第35話②
私には、歳の離れた姉がいた。
姉は何でもできる、所謂天才と呼ばれる人だった。
小学校の頃から頭が良くて、中学受験も成功させ、大学も日本随一の大学に入学。
その後留学も経験している。
そんな姉の妹として生まれてしまった私に、家の中での居場所はなかった。
私がテストでどれだけ良い点を取っても、それは『私にとって』いい点であって、姉と比べれば大した点数では無い。
一度、姉という天才を見たお父さんが、凡人の私を褒める事はなかった。
父も姉も自分で何でもできる人だから、私の気持ちなど分からない。
あんなにも輝いた目を私はしていない。
母は父の横でじっとしているだけの人形のように静かな人だった。
それなのに、その目は自信に満ち溢れていた。
「どうして、そんな目をしてるの?」
反応など期待せず、そう聞いた事があった。
けれど、珍しく母は答えた。
「……宝物を守らなきゃいけないからよ」
その言葉を、姉を見つめながら言っている姿を見て、聞かなければ良かったと後悔した。
母にとって姉は宝物で、私は違うのだと思い知っただけだったから。
私が10歳になる頃、姉が妊娠した。
まだ大学生の時だった。
これにはさすがの父も初めは怒っていたが、相手の男が弁護士という理由で、すぐに打ち解けていた。
弁護士の癖に大学生を妊娠させるような男はどうなんだと言いたかったが、姉の事でそこまで考える必要はなかった。
しばらくして、姉が出産し、私の甥っ子のみはる君が生まれた。
まだ姉が大学生だったこともあり、姉夫婦はウチで住むようになった。
それが、間違いだった。
16歳になってすぐ、義兄さんに襲われた。
必死に抵抗して、机の上にあった灰皿で義兄さんの頭を殴った。
その場から逃げ出して、部屋の鍵をかけて閉じこもった。
当然問題になり、その日の夜にリビングで父と姉、そして義兄さんと話すことになった。
姉は当然義兄さんの味方をする。
だから、私は父に必死に話した。
自分が襲われそうになったから仕方がなかった。
その男を追い出して欲しいと。
さすがの父も信じてくれると思っていた。
「パチンッ」
話している途中で、左頬に痛みが走る。
私を叩いた父は怒りの表情を浮かべて言った。
「いい加減にしろ!彼がそんな事する訳ないだろ!勉強もできないくせに嘘までつくとは、見損なったぞ!」
父は信じてくれなかった。
見損なったっと父は言ったが、期待された記憶などない。
この日から、私はリビングに足を踏み入れなくなった。
私が20歳になっても、姉夫婦は実家に居た。
父と義兄さんが意気投合したこともあり、結局ずっと一緒に住んでいる。
父達はよく一緒に食事をしている。
夜、学校から帰ると、リビングから明るい声が聞こえる。
これを聞く度に思う。
この家は壊れている。
自分の妹を襲うような男と結婚した姉も、娘を信じず後から来た他人を信じる父も、何もしない母も、誰も私を見ることは無い。
珍しくその日は、家に誰もいなかった。
大学もバイトも休みの私は、大学入試の日以来にリビングに足を踏み入れた。
あの時も、父はお金は出してやると言っただけで、どこの大学を受けるのかも聞いてこなかった。
リビングには男の子が一人でゲームをして遊んでいた。
この家の子供は、姉の息子のみはる君しか居ない。
久しぶりに甥っ子を見ても何も感じなかった。
けれど、みはる君は違ったらしく、冷蔵庫を開けて物色する私をじっと見てくる。
「特にお菓子はないか……」
食べるものも特になく、私は視線を無視して部屋に戻る。
久しぶりに入ったリビングは別の人の家に感じた。
部屋に居ても特別やることはなく、ただ勉強をしていると、扉がかすかに開いた事に気づく。
見ると、みはる君が隙間からじっと私を見てくる。
気が散って仕方が無いので、ため息をついて話しかける。
「何か用?」
語気を強める。
これで逃げてくれればありがたい。
そう思ったが、みはる君はあろうことか部屋に入ってきた。
「お姉さんは誰ですか?」
純粋な目をして聞いてくる。
「……姉さ─、お母さんからお姉さんと話しちゃダメって言われてない?」
「……言われてる」
「なら、早く出ていきなさい」
そう言うも、何故か出ていこうとしない。
「……お母さんに怒られるよ?」
できるだけ優しく言ってみるも、返答はない。
どうしたものかと考えている時、みはる君が言う。
「……お姉さん、可哀想」
「はい?」
予想外の言葉に、つい反応してしまう。
「だって!母さんも父さんもおじいちゃんもお姉さんの事無視して、みんなして酷いじゃないか!」
そんな言葉を私の目を見て言ってきた。
初めて、人と目が合った気がした。
あまりに突然の事に呆けていると、みはる君が机にお菓子を置いていく。
「母さんが隠してるやつ!お姉さんにあげる!内緒だよ!」
そう言ってにっこりと笑う。
(この子は、私を見てくれてる…)
そう思った。
父も姉も母も、私に期待せず、私を信じず、私を見ない。
けれど、この子は、みはる君だけは私を私として見てくれる。
存在を認めてくれる。
(この子が欲しい……)
目の前の男の子を自分のモノにしたくて仕方がない。
でもそれは、この家族を壊すのも同義。
(でも、もう壊れているし、どうせ壊れているなら……)
その考えが過ぎった時、その思考を止める理由を私は持っていなかった。
「それじゃあね!お姉さん」
部屋から出ていこうとするみはる君の腕を掴む。
「お姉さん?」
「……みはる君、お姉さんと遊ぼっか」
「お姉さんと?」
「うん。ゲームよりも楽しい事知ってるの。だから、ね?」
この日、私は生まれ変わったような感覚がした。