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二章 不思議の森のメアリー(前編)

 久し振りに、幸せな夢を見た。

 目が覚めてからも、ちょっとの間状況が理解出来ないで、鯖丸は少しうろたえた。

 何で、自分の隣にトリコが居ないのか、思い出すのに二三秒かかった。

 それから、実際一緒に居てくれていたはずの、名前は思い出せないが誰かが、何で居ないのか、状況を把握するのにあと二三秒。

 どうせ現実を思い出すのに、楽しい夢なんか見るもんじゃない。

 シャワールームから水音がしていたので、ほっとした。

 長身で、体格のいい女が、体を拭きながら戻って来た。

 重装服の調整をしていた所に入り込んで、思い切り手形が付く様なびんたをくれたメカニックだ。

「まだ寝てればいいのに。私今日、早番だって言ったでしょう」

 頭の中が英会話に切り替わるのにも、やっぱり二三秒かかった。

「ええと…」

 鯖丸は起き上がった。

「誰だっけ…君」

「すごい事言うわね」

 女は、まだ湿っている髪をまとめて、服を着始めた。

「昨夜あんな事があったのに」

「うん、それは憶えてる」

 昨夜解散してから、廊下を歩いている時に、すれ違ったのだ。

 一人じゃ寂しくて寝れないと言って泣きついて、強引に部屋に連れ込んだ後、色々やって今に至る。記憶は確かだ。

「名前、まだ聞いてなかった」

「ワーニャ・コズレイフ」

 女は名乗った。

「そうなんだ」

 ロシア系には見えないが、あの国も色んな人種が居るからなぁ…と思った。

「俺は…」

「ムトウ君でしょう。知ってるわ、あんた達目立つから」

 ワーニャは、服を着終わって振り向いた。

「じゃあね。昨日はけっこう楽しかったわ」

 出て行こうとするワーニャの腕を掴んで引き止めた。

「待ってよ、一人にしちゃやだ」

 通常シフトの人間が起き始めるまでには、まだ二三時間あった。

 それまで、一人で何もない部屋に居るのは、耐えられない。

「仕事なんだけど…」

 ワーニャは肩をすくめて、今にも泣きそうな顔をしている青年を見た。

「分かったわ、こうしましょう。今から一緒に食事しましょう。

 私はその後仕事に行くから、あなたは食堂で時間つぶしてればいいわ。あそこなら、誰か話し相手も居るだろうし」

 ちょっと、ため息をついた。

「どうせ、寂しくなかったら、誰でもいいんでしょう」

「うん。でもワーニャは綺麗で優しいから、好きだよ」

 臆面もなく言って、ベッドを降りた。

「待ってて、一分で支度するから」

 バスルームに入って、四十秒弱で出て来て、残りの二十秒で服を着た。

 本当に一分で支度が終わってしまった。

 さっきまで泣きそうだったくせに、もうご機嫌な顔をしている青年を、ワーニャは呆れた顔で見た。

「魔法使いって、皆あなたみたいなの?」

「うーん、どうだろう。みんな大なり小なり変だけど、俺はちょっとひどい方かな」

 一応言い訳した。

「いつも、こんなじゃないんだけど…。時々耐えられなくなるんだ」

「四人の中では、一番普通そうに見えるのにね」

 フリッツまで同類扱いだ。本人が聞いたら怒るだろう。

「とりあえず、その個性的な髪型が、寝癖だっていう事はよく分かったわ。五分くらいなら余裕あるから、直して来たら?」

「いつもこんな感じだけど…」

 一応、言われたとおりにバスルームに引き返したが、身だしなみが不器用なのか、大して状況は変わっていなかった。

 ワーニャは諦めて、鯖丸と一緒に部屋を出た。


 トリコが朝起きて食堂に行くと、ジョン太がキッチンスタッフとカウンター越しに言い争っていた。

 めずらしい。

 仕事で暴れている時はともかく、普段は争い事を好まないはずだが。

「だから、コーヒーが甘いんだよ。何度言ったら分かるんだ」

「甘いのが嫌なら、ブラックがあるからそれを飲めと言ってるだろう」

「砂糖とミルクの入ってないコーヒーなんか、飲めるか」

 いくら翻訳機では雑な内容しか伝わらないとは云え、状況はよく分かる。

 こいつ、ファーストフードとかセルフサービスの店で、マニュアルにないワガママ言ってるおっさんだ。

「ああ、フリッツ、いい所に来た」

 お早うと言いながら現れたフリッツに、トリコは声をかけた。

「あのバカ、ぶん殴って止めて来てくれないか」

「いいのか」

 フリッツはたずねた。

「放っておいたら、周りに迷惑だ」

 音もなく忍び寄ったフリッツは、ジョン太の後頭部を軽くはたいてから、目にもとまらぬ早さで関節技を決めた。

 本気で、ジョン太より強い。

 涙目になって「ギブ、ギブ」と言い始めたジョン太を引きずって来たフリッツは、トリコが居るテーブルの横に放り出した。

「何するんだ、いきなり」

 相当痛かったらしい。というか、おっちゃんくらい身体能力の高いハイブリットだと、他人に痛い目に遭わされた経験が、あまりないのだ。

「コーヒーが嫌なら水を飲め、バカ」

 トリコは言った。

「朝は、一杯のコーヒーの後、味噌汁と納豆に焼き魚と野菜のおひたしでごはんというのが、俺のライフスタイルなんだ。ご飯が無理なら、せめてコーヒーくらい好きな様に飲ましてくれよ」

「お前のライフスタイルって、何となく間違ってるぞ」

 私だって、白いご飯が食べたい…と、トリコは思った。

 フリッツが、三人分のコーヒーをもらって来て、混ぜ始めた。

 二杯がブラックで、一杯が普通のコーヒーだったらしく、結果的に三杯分のミルク少なめ微糖のコーヒーが出来上がった。

「最初からこうすれば良かっただろう」

「ええー、私はブラックがいいのに」

 一昨日はくそ甘いのをうまそうに飲んでいたくせに、トリコは文句を言った。

「じゃあ自分で取って来い。これは鯖丸に押しつけるとして…」

 言ってからフリッツは、鯖丸が居ないのに気が付いた。

「寝坊してるのか?」

「あの子なら、早朝シフトの時間に、整備課のコズレイフとメシ食って、一緒に出かけてたよ」

 カウンターの中から、早番で入っていたらしい男が言った。

「何なんだ、この自由人の集まりは…」

 フリッツは頭を抱えた。


 鯖丸は、ドッグの隅でシャトルの外壁が分解されて行くのを、ぼんやりと見ていた。

 大きな機械をばらしたり組み立てたり、そういう作業を見るのは、昔から好きだった。

 低重力エリアなので、力学的には地球でやるより楽だが、宇宙服を着ての作業になるので、けっこう難しいはずだ。

 ドッグや発着場に空気を満たしておくのは、予算の無駄だと考えているのだろう。

 この機体の整備は、ワーニャと、もう一人チーフと呼ばれている男が担当しているらしかった。

「近くで見ていい?」

 宇宙服の通信機能を使って、尋ねた。

「邪魔はしないから」

「いいわよ。危ないから気を付けて」

 重力が低いので、足場までは一気に飛び上がった。

「おお、地球に住んでるとやっぱり筋力があるねぇ」

 チーフが、感心した風に言った。

「明日、君らが乗って行くシャトルだが、チェックに来たのかい」

 本当は、食堂に誰も居なかったから、ワーニャの後にくっついて来たのだが、一応うなずいた。

 それから、シールドの中でうなずいても意味がないと思い出して、はいと答えた。

 忘れている事は、意外と多い。

「古い機体だが、調子はいいよ。中も見る?」

「ええ、後で」

 コクピットより、機体の方が気になるので、覗き込んだ。

「菱田重工のエンジンだ。古い型ですね」

「現行機種より操縦がシビアなんだが、構造が単純だから信頼性が高い」

 外壁が、一回り頑丈な物に交換されている。

 U08が、古い衛星にぶつかった事を思い出した。

「危険な濃度のデブリが残ってるんですか」

 衛星とコロニーがぶつかった時に出た破片が、周囲の空間に漂っているはずだ。

「事故現場としては、マシな方かな。でも、用心に越した事はない」

 そういえば、そもそもの衛星との衝突は、何で避けられなかったんだろうと思った。

 かすめて飛んだだけで、あれだけの被害を出す大きさの浮遊物を、普通見つけられない訳がない。

 何だか少し変だ。

 まぁ、機械や人間のミスも起こりうるだろうけど。

 トリコはともかく、ジョン太がその辺の質問を、知る限りではマクレーにもコーウェンにもしていないのも気になる。

 何か、裏があるかも知れない。

「閉じるから、残りの外壁、取って来てくれるかい」

 チーフに言われて、考え事を中止した。

「分かりました」

 地球でなら、絶対持ち上げられない重さの外壁を片手で掴んで、ハシゴを登った。

 差し出すと、チーフとワーニャが、二人がかりで受け取った。

「地球人って、力があるから便利ねぇ」

「最後の四枚くらいに、わざわざクレーン操作に降りるのも、面倒だもんなぁ」

 すっかり重宝がられて、取り付け作業が終わるまで手伝った鯖丸は、シールドの内側に表示されている時計に、視線を落とした。

「俺、そろそろ戻りますけど」

「ああ、助かったよ。コクピットは見て行かないの?」

 チーフはたずねた。

「たぶん、後で来ます。備品の積み込みもあるし」

 ワーニャの方に軽く手を振って、足場から一気に飛び降りた。

「また、後でね」

「今晩も付き合えって云うつもりかしら」

 ワーニャは、肩をすくめた。


「遅い」

 戻って来た鯖丸を一目見るなり、ジョン太は怒鳴った。

「お前は、ナンパの合間に仕事やってんのか」

「そこまで酷くはないだろ」

 途中まで反論しかけたが、考え直したのか「すいません」と素直に謝った。

「トリコの操縦訓練はフリッツが見てるから、お前、備品をチェックして明日使うシャトルに運んでおけ。場所は…」

「知ってる。さっきまで居たから」

「何やってたの、お前」

 ジョン太は、怪訝な顔をした。

「シャトルの外壁取り付け」

 首をかしげているジョン太に、鯖丸は聞いた。

「分からない事があるんだけど…」

「何だ」

「衝突事故は、どうして避けられなかったのかな」

 ジョン太は、黙り込んだ。

「理由があるんだ」

 たずねると、ジョン太は首を横に振った。

「それが分かればいいんだけどな」

 はっきりとした事は、ジョン太も知らないらしいが、何かあるとは思っている様だ。

「お前それ、フリッツには言うなよ」

 意外な事を言われた。

 いけ好かない男だが、敵には思えない。

「奴がそんなややこしい立場に居るとは思ってないが、マクレーのポジションがイマイチ分からん」

「友達じゃなかったの」

 再会した時の二人の様子からして、心を許せる親友の様に見えた。

 昔の同僚だと言っていたが、もしかしたら木星戦争で生き残った仲間かも知れないと思っていたのだが。

「そうなんだけどなぁ…」

 ジョン太も複雑な表情だ。

「まぁ、何かあっても、お前は事情を知らない方がいい。考えるな」

 鯖丸はうなずいたが、納得していない事は、顔を見れば分かった。


 必要な装備と、備品の積み込みは、一人でやると結構大変だった。

 かさばるサンプル回収用の機材と、救助用のポッドは、ジョン太とフリッツが先に持ち込んでくれたが、細々した備品をチェックするのは、けっこう気を遣う作業だ。

 酸素や食料品、緊急時の生命維持装置等は、ごめん、忘れたでは済まない。

 何度もチェックを繰り返してから、やっと納得した時には、とうに昼食時を過ぎていた。

 誰も呼びに来なかった所を見ると、皆それぞれ忙しかったのだろう。

「今日のデザートはチョコレートムースだったなぁ。残ってるといいけど」

 一人で食堂に行って、遅い昼食を取った。

 食堂にはまだ、昼休みの残りを過ごしている者や、遅いシフトで食事を摂る者が残っていた。

 見ず知らずの他人でも、こうやって周りに人が居れば平気なのに、どうして一人きりになると、ダメなんだろう。

 昔は、そういう時には暁が出て来て、周囲の状況をめちゃくちゃにする代わりに、とりあえずの辛い状態からは逃げられた。

 最近は、魔界に入っても暁の気配を感じない。

 ずっと治療していた解離性同一性障害が、本当に治ったのかも知れなかった。  

 それはそれで嬉しいけど、自分一人で全部抱えるのも、けっこうきついなと思う。

 トリコと別れた事も、まだ全然克服出来ていない。

 とりあえず、チョコレートムースが残っていて、美味しかったので、少し立ち直った。

 傍目から見ると、食後に甘い物を食ってにやけている、頭悪そうな青年だ。

 そう言う訳で、鯖丸に注意を払っている者は居なかった。

 鯖丸の方では、周囲に注意を払っていた。

 ハンマーヘッドに来て以来、見た事がない者が居たからだ。

 ここも広いから、特別な事ではない。

 ただ、何かが引っかかった。

 何となく、こっちを見張られている様な気がする。

 食事が終わってから、もう一度シャトルに引き返した。

 再度備品のチェックをして、船内から出た。

 違和感があった。

 何がどうという訳ではない。

 目を細めて、シャトル全体を漠然と見た。

 変な事があったら、そうしろと言われていたからだ。

 ああ、これ言ってたのお母さんだ。

 ずっと忘れていたのは、地球では漠然と見るには情報量が多過ぎるからだ。

 先刻、ワーニャとチーフと一緒に閉じた外壁が、何かおかしかった。

 軽装宇宙服の酸素残量を確認してから、ドッグの隅にある工具を取り出した。

 足場を押して移動させ、最後に閉じた外壁を外しにかかった。

 ここの取り付けは、最後なので三人でやった。

 仕上げが記憶とは違う気がした。

 外壁を一枚外して、覗き込んだ。

 見た記憶のない、養生テープの様な物が、隅の方に貼り付けられていた。

 これでも宇宙工学科の学生だ。

 こんな場所にテープを貼るのが、通常でないのは分かる。

 外すと、センサーの開口部が目に入った。

 機種によって場所は違うが、ここを塞いだら、外部の浮遊物が感知出来なくなる。デブリとか。

 ワーニャ達と作業した時、ここにテープがあったか、全力で思い出そうとしたが、出来なかった。

「何だよ、これ」

 まずい事態になっているのだけは、分かった。

 ただ、どうしていいか分からない。

 とにかく、誰かに相談しないと…。

 誰かじゃない。こんな事、ジョン太以外には言えない。

 大急ぎでドッグを出て、ジョン太を捜した。

 ケータイがあったら、こんな時にはすぐに連絡が付くのに。

 地球のケータイは、宇宙では使えないし、コロニー内で使えるケータイは、一時滞在の部外者には支給されない。

 幸い、ジョン太の容姿はコロニー内でも目立つので、尋ねて回ると行き先はすぐに分かった。

 外部から来た者にも解放されているオフィスで、外装プラグで接続してモニターを睨んでいるジョン太を見つけた。

 周囲には、企業系コロニーなので、仕事で来ている外部の人間が、同じ様にオフィスを使っている。

「ちょっといい?」

 声をかけると、たいがい付き合いは長いので、表情で何かまずい事があったのは分かったらしい。

 黙ってモニターを消し、立ち上がった。


 二人は、低重力エリアの体育館で、隅の方の椅子に座って話し込んでいた。

 丁度中央のバスケットコートで試合が行われていて、話し声をかき消してくれる。

「どうしよう」

 鯖丸は聞いた。

「どうもするな」

 ジョン太は言った。

「気が付かなかった振りをしろ。予定通り明日U08に出発する」

「トリコには言わなくていいの? フリッツは?」

「二人には言うな」

 ジョン太は止めた。

 体育館は、かなりの広さだったが、賑わっていた。

 丁度、午後からの仕事も一段落して、早い者はもうオフになっている。

 試合に加わっている者の中には、学生らしい姿も何人か混じっていた。

 たぶん、十代半ばから後半くらいの少年で、動きの良さから見て、コロニー出身だろう。

 中央から離れた場所に、フリッツが居た。

 一人でテニスの壁打ちをやっている。

 少し離れた場所で、トリコがつまらなさそうに座っているのが見えた。

「何で二人が?」

「ああ、俺が連れ出せって言った」

 ジョン太は答えた。

「ちょっと運動させないとダメだと思ったんだが、あいつ本気で体動かすの嫌いな」

「うん、スポーツ全般苦手だって言ってた」

 鯖丸は、椅子を立った。

「どうするんだ」

 ジョン太は聞いた。

「フリッツなら、俺らがここに居るの気が付いてるだろ」

「会話は聞き取れてねぇよ。俺が向こうの声聞こえないんだから」

「向こうは原型のハイブリットなのに?」

 鯖丸は、意外な顔をした。

 身体能力も、全般的にフリッツの方が優れていると思っていたからだ。

「犬の方が猫より耳いいだろ」

 その辺は自信があるらしい。

「でも、気が付いてるのに知らない振りするのも不自然だし…」

 体を捻って飛び上がった。

「ちょっと話したい事もあるから」

「おま…勝手にそんな」

 こいつ絶対、フリッツに黙ってるつもり無いなと気が付いたジョン太は、止めにかかった。

 後を追って捕まえようとしたが、いくら身体能力では圧倒的に優れていても、低重力空間で鯖丸の動きにはついて行けない。

 こんな環境で育っている上に、魔界でいつも飛び回っているのだ。

 もうちょっと低重力に慣れていた昔なら、追いつけただろうが…。

「くそっ、あいつまた勝手な事しやがって」

 一応愚痴ったが、そもそもシャトルの小細工と、不審者に気が付いたのも鯖丸だ。

 いつまでも、素人のガキ扱いする事もないだろう。

 任せてみる事にした。


 鯖丸が近づくと、フリッツは壁打ちをやめてこちらを見た。

 重力が低いので、空中で球を打ち返す様な事も、平気で出来る。

 見ている分にはけっこう楽しいのだが、トリコは本気でつまらない顔をして、ぼんやりと座っていた。

 一瞬、いい気味だと思ったが、フリッツも、テニスの国のプリンス的な技を見せびらかす為に、トリコを連れて来ている訳ではあるまい。

「何だ、やめるの」

 鯖丸は聞いた。

「テニスがいいって言ったの、こいつだぞ。俺はもういい」

 トリコの足下にも、ラケットが置いてあった。

 自分で言い出したくせに、一瞬で飽きたらしい。

「私は、部屋で映画でも見てる方がいいって言ったのに」

 トリコは、文句を言った。

「地球に帰ってから、どうなっても知らないよ」

 鯖丸は、着替え用に支給されていたつなぎを脱いだ。

 下に、いつものTシャツと、一昨日からジムで借りっぱなしにしているジャージの半ズボンを履いている。

 相変わらず着替えには無頓着なのだ。

「俺が相手になろうか」

 トリコの足下にあるラケットを拾い上げた。

「お前とテニスなんかやっても、すぐ勝負が付いてつまらんだろう」

 フリッツは言った。

 トリコ相手には、ちゃらちゃら手加減して球打ちするつもりだったくせに。

「まぁ、やった事ないからルールも知らないけど」

 フリッツは、肩をすくめた。

「何か、お前の得意なやつでいいぞ。ハンデつけてやるから」

「じゃあ、ちょっと待ってて」

 用具は、上の階で貸し出しているらしかった。

 体育館自体は、三階分吹き抜けになっているので、下からも入り口が見える。

 ラケットを返却して、貸し出し用具一覧を物色した。


 ジョン太が、軽くストレッチを終えて、のんびり後から現れた時には、周囲に人集りが出来ていた。

 ああ、鯖丸の奴、また何かバカな事をしでかしてるな…と思いながら人垣の間から覗き込んだ。

 六メートル四方程度の狭いコートは、体操や格闘技で、低重力を活かした三次元の動きを入れる為に、幅二メートル程度の壁が、四方に立てられていた。

 その中を、二つの人影が凄いスピードで飛び回っていた。

 片方が着地して上を見上げ、もう一方は、五メートル程ある壁のてっぺんに取り付いて、下を見た。

 フリッツと鯖丸だ。

 二人とも、スポーツチャンバラに使うエアーソフト剣を持っている。

「何やってんの、あいつら」

 ジョン太は、トリコに聞いた。

「さぁ」

 トリコは、気のない返事をした。

「鯖丸の奴、最初はテニスの打ち合いでもするつもりだったみたいだけど、自分の得意分野に持ち込んで、ボコることにしたんだろ。大人げない奴だ」

「いや、大人げないのフリッツ」

 ジョン太はぼやいた。

「ていうか、大人と子供どころの実力差じゃないだろ」

「でも、一本目は鯖丸が取ってるぞ」

 トリコは、付け加えた。

「不意打ちで」

「あいつ、どんな手を使っても勝ちに行くタイプだからなぁ」

 よく、あんなダークな芸風の奴が、昇段試験通ったな…と時々思う。

 剣道は、強ければ昇段出来る訳ではないのだ。

「それで、フリッツがキレて、二本先取した方が勝ちになった訳」

 とにかく剣で相手に触ったら一本らしい。剣道より、スポーツチャンバラに近いルールだ。

 その後、有無を言わせず凄いスピードでフリッツが鯖丸の後頭部を剣でぶん殴り、今に至る。

「これだけギャラリーが居るって言う事は、そこそこいい勝負してるのか」

 相手は、普通の人間やハイブリットとは、全く反射速度の違う、まぁ悪く言えば化け物だ。

 自分もそうだが、何の訓練をしなくても、普通の人間に負ける事は、先ず無い。

 ただ、こつこつ積み上げた技術というのがバカに出来ないのも、分かっていた。

 銃弾を的に当てる為に訓練が必要なのは、普通の人間と同じだからだ。

 しかし、格闘になったら、勝ち目はない様な気もするが…。

「おおぃフリッツ、怪我はさせるなよ」

 いざとなったら止めに入ろうと思って、ジョン太は人集りの前へ出た。

 壁の上から、鯖丸が飛び降りた。

 思い切り壁を蹴って、一直線に床へ突っ込んで来る。

 まさか、外界でこんな事やるとは思わなかったが、重力も低いし、こいつなら怪我しないで着地するだろうと、ジョン太には分かった。

 フリッツは分からなかったらしい。

 ちょっとうろたえた顔をしたが、そもそも直線で飛び降りて来る奴程、当てやすい的はない。

 空気でふくらませた軽い剣を後ろに引いて、身構えた。

 鯖丸が、空中で体を捻った。

 床運動の選手がやる様な、見事な二回転半で、軌道を変え、体を広げて空気抵抗でスピードを落とした。

 フリッツの剣が、すれすれで空振りした。

 鯖丸は、空中で悪そうな顔をしてにやーと笑った。

 そのまま、低い姿勢でふわりと着地し、目の前にあるフリッツの足を剣で払った。

 フリッツが、空中に飛んで逃れ、壁を蹴って突きを入れた。

 鯖丸の体は反対側の壁に吹っ飛ばされて止まった。

「てめぇ、何しやがる。俺のが先に当たってただろうが」

 起き上がった鯖丸が、フリッツに殴りかかった。

「かすっただけだ。あんなの当たった内に入るか」

 フリッツも、剣を投げ捨てて、飛びかかって来た鯖丸を組み敷いた。

 そんな気はしていたが、ケンカになってしまった。

「はいはい、ちょっと避けて」

 ジョン太は、コートの中に入って、取っ組み合って居る二人の首根っこを掴んで引き離した。

「ジョン太、俺が勝ってたよね」

「邪魔するな。こいついっぺん泣かす」

「いい加減にしろ、お前ら」

 ジョン太は、ぶら下げた二人のおでこを、がつんとぶつけて黙らせた。

「ケンカなら余所でやれ。試合ならちゃんとルール守れ」

 さすが、伊達におっちゃんな訳ではない。

 フリッツの方が強いはずだが、怒られると逆らえないらしい。

「そもそも、そのルールをちゃんと決めないで始めちゃったんだけど…」

 トリコが、基本的に間違っている事をさらりと言った。

「そこは決めとけよ」

 ジョン太は、二人を床に放り出して、ため息をついた。


 鯖丸とフリッツが、お互いぶりぶり文句を言いながら出て行った後、トリコを見張って無理矢理運動させる事にしたジョン太は、高重力エリアのジムに彼女を連行した。

「何で、地球より重力低いのに、一回も腹筋が出来ないんだ」

 ジョン太は、絶望的な気持ちになって言った。

「お前、そうとう筋力弱ってるぞ。地球に戻ったら、へろへろになって立てないかも」

「うるさい。元々出来ないんだよ」

 トリコは、信じられない事を言った。

「うわ、お前さてはエロい事する以外に、筋肉使ってないな」

「人聞きの悪い事を言うな」

 周りが誰も日本語分からないから、いいけど。

 仕方がないので、ランニングマシンに乗せられたトリコは、よろよろ走り出した。

 トリコを走らせておいて、その間に自分も筋トレする事にしたらしいジョン太は、隣のベンチブレス台に、その辺にありったけの重りを運んで来た。

「あの二人さ…」

 ジョン太は一応、聞いてみた。

「お前の事でケンカしてたんじゃねぇの」

「そういう、ヒロイン的なポジションは、もう卒業したの」

 トリコは、投げやりに言った。

「どうせ、汚れオーラしか出てないおばはんですから、自分」

 最初から、ヒロイン的なポジションじゃなかった気もするが。

「いや、見た目だけは可愛いよ。とりあえず」

 ジョン太は、どうでもいい中途半端なフォローを入れた。

「話は変わるんだけどねぇ」

 ベンチプレス台に乗って、物足りない顔でウェイトを持ち上げてみたジョン太は、周囲に誰も居ないのを確認してから言った。

「何だ」

「明日使うシャトルのセンサーに、細工がしてあったそうだ」

 どうせ、鯖丸がフリッツに話してしまうだろうから、トリコにも言っておく事にした。

「どういう類の?」

 しゃべりながら走り続けるのは厳しいらしく、トリコはスピードを落としてランニングマシンから降りてしまった。

「周囲の障害物が感知出来なくなる。デブリの濃度が濃い場所に、あんな状態で突っ込んだら、事故の確率はかなり上がるな」

「デブリって何」

 その辺から説明しないといけないらしい。

「人工物の破片だ。直径一センチ以下の物でも、当たればかなりのダメージがあるからな。一応、シャトルの外壁は交換してもらっているが」

「ふうん」

 トリコは、考え込んだ。

「鯖丸が、センサーの細工を確認する前に、不審者を見たと言ってる。気のせいかも知れんが」

「それは、気のせいじゃないだろう」

 トリコは、意外な事を言った。

「何で分かる」

 企業コロニーでは、部外者が出入りするのは、珍しい事ではない。

 実際、ここへ来て以来、何人もの人間が行き来するのを見ている。

「だって、普通の事故なら、わざわざ地球から私らを呼ばないだろう」

「そうかな。プラントが手に負えないから、魔法の専門家を呼んだんだと思ったが」

「その程度なら、魔法使えなかった頃のお前でも対処出来ただろう。フリッツ一人で充分だ」

「魔法使えなくても、一応魔界には詳しいからやれてたんだけどなぁ。あいつはほぼ素人だぞ」

 魔界に詳しい誰かがフォローしないと、能力が高いだけじゃ無理だ。

 トリコは、そんなもんかな…と、考え込んだ。

 それから、ふと顔を上げて、ジョン太に言った。

「お前は友達だから、そう思いたくはないだろうが、あのマクレーって奴、ちょっと怪しいぞ。敵かどうかは分からんが」

 1Gじゃなくても、普通の人間だったらごめん被る様なベンチプレスをがちゃがちゃやっていたジョン太は、止まった

「何でそう思う?」

 一応聞いてみた。

「うーん、なんて言うか、女のカン」

 トリコは、あやふやな事を言った。


 体育館に隣接しているシャワールームに入ると、鯖丸が居たので、フリッツはげっ…という顔で立ち止まった。

 それ程清潔感を大切にするタイプには思えなかったので、そのまま帰ってしまうだろうと踏んでいたのだ。

「何で居るんだ、お前」

 隣のシャワーとは、低い壁で仕切ってあるだけで、ドアもない。お互い丸見えだ。

「ええと、体育館のシャワー、使ってみたかったから」

 鯖丸は、謎の発言をした。言い訳にしか聞こえない。

 こいつ、俺になんか話があるから、絡んで来たんじゃないのか…?

「昔は、コロニーでこんなに水使えなかったよね。環境、良くなったなぁ」

 頭からぬるま湯を浴びて、がしがし髪の毛をかき回している。

 水が飛んで来るから、やめて欲しい。

「水の循環システムが効率良くなったからな。シャワーヘッドも、特殊なやつだし」

 勢いよく水は出ているのだが、足下に流れ落ちる水量は少ない。

 石鹸を使って体を洗っても、洗面器一杯水があれば済んでしまう、画期的なシャワーヘッドだ。

「地球でも、ホームセンターで売ってる。エコグッズとか云って」

 エコロジーについて話し合いたい様には、全然見えない。

「何か用か?」

 フリッツは聞いた。

 鯖丸は、周囲を見回した。

 中央コートでやっていたバスケットの試合が終わって、シャワールームは混んでいたが、ざわざわした話し声と水音で、周囲に会話は聞こえない。

「単刀直入に聞くけど、フリッツってどっち側の人間?」

 思ってもいなかった事を聞かれた。

 もうちょっと、個人的な話だと考えていたのだ。トリコの事とか。

「それは、何に対してのどっち側だ」

 体に毛が少ないからなのか、性格が雑なのか、鯖丸はあっという間にシャワーを止めた。

「プラントを回収したい人と、無かった事にしたい人」

 フリッツは、少し考えてから言った。

「特に思い入れはないが、回収はしたい。仕事だし、人命もかかっているかも知れないからな」

「意外と普通の事言うんだね」

 普通じゃ悪いのか。

「フリッツは、マクレー少佐の部下?」

 また、予想外の質問が来た。

「いや…少佐 とはステーションで初めて会った」

「へぇ…」

 疑わしそうな言い方だ。

「調べれば分かる事だ」

「後でそうする」

 鯖丸は、シャワーを離れて、ブロワーの方へ行ってしまった。

 体に残った水滴を吹き飛ばして、雑に乾かしただけで、もう服を着始めている。

 拭けよ、タオルとかで。

「もし、俺が敵側だったら、どうするつもりだ」

 フリッツは尋ねた。

「それは…気の毒にとしか言えないね」

 鯖丸は、悪そうな顔で笑った。

「魔界で俺に勝てるなんて、思うなよ」

 本気で自信たっぷりだ。そこまで魔力高いのか、このくそガキ。

「勝負する必要なんかない。お前とは敵でも何でもないし」

 別に、味方でもないけどな…と、内心思った。

「うん、俺もその方がいいな。戦闘用ハイブリットとガチでやるのは、めんどくさいから」

 鯖丸は、シャワールームを出て行きかけてから、立ち止まって言った。

「明日、予定より少し早めに集合してくれる? もう一度シャトルの点検をしたいんだ」

「何かあったのか」

 変に絡んで来るのは、それなりに理由があるらしい。

「シャトルが細工されてた。ドッグには誰でも入れるみたいだし、また何かあるかも知れないからね」

 言ってから、鯖丸は出て行った。

 フリッツは、しばらく考え込んだ。


 鯖丸は、オフィスのパソコンで調べ物をして、夕食を済ませてから、部屋に戻った。

 結局皆、別行動になってしまったが、ジョン太とトリコは、いつも組んでいるので、これ以上の打ち合わせは必要ない。

 フリッツが、ちょっと不安だ。

 廊下の向こうで、トリコの部屋からフリッツが出て来るのが見えた。

 必要もないのに、隠れてしまった。

 別に、何事かあった様な感じでもなく、二人は普通に手を振って別れている。

 言葉が通じないのは二人だけなので、何かの打ち合わせをしていたのかも知れなかった。

 魔界で翻訳機が作動する保証はないからだ。

 どうという事もないはずなのに、ちょっとイライラした。


 部屋の前では、ワーニャが待っていた。

「ええと、明日は早いからすぐ寝るけど、寄ってく?」

 一応聞くと、腕を掴まれた。

「人には早朝から時間外労働させといて、いい気なもんね」

 ずるずる廊下を引きずられて、ワーニャの部屋に連行された。

 ああそうか、早朝シフトで整備してたのは、他の仕事が一杯だったからなのか…と気が付いた。

 俺のせいじゃないと思うけど。

 じゃあ、ちょっとだけ付き合おうかなぁ…と、部屋に入った。

 一時滞在で居る者の部屋と違って、それなりに様々な物がある。

 部屋の中は、微妙に間違ったアジアンテイストな飾り付けがされていた。

 招き猫と仏像が一緒に飾ってあるのは、どうかと思う。

 個性的なインテリアは無視して、ベッドの端に座った。

 ワーニャがつなぎを脱ぎ始めたので、自分も服を脱ごうとしたが、彼女はTシャツと半ズボン姿になって、変な柄のマットを敷いた床に座り込んだ。

「昨日はあんたに付き合ったんだから、今日はこっちに合わせてもらうわよ」

 いつの間にか、酒瓶とコップを握っている。

 付き合えって、酒かよ。

「何かあったの?」

 一応聞いてみた。

「うるさい、飲め」

 ご機嫌がよろしくない。

 とりあえず、注がれた酒を少し飲んだ。ワーニャは手酌でがんがん行っている。

「こんな高そうな酒、空けちゃっていいのかよ」

 地球なら定価で買えるが、こんな場所で瓶に入った酒なんて、相当高いはずだ。

「いいのよ。土産でもらったやつだし、飲まなきゃ何の値打ちもないわ」

 ラベルに牛の絵が入った、アルコール度数の高い酒を、空になったグラスにどぼどぼ注いで来た。

「そんな顔してるけど、未成年じゃないんでしょう。ほら、ぐいぐい行って」

 ダメだこりゃ…と、鯖丸は思った。

 何があったのか知らないが、すぐに解放してもらえる様子はない。

 もしも明日寝過ごしたりしたら、マジでジョン太に怒られる。

 普段は温厚だが、怒るとけっこう怖いのだ。というか、最近素行が悪かったので、これ以上怒らせたくない。

 エロい事考えてる場合じゃない。

 ワーニャには悪いが、早寝する為には全力で潰そう。

「よーし、飲むぞー」

 いくら飲んでも酔わない、特異体質の鯖丸は、本気を出した。

 こんな奴に飲ませても、酒をどぶに捨てる様な物だ。

 その後、小一時間、上司への愚痴と、どうやら不倫相手らしい誰かへの文句を、延々と語ってから、ワーニャは倒れて寝た。

 彼女をベッドに寝かせてから、鯖丸は隣に潜り込んで朝まで熟睡した。


「お前、酒臭い」

 朝イチでジョン太に文句を言われた。

「ええっ、そうなの」

 自分的には、全然酔った記憶もないのだが、嗅覚が犬並みだと分かってしまうらしい。

「何やってたんだ、お前」

「人生に疲れたメカニックと、酒盛りを…」

 一応、用意しておいた言い訳を使った。

「シャトルの整備した人だから、何か聞き出せるかもと思って」

 聞き出せたのは、ドッグには誰でも出入り出来るが、不審者を見たという話は聞かなかったというくらいだ。

 ドッグの入り口には、フリッツが先に来ていた。

 予定では、発着場に引き出されてからシャトルに乗る予定だったので、不振な顔をしたチーフと、もう一人のメカニックが一緒に待っていた。

 ワーニャがあんなに飲んでいたのは、今日が休みだったかららしい。

 程なく、トリコもやって来て合流した。

 出発前の点検には、皆が立ち会った。

 特に不振な点はないし、昨日整備を終えて以来、何も変わった事はないとチーフは言った。

 シャトルは発着場に移された。

「違うシャトルなんだな」

 フリッツは、意外そうに言った。

 U08へ調査に行った時とは、違うシャトルらしい。

「一回り大きい機体に変えてもらったんだ。生存者がメアリー一人とは限らないからな」

 ジョン太言った。

 生死が確認されていない者は、メアリー以外にも八人居る。

 全員無事だとは思えないが、もしかしたら魔界で生き残っているかも知れない。

 重装宇宙服は、装備した状態でコクピットに座れないので、ひとまず軽装服を装備して、四人で船内に入った。

 操縦はフリッツに任せて、皆は後ろの座席に着いた。

 出発だ。


 U08には、二時間弱で着いた。

 目視でも、小規模コロニーが、境界にめり込んでいるのが分かる。

 周囲の状況は宇宙空間だが、その先は見慣れた境界だった。

 目星を付けておいた場所に、シャトルを乗り入れて止まった。

 破損したコロニーの外壁を抜けると、内部に明かりが灯っていた。

 こんな状態になっても、まだ、機能が生きているのだ。

 船内で重装服を装備して、シャトルを出た。

 持ち込んだ備品を運び出し、最終チェックを終えた。

 トリコは、作業的な仕事は皆に任せて、シャトルの側で待っていた。

 重装服の操作が不自由だからだ。

 技術的な問題もあるが、そもそもサイズの合っていない重装宇宙服を操作するのは、初心者には難しい。

 それでも、今まで練習を積み重ねていたおかげで、基本動作くらいはどうにか様になっている。

 重装服には子供サイズが無いので、操作が結構面倒だし、下手な動きをすると怪我をしかねないのは分かっていた。

 まぁ、鯖丸の場合はやんちゃな子供だったので、無理矢理どうにか動けるのは知っていた。

 地球に居たら、小学校低学年で免許もない車を運転して、隣の県まで行ってしまうタイプだ。

 いざとなったら、自分が二体操縦するつもりで、胸の所に付いたパネルに、予備の接続コードを仕込んでいた。

 トリコは、普通に皆に付いて来た。

 お世辞にも上手いとは言えないが、サイズの合っていない重装服を初めて使うにしては、充分合格点だ。

 一昨日自分が教えていた時は、もっと操縦が下手だった。

 フリッツは、他人に教えるのは得意らしい。ツンデレのくせに。

 境界は、地球にあるのと同じだった。

 周囲の状況は全く違うし、周りには呼吸出来る大気さえない宇宙空間なのに、何だか地球と同じくらい、懐かしい気がする。

 いや待て…懐かしいって、俺、地球人なのかよ。

 今でもまだ、地球に住んでいた年月より、コロニーに居た時間の方が長い。

 地球には、帰ったのではなく行ったと思っているし、日本の企業コロニー出身だから、国籍は日本人だが、自分が地球人だと思った事はない。

 それでも、仕事が終わったら早く帰りたいと思っているのは確かだった。

 考え事をしていたら、ジョン太にスーツの背中を軽く押された。

 何でもないという合図に手を振って、境界に近づいた。


 境界の外側には、先にジョン太とフリッツが持ち込んだ備品が設置されていた。

 一纏めに物を詰め込んだ小型ポッドを、周囲の壁にハーネスで固定してある。

 開封して、今日持ち込んだ備品と共に、一つにまとめた。

 1Gなら、絶対運搬に苦労する備品を牽引して、境界を抜けた。

 以前、魔法が使えなかった頃のジョン太なら、境界の場所も確認出来なかっただろうが、今は、魔法ランクは、魔力が変動するので不明とは云え、けっこう高レベルの魔法使いだ。

 割合そつなく、準備は終わっていた。

 境界を抜けてもまだ、呼吸可能な大気も無い、破損したコロニーの内部だったが、トリコは確実に変化したらしい。

 動作が格段に良くなった。

 目の前に、信じられない光景があった。

 何で出来ているのか全く分からない壁が、コロニーの内部を覆っていた。

 行く手を塞ぐ様に、破損したコロニーの中に、壁を張り巡らしている。

「酷くなってるな」

 ジョン太が言った。

 無線通信での音声が、荒れ始めている。声にざらざらしたノイズが混じって、聞き取りにくい。

「入り口を開けるが、いいか」

 フリッツが尋ねた。

 両手のマニピュレーターに、軍用のサバイバルナイフを持っている。

「いいぞ。最小限でな」

 ナイフは、さくりと壁に刺さった。

 えぐられた穴から、空気が吹き出した。

 壁はかなりの厚さで、内部に行く程、脆くて密度の低い構造になっている。

 あっという間に、周囲から伸びた構造物が、穴を塞ぎにかかった。

 皆が壁をくぐり抜けた時には、入って来た穴は、何事もなかったかの様に、塞がっていた。


 内部は、外側とは全く違っていた。

 上下左右のない、無秩序なジャングルが、目の前に広がっていた。

 光は、一定方向から来ていたが、争って光を求め生い茂る植物がそれを遮っていた。

 周囲は薄暗い。

 根は、自分を支える必要の無くなった無重力空間で、水と養分だけを求めて、勝手な方向に伸び広がっていた。

 細かなもやの様に見える物は虫だ。

 一塊の雲の様になって、重力のない空間を移動している。

 もっと巨大な飛行物も、遠くに見えた。

 あまり、近付きたい感じではないが。

「発電が生きてるんだ…」

 魔界に突っ込んでいるとはいえ、地球の周回軌道上に居るU08は、発電に充分な太陽光は当たっているはずだった。

 魔界では、魔法の方が手っ取り早いし、安価なので、電気はあまり利用されないが、発電が出来ない訳ではない。

 独り言に対して、周囲から何のリアクションもないので、鯖丸は改めて周りを見た。

 トリコは、早速壁を構成していた構造物をサンプル採取して、腰の所に付いたポケットから出したメモ帳に、何か書き込んでいる。

 ジョン太は、ポッドから当面必要と思われる物を取り出していて、フリッツは周囲の様子を伺っていた。

「聞こえてる?」

 通信の指向性は、シャトルを降りる前に、全員に通じる様に調整されているか、確認していた。

 ちょっとしたミスが命取りになるので、宇宙ではとにかく、何事も細かく確認するのが常だ。

 それでも、もう一度胸のパネルを開けて、指向性を確認した。

 フリッツが、こちらに近付いて、軽く触って合図を寄越した。

 ざりざりしたノイズが、頭の中に聞こえた。

 自分の首の後ろ…プラグを装着している場所を、マニピュレーターで指差した。

 丁度、パネルを開いていたので、外部接続コードを伸ばして、フリッツと接続した。

「無線通信は機能しない。面倒だが」

「ああ、そうだった」

 無線通信が出来るくらいなら、魔界でもケータイが使えるから、もっと便利に仕事が出来ていたはずだ。

「でも、ここに居る間、ずっと有線接続って云うのも、不便だね」

「その方がマシだ。いずれ…」

 先日一緒に魔界に入っているはずだが、魔界名で呼ぶのは初めてらしく、一瞬躊躇した。

「ジョン太が宇宙服脱ぐって言い出す」

「ああ、ジョン太、意外と気が短いって云うか、大人げないもんな」

 開いたパネルのデジタル表示を切り替えたが、酸素濃度も、外気温も、エラーの横棒が点滅していた。

 パネルの開閉をする為に上げた腕の表面が、びっしりと結露していた。

 少なくとも、壁を抜ける前よりは、格段に温度が高いし、湿度もかなり高い。

 シールドが結露しないのは、重装服の機能がきちんと働いている証拠だ。

 魔界で、有線接続すれば動く機械は多いが、センサー系は働かないらしい。

 トリコが、壁のサンプル採取を終えて、床を蹴ってこちらへ飛んで来た。

 受け止めてもらう事を前提にしていたらしく、けっこう勢いが付いている。

 フリッツと鯖丸は、その辺にあった植物の幹を掴んで、トリコを受け止めた。

 トリコは、宇宙空間では絶対破損してしまう、家庭用の時計に似た温湿度計を取り出した。

 ポッドに入れて来たのか、ポケットに封入していたのか知らないが、温度と湿度が測れる、アナログの温湿度計だ。

 気温、26度、湿度、72パーセント。

 生物にとって、割合快適な環境だ。

 有線接続すると、聞き慣れた感じの声が、頭の中に直接聞こえた。

「これ、もう脱いでいいか? めんどくさい」

「あんなに訓練したんだから、もうちょっと着てなよ」

 一応言ったが、ジョン太が既に重装服を脱ぎ始めている。

 帰りには必要なので、ハーネスで壁に固定して、脱皮する様にするりと抜け出した。

 呆れた事に、普通こういう宇宙服を装着する時には絶対着用しているアンダーウェアを着ていない。

 いくら、犬系のハイブリットは低温環境に強い代わりに、普通の人間より暑さに弱いとは言え、生存に支障を来す程ではない。

 ちょっと暑いくらい、我慢出来ないのか、このおっちゃんは。

 さすがに、全裸ではまずいと思ったのか、持って来た半ズボンを履いた。

 それから、見慣れたガンベルトを身につけ、必要な物を入れたバックパックを背負った。

「本当に脱ぐんだ…」

 宇宙で育っていると、こういう状況で宇宙服を脱ぐのは、生理的に受け付けない。

 そんな事をしたら死ぬと、子供の頃から言い聞かされているからだ。

「俺も脱がないとダメなのかよ」

 一応聞いたが、相手が重装服を脱いでしまうと、会話する為にはもう一度有線接続し直さなければならない。

 おまけに、宇宙服と違って連結出来ないので、いちいちコードを差し替えなければ、複数の相手と会話出来ない。

「もう、信じられない。こんな事するなんて」

 フリッツまで、宇宙服を脱ぎ始めてしまった。

 鯖丸は、文句を言いながら、とりあえずヘルメットを外した。

 物凄い勢いで、むせ返る様な匂いが押し寄せて来た。

 あまり強烈だったので、一瞬パニックを起こしそうになった。

 それから、これが何なのか、思い出した。

 草と木と土の匂いだ。

 地球を離れてから、数日しか経たないのに、人間以外の生き物に接していないので、すっかり忘れていた。

 変な音も聞こえて来る。

 植物が、風でざわめく音と、虫の羽音。

 システム上そうなっているのか、何か別の理由なのか、空気が対流している。

 呼吸は楽で、温度も多少じめじめしてはいるが、快適だった。

 諦めて、重装服を壁に固定してから、抜け出した。

 横でトリコが、同じ様に宇宙服から出て来ている。

 大体お約束だが、魔界で大きくなった姿を見て、フリッツが驚いている。

 宇宙服を脱いで不安ではあるが、動作は格段に楽になったので、鯖丸はポッドから刀を取り出して背負った。

 使い慣れた刀が、魔力に反応するのが分かる。地球の魔界と同じだ。 

 少しほっとした。

 重力がないので、てんでばらばらな方向から、四人は向かい合った。

 トリコが、発光魔法を使って灯りを点していた。

 ジョン太が、その下に…というか、無重力空間では上下が定まらないのだが、とりあえず光の下で皆に見える位置に、U08の内部構造図を広げた。

 現在位置に印を入れる。

 地球の魔界に入った時と、同じ段取りだ。

「俺とフリッツが入ったのは、この範囲なんだが」

 ジョン太は、現在地を囲む様に、半円を描いた。

「今日中に…いや、十時間以内にこの先を探索して、現在地に戻る。基本的に別行動は無しだ。危険だし、離れたら通信手段もないからな。

 万一はぐれたら、ここへ戻って皆を待つ様に」

「ええと、もう一回説明してくれ」

 フリッツが、翻訳機を操作しながら言った。

「何だ、翻訳機が止まったのか」

 ジョン太は、英語で尋ねた。

「機能は生きているが、画面が出ない。悪いが重要な会話を日本語でする時は、ゆっくりしゃべってくれ」

 翻訳機の精度は、それ程高くない上に、音声通訳は速度がついて行かないと、途中で内容がキャンセルされてしまう。

 テキストモードがないと、けっこう厳しい。

「緊急時に重要だと思う単語は、いくつか覚えたんだが…」

 昨日、トリコの部屋から出て来たのは、やはりそういう事だった様だ。

 ジョン太は、同じ内容を英語でフリッツに説明してから、U08の内部構造図をポケットに仕舞った。

「じゃあ出発」

 皆はうなずいた。


 サンプルを採取しながらの移動は、意外に手間取った。

 ジョン太とフリッツが探索した範囲を超えるのに、四時間近くかかっている。

 基本的に、人間を見ても逃げも襲っても来ないが、魔導変化と無重力で巨大化した昆虫は不気味だった。

 まだ姿は見えないが、数種の鳥と哺乳類も居るはずだ。

「休憩」

 ジョン太は、皆を止めて言った。

 植物の幹にロープとカラビナで体を固定して、簡単に昼食を取った。

 水で戻して食べる携帯用の食料で、味気ないが腹はふくれる。

 ここに居る間は、食事はこんな物だが、まぁ仕方ないかと思ってふと横を向くと、トリコが果物の皮をむいていた。

「えーと、何してるの」

「キウイ」

 輪切りにした緑色の物を差し出した。

 サイズは大きいが、見慣れた果物だ。

「どこから持って来たんだよ」

 こんな、かさばる食料を持ち込んだ記憶はない。

「そこ」

 足下を指差された。

 木の枝に、楕円形の実が付いている。

「ああ、これも食べ頃だな」

 もう一個もぎって、皮をむき始めた。

「食べて大丈夫なのかよ」

 鯖丸は、不安になって聞いた。

「だって、食料品として栽培してるんだろう」

 そうかも知れないけど…。

 トリコって割と大胆だよなぁ…と思って上を見ると、ジョン太が水を汲んでいた。

 無重力空間で円形に集まった水が、かなりの大きさの池を形成している。

 植物の根が無数に入り込み、間を縫って泳ぐ魚の姿が見えた。

 どうするのかと思って見ていると、プラスチックの容器で汲み取った水を、普通にそのまま飲んでいる。

「消毒しろよ…」

「何で?」

 ジョン太は、不思議そうに聞いた。

「だって循環濾過してないし」

 封を切ったばかりの飲料水ならともかく、何がどうなっているのか得体の知れない水を飲むなんて…。

「お前、地球の魔界じゃ、平気で川の水とか飲んでたじゃねぇか」

「それは、地球なら自然濾過されるから」

「言っとくけど、あそこの上流、松吉が山羊と牛を放し飼いにしてるぞ」

「聞かなきゃ良かった」

「あと、上流は魔界じゃないから、山頂にテレビ塔と公園があって、水洗トイレの水が流れ込んでるぞ。浄化槽は使ってるけど」

「浄化してるなら、別にいいんじゃない」

 コロニー出身の人間は、衛生観念が地球人とは違う。

 鯖丸は特に雑な方だが、地球の田舎で使われている浄化槽の能力については、言わない方が良さそうだった。

 ここの水たまりの方が、余程清潔だ。

「食料も水も、贅沢言わなきゃ、何の不自由もないな。怪我や病気が無ければ、生存に支障は無いだろう」

「そうだな」

 フリッツが、皆の居る位置から、光の方向…光合成に必要な発光パネルを張り巡らせた、コロニー内壁に向かっての方向を、指差した。

「あれは怪我人だったみたいだが…」

 指差した方向に、白骨化した骨があった。

 周囲に服の残骸が絡みついているから、人間だ。

 服は破れていて、黒ずんだ染みがあった。

 足の骨が一カ所、折れて変な方向へ向いている。

「回収しておくか? 持ち帰って調べれば、誰だか分かるだろうし」

 キウイの輪切りを食いながら、トリコはたずねた。

 姐さん、雑と云うより男前過ぎ。

「後でな」

 さすがに、持ち歩くのが嫌だったらしく、ジョン太が止めた。

 テープでマーキングしてから、その場を離れた。

 白骨化しているという事は、食われたにしろ、分解されたにしろ、生態系は正常に働いている証拠だった。

 白骨の人には気の毒だが、いい状況だ。


 その後の移動で、多数のサンプルを採取し、更に二体の人間と、一体の小動物の骨を発見した。

 探索範囲は、本来のプラント設置場所を越えて、居住区に入っていた。

 植物は、どんどん伸び広がって、居住区内にも森を作っている。

 居住区に入ると、重力は無いが、構造的に上下左右の区別があるので、視覚的にかなり安心感がある。

 誰が住んでいたのか分からないが、まだ使えそうな部屋がいくつもあった。

「ここで一泊してもいいんじゃないか」

 トリコは言った。

「ダメだ。何があるか分からない。一度入口まで戻る」

 ジョン太がリーダーなので、従うしかないのだが、フリッツもその通りだという顔をしている。

 元特殊部隊と、現役軍人の意見は、聞いておいた方が無難だろう。

「戻った方がいいよ」

 鯖丸も言ったので、トリコはしぶしぶうなずいた。

 来た時にマーキングしていた白骨の遺体を回収して、四人は境界に近い魔界の入り口まで戻った。


 回収したサンプルと遺体は、一つにまとめてパッキングされた。

 夕食を済ませてから、このままここでビバークするか、シャトルに戻るか話し合った。

 今の所、特に危険な事も無さそうなので、普通の人間ほど休まなくても済むジョン太とフリッツが、交代で起きている事にして、魔界の中でビバークする事に決めた。

 とりあえず、宇宙服の着用が一番素早い鯖丸が、一度シャトルに戻って、今日の定時報告をする事になった。

 出入りの度に、壁に大穴を開けて、折角保たれている大気を大量に流出させる訳にもいかないので、最低限の穴をえぐって、無理矢理体をねじ込んだ。

 気圧の関係で、入る時より出る時の方が幾分楽だ。

 外は、来た時と同じ、外壁に穴の開いたコロニーの中だった。

 壁の向こうに、あんなジャングルが展開しているとは、外からは想像が付かない光景だ。

 軽く壁を蹴って、シャトルの方へ飛び始めた鯖丸は、何か微妙な違和感を感じた。

 来た時と、周囲の状況が少し違う様な気がする。

 壁から吹き出した空気で、物が移動したのだろう。たぶん、そうだ。

 シャトルに入って、通信回線を開いた。

 宇宙服を脱ぐのが面倒なので、コクピットに座らず、宙に浮いたままで機械を操作した。

 指向性は、ハンマーヘッドに合わせてあるので、簡単な操作で誰でも使える様になっている。…はずだった。

 聞こえて来るのはノイズばかりだった。

 少し考えて、チャンネルを調整し直した。

 それから、ハンマーヘッド以外の、思いつく限りの場所に、チャンネルを合わせて行った。

 最後には、レスキューに連絡する為の緊急回線を開き、更に自分の宇宙服の通信回線を開いて、シャトルの通信機に受信させてみた。

 至近距離から発した、自分の声だけは受信された。

「機械の故障じゃないな」

 口に出して言った台詞が、スピーカーから聞こえた。

 自分で言った事なのに、どきりとした。

 急いでシャトルを出て、皆の所に戻る前に、コロニーの周囲を確認した。

 シャトルを止めた場所からは、死角になる方向の外壁に、別の機体が確認出来た。

 重装服のズーム機能を使っても、暗い色の機体は、半分物陰に隠れていて全貌が見えない。

 見に行くのは簡単だったが、一人で行動するのは危険だ。

 大急ぎで皆の所に引き返した。


「何だ、遅かったな。こんな所でナンパか」

 ジョン太は、のんきな事を言った。

「だったら良かったけど」

 鯖丸の様子がおかしい。

 外から戻ったのに、かさばる重装服を脱ごうとしないで、会話の為にヘルメットだけ外した。

「外部と通信が出来ない。妨害電波だと思うけど」

 ジョン太は鯖丸の方を見た。

 そのまま話せと合図した。

「外壁に、別の機体が居る。たぶん軍用機だ」

 他の侵入者が居るのかどうか、全く感知出来なかった。

 宇宙空間でどんなに大げさに動き回っても、音は伝わらないし、おかしな具合に空気が対流しているこの場所では、嗅覚も当てにならない。

「じわじわ絡んで来るな。何が目的だ」

 考え込んだジョン太の横で、鯖丸は自分の刀を拾って、鞘から抜いた。

 重装服は、実際の体格より二回り以上大きいので、物を掴む為にはマニピュレーターを操作しなければならない

 慣れれば、軽装服のグローブ越しに物を掴むより、かなり精密な作業が出来るが、関節の可動範囲も人体よりは小さいし、普段通り刀を振り回せるとは思えなかった。

 何をするつもりなのかと見ていると、抜いた刀を、フリッツの鼻先に突きつけた。

「そんなの、こいつに聞けばいいだろ」

 素手で掴んでいる訳ではないのに、切っ先まで魔力が通っていた。

「俺が敵側の訳がないだろう。自分も乗るシャトルに、小細工はしない」

 切っ先に視線を落としながら、フリッツは冷静に言った。

 口調は冷静だが、少し動揺しているのが分かる。

 敵だとか味方だとかは全く別にして、刀の切っ先がほんの少し動けば、致命傷を負わされる事が分かったからだ。

 魔界で、魔力が高いというのがどういう事か、初めて理解した。

「でも、何か隠してるよね」

「民間人には話せない事もある」

 フリッツの言葉を無視して、鯖丸はジョン太の方へ頭だけ向けた。

「こいつどうする? 一応動けない様にしておこうか」

 はっきりとは見えないが、明らかに何かが体の周囲に絡みついて来た。

「待て。侵入者が居るなら、俺にとっても敵側だ。今拘束される訳には…」

「お前には聞いてない」

 まとわりついた何かが、いきなり体中を締め上げた。

 普通の人間なら、あっさり絞め落とされて気を失っている所だ。

 うめき声ひとつ上げないのはさすがだが、かなりのダメージはあったはずだ。

「手加減してやれよ」

 ジョン太は、呆れた顔で言った。

「こいつも、色々立場があるんだろう。秘密があるからって、いきなり敵扱いはねぇだろ」

 昔、似た様な仕事をしていたせいか、多少の内情は分かるらしく、ジョン太はフリッツの肩を持った。

「いざとなりゃ、聞き出す方法くらい、いくらでもあるしな」

「そうだね、ここで無理矢理リンクして、トラウマごと秘密を全部ぶちまけてやろうか」

 重装服の解除キーを入れて、胸のプレートを前傾させ、腕をマニピュレーターから引き抜いた。

「お前、こんな所で…」

 ジョン太は、嫌な記憶がよみがえったのか、止めに入った。

「最近男まで見境無しかよ」

「え…?」

 予備の接続コードを引っ張り出していた鯖丸は、止まった。

「有線接続すればいいだけじゃん。何言ってんの」

「はい?」

 ジョン太は、間抜けな声を出した。

「あの…リンクって、プラグで接続しても張れるの?」

 ちらりと、一連の流れを傍観していたトリコの方を見た。

「知らなかったのか」

 トリコは、意外そうな顔をした。

「こんな簡易の外装プラグじゃ無理だけど、鯖丸とフリッツなら、フル装備だから、有線接続だけで繋がるよ」

 あっさり、言い切られた。

「うわぁぁぁ、あの時の努力は何だったんだー。今でも時々夢に出てうなされるのにー」

「そこまで嫌だったのかよ」

 鯖丸は、ちょっと傷ついた顔をした。

「俺はそこそこ楽しかったけど」

「嫌だ、聞きたくない」

 おっちゃんは、耳を塞いで自分の殻に閉じこもってしまった。

 トリコは、ため息をついて、壁を少し手で押して移動して来た。

 フリッツの拘束を、指先で軽く触れて解除し、鯖丸の方に向いた。

「周りの事情なんか、どうでもいい。早くメアリーを保護して、サンプルを持って帰ればいいだけだ」

 鯖丸は、反論しかけたが止めた。

「邪魔する奴が居たら、その時排除すればいいだろう」

 確かに、この面子ならそれが出来る。

 うずくまって、プラグさえ付けてれば…と、ぶつぶつ言っているジョン太を、つま先で軽く蹴った。

「お前も、いつまでも済んだ事を気にするな」

「気にするさ。今俺とリンク張ったら、きっと悪魔将軍にオカマ掘られてるトラウマ映像が出て来るよ」

 ちょっと涙目になっている。

 本気で辛かったらしい。気の毒に。

「お前ら…そういう関係だったのか」

 フリッツは、じりじり鯖丸から離れた。

 この場合、いきなり魔法で拘束されたとか、敵だと思われたとか、そういう事ではない。

「関係とか言うなー。撃ち殺すぞ、貴様」

 おっちゃん、マジギレして、銃を抜いた。

「まぁまぁ」

 今度は、鯖丸が止める側に回った。

 フリッツに近寄って、にやーと笑いながら尻を触った。

「敵じゃないって言い張るなら、プラグ接続よりもうちょっと楽しい方法でリンク張るか?」

 フリッツは、高速で飛び下がった。全身の毛が逆立っている。

 本物の猫だったら、しゃーとか言っている所だ。

「お前、わざとやってるだろ」

 トリコは、呆れた顔をした。

「わざとに決まってるじゃん」

 鯖丸は、しれっと言い切った。

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