ぽたぽた
(もう、二時か……)
気が付くともう一時間もトイレに入っていた。
一畳ほどのトイレの中。
オレンジ色の淡い照明と畳一畳ぐらいこの狭さが俺は好きだ。
とはいえ、一時間はヤバいな。
それに、午前二時。
もう真夜中だ。
(そろそろ、出ないとダメか……)
でも──
俺は、ニンマリした。
三カ月ほど前に引っ越して来たこの部屋は、なんといっても立地がいい。
新宿駅まで歩いて十五分。
そして──
会社まで五分。
そう、歩いて五分。
ビルが建て込んでいるので窓からは見えないけど、会社は目と鼻の先。
俺は、いつも八時半に起きて会社に行っているが、それこそ、
(ワンチャン、八時四十五分とかでも間に合うんじゃね?)
と思ってるくらいだ。
だから、もし、今すぐにトイレを出て寝たとしても、確実に六時間は寝れる。
(焦る必要ねーべ)
俺は、鼻歌交じりにスマホゲームの続きへ。
うーん……課金する?
今月、結構課金してるしな……。
(どうすんべ……)
うーん、と頭を掻きつつ、ふと顔を上げた時だった。
たら……たら……たら……
(うん?)
目の前のドアの上を水が一滴、ゆっくりと伝って落ちて行くのが見えた。
(水?)
一筋の水のしずく。
(水漏れ?)
ドアの上部を見上げてみるが、特に天井から水が漏れてる感じはない。
て、ゆーか──
(水……)
漏れてなくね?
どこっから、漏れてんだ……
俺は、パジャマのズボンを上げてドアに近寄った。
フツーのなんもないドアだ。
強いて言うなら──
古い。
アンド、夜に見てるからあんまり目立たないけどかなりボロい。
(まあ、不動産屋にも「ここ結構古いし、ボロいよ」みたいなこと言われたしな……)
長くて暗い廊下。
ボタンが所々壊れて反応しないエレベーター。
カーテンが閉まったままの誰もいない管理室。
住んでるヤツだって、いったい何人いるのか……俺以外の人を見たことがない。
古くて、ボロくて、ムダに大きい、住んでるヤツもろくにいないようなマンション──
だからなんだろう、このマンションは家賃がすごく安い。
不動産屋に言わせると、この辺りの相場の半分くらいらしい。
そのお陰でこんなに立地のいい場所なのに俺でも住めるワケ。
(さすが、築五十年……)
でも、水が漏れるのは困るよな。
(マジでどっからだよ……)
俺は、あまりよくない目を凝らしてドアの上の方や、近くの天井をもう一度見てみた。
けど……
水……
(どっからも、漏れてないな……)
なのに──
たら……たら……たらぁ……
ぽたんっ
(………………)
水は、一滴……また、一滴。
ドアの上を流れ落ちて行く。
どゆこと……?
(………………)
ざわざわざわ……
背中の辺りが、ゾッとして、俺はトイレの中を思わず見回した。
何もなかった。
トイレの中は、しーん、と怖いくらいに静かだ。
(なんか、ヤな予感がする……)
それに、そう思ったせいか……
(トイレの外……)
そう、ドアの向こうに──
なんか……
(いる?)
俺は、一人暮らしだ。
『ガチャンッ!』
俺は、すぐさまドアのカギを閉めた。
今の今までカギは、開きっぱだった。
(あっぶねー、あぶねー)
腹の辺りから冷たい物が、ゾワゾワと体の上を這い上がって来て、生え際の辺りから滲み出た冷たい汗がたらたらと顔を伝う。
(これ、絶対……)
目の前のドアを見つめて、俺は冷たくなった両手をグッパ、グッパしながら泣きそうになった。
(これ、絶対開けたらなんかいるパターンだろ……)
目の前のドアからじわじわと滲み出て来るヤな感じ。
人が背中の後ろに立った時のなんか「アレっ?」と言う時のあの感じ。
遠くの方から誰かに見られてる時の「アレっ?」って言う時のあの感覚。
そう。
目の前のドアから、その感じ、その感覚がモロにする。
誰かが、ドア一枚を挟んでその向こう側に隠れてる。
そんな感じが。
(どうすんよ……)
俺は、スマホをチラッと見て、唇を舐める。
いまは、夜中の二時。
近所に友だちや家族もいない。
電車だって動いてない。
そもそも──
(トイレから怖くて出られない、って誰に言うんだよ)
アホだと思われるだろ。
それに……
俺は、ドクドクと鳴る心臓を宥めながら必死で考えた。
(もう、いっそのこと──)
思い切ってドア開けて──
バッ、て外に出れば──
俺は青錆びたドアノブを握って気配を窺った。
(…………)
ドアノブを握り締めた掌がじっとりと湿ってくる。
ひしひしとドアの向こう側に感じる誰かの気配──
そんな目の前のドアの上を「たら……たら……」と水が一滴、また、一滴……ゆっくりと伝いおちていく。
何なんだよ、この水……
(くそっ……)
俺は、ドアノブから手を離すと、頭を掻いた。
(マジでどうにもなんねー)
どうしたらいいんだよ。
頭を掻きむしって、俺はトイレの天井を見上げる。
と──
閃いた。
足元のドアの隙間……
(あそこから……)
そうだ……
「こわいこわいと思うから、なんでもない事でも怖いと感じるんだ」
じいちゃんに昔言われたことを思い出した。
そうだ。
外に何かいるのならいる。
いないならいない。
カンタンなことじゃねーか。
(クソがっ)
俺は、苦労しながら体を折りたたむようにしてトイレの床にしゃがみ込むと、
「くっ……」
尻を高く上げ、床にほっぺたをべったりと付けてドアの下の狭い隙間からそっとトイレの外を窺った。
ほっぺたに感じるビニールの床の冷たい感触。
ドアの隙間からは、薄暗い廊下とリビングからの明りが見えた。
しーん、と静まり返った部屋の中。
薄暗くて埃っぽい廊下。
痛いほど静かだった。
そして、あたりまえのように──
(誰もいない)
そう──
いま一度、玄関からリビングの方を見てみる。
やっぱり──
誰もいない。
(……なんだ)
俺は、ほっぺたをトイレの床に付けたまま、そっと胸を撫で下ろした。
(気のせいかよ)
なんだよっ。
さっきまであんなに怖かったのに。
俺は少し笑った。
(じゃあ、まあ……)
出るか。
いつまでもいらんねーしな。
なーんだ。
そう思って、起き上がろうとした。
その時だった。
廊下の一点が、微かに光って見えた。
(うん……?)
水滴……
水滴がひとつ……ふたつ……
そして、その先の暗がりに──
青白い足が見えた。
左右ぴったりと閉じられたずぶ濡れの裸足の足。
青白い脛を伝い、ぽたり、ぽたりと床に落ちるしずく──
「ぅわああっ!」
俺は飛び上がった。
ぞわぞわぞわ……
冷たい感覚が二の腕の辺りから背中の方へと広がっていき、体じゅうから「ぶわっ」と冷たい汗が噴き出る。
そして、そんな俺の目の前でドアの上を──
たら……たら……たらぁ……らら……ぁ……
水のしずくが、滴り落ちていき……
──ぽたんっ
足元の床の上に落ちた。
(あわわわわわ……)
しかも……
俺は気が付かなくてもいいことにその時、気が付いてしまった。
一体、この水はどこから出てるのか?
どこでもなかった。
俺の顔の真ん前。
ドアのそのあたりから水が滲み出ては、たらり、たらりと滴っていた。
(どうなって……)
と──
ぽたん
「ん?」
ぽたん
(上?)
俺は、パジャマの肩を確かめながら天井を見上げる。
と──
ぽたん
顔の上にしずくが落ちた。
さらに、
ぽたん
ぽたん
どこからも水は漏れてない。
なのに──
「あ……」
ああ……
「あぁ……」
ほっぺたに。
おでこに。
生温かくて、ドロリとしたしずく。
それが、一滴、また、一滴。
ぽたり、ぽたり、と落ちて来て──
指でそっと、拭うと──
「────っ!」
赤い
(血だぁっ!!!!)
あぁ……
ああ……
「うわぁぁああああああっ!!!!」
うわぁぁあああっ!!!
「うわああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!!!」
床に尻餅をついた弾みで、スマホが音を立ててトイレの床に転がる。
血の混じった水のしずくが、いや、血が──
ぽたん、ぽた──ぽたぽたぽたぽたぽたぽたっ
顔と言わず、肩や背中にどんどん落ちて来る。
頭が真っ白になった。
「わぁーっ!!! ぁあーっ!!!!! ぅわぁぁぁぁっ!!!!!!」
もう、あまりにも怖すぎて声も出なかった。
口の中で悲鳴を上げながら這うようにしてドアに縋りつく。
ドアノブを握り締め、カギに指を掛けたところで──
俺の手はピタリと止まった。
さっきドアの下の隙間から見た青白い足が目の前をチラつく。
気をつけでもするようにぴったりと閉じられて、こっちを向いていた青白くて血管の浮き出た足が──
(………………)
俺の顔から、サーッと血が引いていくのが分かる。
ざらざらとしたドアノブを何度も握り直して、俺は考え込んだ。
ぽた、ぽた、ぽた、ぽた、ぽた、ぽた、ぽたっ
生温かいしずくが、体の上に落ち続け、ドアノブを握る手の上をたらたらとドアを滴ったしずくが伝い落ちて行く。
俺は、落ちて来るしずくを背中で感じながら、もう一度、トイレの床に体を折るようにして身を屈める。
ドクドクドクドクと心臓がものすごい勢いで鳴っていた。
さっき見た足は、まだ──
コン、コンッ
(──────っ!!!!!)
コン、コンッ
ノック!!
ドアをノックしてる!!!!
俺は、ドアノブを縋りつくようにして両手で握り締めるとカギを確かめる。
何度も確かめた。
閉まってる。
閉まってる。
カギは確かに閉まってる。
それにこうやって握ってれば、もし、向こうがドアを開けようとしても──
そうだ。
そう。だから──
だいじょうぶ。
だいじょうぶ。
(だいじょうぶ……)
カタカタカタカタ、と歯が鳴って、ドアノブを関節が白くなるほど強く握り締めた俺の手は、小刻みに震えていた。
誰かいる。
俺以外、誰もいない筈の部屋に──
誰かいる。
トイレに入る前には、絶対に誰もいなかった。
もちろん、玄関のカギだって掛かってる。
なのに──
つーか、このドアとか天井とかから落ちて来る水とか血は何なんだ!
血だぞ……血……。
どうなってんだよ……。
俺は、はあはあと息を吐きながら、ドアノブだけはしっかりと握り締めたまま、トイレの中を見まわした。
コンコンッ
「ぅうーわっ!!!!!」
ドアがまたノックされた。
飛び上がった俺は、半泣きになりながら、それでもドアノブからは手を放さずに、咄嗟にトイレの床に放り投げてしまったスマホを拾い上げ、画面を見──
『バッテリー残量:0%』
(……………………)
マジか……
もう、悲鳴も出ない。
俺は、握り締めたドアノブを見た。
もしも……
もし、これで、ドアノブがガチャガチャとか鳴ったら──
そう思った矢先だった。
……………………
(………………あれ?)
突然、辺りが静まり返った。
あれだけ大量に落ちて来たしずくがいつの間にか止まっていた。
(…………?)
パジャマから、汗の臭いがする。
おでこの汗をパジャマの袖で拭い、ドアの向こう側の気配を窺ってみる。
静かだった。
ノックして来たヤツは、どこに行ったんだろう……
俺は、ドアノブを握り締めたまま、必死で息を殺していた。
片方の手でバッテリーの切れたスマホを手探りでなんとか拾い上げると、パジャマのポケットに押し込む。
たらたらと粘っこい汗が顔を伝っていく。
いま、一体何時なんだろう……
静まり返ったトイレの中。
俺の息の音が、うるさく感じるほどに静かだった。
(…………)
俺は、恐る恐る床にしゃがみ込む。
ゴクリと喉が鳴った。
(よ、よし……)
ほっぺたを床に付けて、トイレのドアの下の隙間から外を覗く。
何か見えたら……
恐る恐る、ゆっくりと外を見回した。
向かって左手の玄関。
そして、反対側のさっき足の見えたリビングの方──
……………。
いない。
(…………)
確かに誰もいない。
目を瞑って、もう一度──
薄暗い廊下とリビングから伸びる明り。
(………………)
俺は、大きく息を吐き出した。
間違いなく誰もいない。
でも……
ホントに?
ホントに誰もいないのか……。
ホントに、ホントに誰もいないのか──
俺は、トイレのドアノブを両手で握り締めたまま、トイレの中にしゃがみ込んでいた。
異様なまでに静かだった。
それに、あれだけドアを伝い、天井からも落ちて来たしずくはきれいに消えていた。
体に、掌に残るねっとりとした手触り。
肩を、背中を打つしずくの重さ。
目に焼き付いたあの鮮やかな赤黒い色。
そう。
水だけでなく血まで落ちて来た筈なのに──
拭き取ったみたいに何もない。
(夢だったのか……)
まさか……
俺は、なおもしつこく外の様子を窺っていた。
ドアの向こうのあの気配は消えていた。
まるで、冗談だったみたいに。
跡形もなく。
(よ……)
よし……
俺は、ドアノブから一度手を離すと……
ガチャ──
ゆっくりとカギを開けた。
そして、ゆっくりとドアノブを回す。
ドアは、外開き。
ゆっくりと外側へ向けてドアを開く。
最初に目に入ったのは、真っ暗な玄関。
革靴とスニーカー。
空き缶を詰めたゴミ袋。
(よ、よし……)
だいじょうぶ。
だいじょうぶ。
ゆっくりとトイレから出て、ドアを後ろ手に閉める。
そして、リビ──
あっ