よりも化粧のノリが若干悪い。整えるのに時間を要したはずだ。
なんだろう。
悪いものでも食べてしまったのか?寝不足だろうか?
そういえば昨日の戦闘は少し長引いていたし、単純に寝るのが遅かっただけだろう。
それ以外に特に変わった様子はなさそうだ。
相変わらず黄金の如く輝く美しい髪がまぶしすぎる。まばたきを堪えるのもひと苦労だ。目は切れ長で、絶妙な角度でつり上がっており、中には宝石の如く光るエメラルドブルーの瞳が浮かんでいる。鼻は数学者が絶賛しそうなほど見事に整った直角三角形になっていて、口は筆奉行が全身全霊を賭けて書いたような力強くも美を追求した真一文字。そこに薄く赤いルージュが唇を優しくふわりと浮き立たせている。それになんと言っても滑らかで波状のはっきりした柔らかい曲線を描く肢体も、実に芸術美に溢れていて感嘆に値する。今日も世界中の女性が彼女の美しさに嫉妬し、ハンカチを噛みちぎっていることだろう。そいつらに彼女の爪の垢でも煎じて飲ませたくらいだ。いや、飲みたいのはむしろ俺の方だな。
とにかく今日も別段問題なくて何よりだ。
午前八時四八分三九秒、『シルヴァー・ハント』本部ビルに到着。
幸い、今日は男とすれ違わなかった。
実に良き日だ。少しでも男と関わる機会は避けてもらいたい。
彼女の溢れんばかりの魅力の前では、どんな男も衝動を押さえられないはずだからな。
これで職場が電車で通わなければならない場所にあったら最悪すぎる。
満員電車など女性に飢えに飢えまくった男の密集地帯ではないか。戦場よりも危険な場所に彼女を迷い込ませるなど言語道断。
一秒でも考えただけで怖気が走るのでやめておこう。
午前九時二二分一五秒、戦闘訓練開始。
まずは剣戟の演習だろう。
彼女の大きな咆哮と木刀を振るう音が室内から聞こえてくる。
実に素晴らしい響きだ。
彼女の咆哮が俺の鼓膜を突き抜け、脳が全力でワッショイしているのがわかる。
彼女の言葉の一字一句、一閃一斬が心地よく、俺を極上の楽園へと誘ってくれている。
これを極上の幸せと言わずしてなんと言うのか!!
とりあえずこれだけで今夜はゴハン十二杯余裕だな。
午後一二時四分七秒、昼食のため外出。
今日も本部の近所にある日本食屋さんだ。
あそこは外観こそ汚いが、中は小綺麗にしているし、味もいい。
お店をやってるのがおばちゃん一人という点も比較的高評価だな。
しかし例えおばちゃんと言えども彼女の魅力にとりつかれたらが最期……
……まぁこれ以上は言うまい。
午後一二時四二分三〇秒、昼食を終え、お店を出る。
今までに嗅いだことのない匂いが彼女を覆っている。
ご飯と味噌汁と漬け物までわかるが……新メニューだろうか?今度また行ってみることにしよう。
あと彼女の使った食器類だけ洗わせてもらえないか交渉してみるか。
午後一時三分一秒。戦闘訓練再開。
サンドバッグを叩く鈍い音がする。ということは拳技の特訓か。
今日はいつになくキレとテンポに磨きがかかっているようだ。
昨日より体重が〇.五キロ、体脂肪率が一.一%落ちた効果だろうか。
特に腰回りの脂肪が減っていたから体重移動により加速がついたからに違いない。
彼女はなるべく体重も体脂肪も維持できるように努めているが、平均値より若干落とすことでこれだけ効果があるのか。
うん、彼女の力はまだまだ伸びる。
そう確信出来るレベルだ。
世の中は実の幸福だな。彼女のような絶対の存在に守られているのだから。
かくいう俺もその一人だが。
午後六時五八分五二秒、帰宅。
帰りも男とすれ違わなくて何より。
今晩は昨日より寒くなるようだから風邪には十二分に注意して欲しいところだ。
今日のように事件が起こることがないよう祈りたい。
今宵も彼女の美しさに酔いしれて眠ろう。
ここまで一五分もかけずにざっと書き殴った杉彦は、椅子に座ったまま大きく仰け反って背伸びをした。
すると、天井に張ってある『彼女』の大きく引き伸ばして作った写真が目の止まり、杉彦は思わず顔がニヤけてしまう。
阿狩杉彦、一六歳。
ただいま幸せの絶頂中。
なぜならば、杉彦が先ほどさんざん書き連ねた『彼女』の存在によるところが大きい。
以前、杉彦はその『彼女』に命を救われたことがあるのだ。