第23話③
彩華が保健室を出てしばらくしても、俺は動けなかった。
水の入ったコップを持つ手は震えていて、額からは汗が止まらない。
あの女の顔を見た途端に、過去の出来事がつい昨日の事のように蘇った。
あの頃より背も高くなり、あの女よりも大きいはずなのに、萎縮した。
挙句には、妹に助けられた。
「・・・情けねえ。」
誰に聞かせるわけでもなく、一人呟く。
額の汗を拭い、水を飲み干すと、扉をノックする音が聞こえる。
返事をすると、扉が開かれ、花野井が暗い表情で入ってきた。
「・・・彩華に、保健室に居るって聞いて…」
「そうか。悪いな心配かけて。」
「・・・あの人に会ったから?」
疑問形だったが、確信を持って聞いたのだろう。
隠せる事でもないので、俺は頷く。
「・・・ごめん。あの人にどうしてもって、頼まれて…」
花野井の謝罪は俺に嘘をついた事への謝罪だろう。
俺は、今日みたいにならないように、花野井に面談の日を聞いていた。
その日に合わせて俺は予定を組んだが、それが嘘だったのだ。
だが、それを責める事は出来ない。
俺にとっては怪物でも、花野井にとっては母親だ。
それも自分を大切にしてくれている母からの頼み事など断る方が難しいだろう。
「お前が謝る事じゃないだろ。こっちが無理言ってたんだから。」
「でも─」
「それに、そろそろだと思ってたんだ。」
「そろそろ?」
俺は一度目を閉じて、冬咲に言った言葉を思い出す。
見方を変えて、向き合う事。
それは冬咲にだけではない。
花野井と彩華にも当てはまる事だ。
そして、花野井とちゃんと向き合うためには、あの女を通らずにはいられない。
「もう、振り回されるのはたくさんだ。」
「あら?お邪魔だった?」
そんな決意表明をしたところに、瞳さんが顔を出す。
「瞳さん。彩華の面談は?」
「それが、終わった途端あの子ったら走り出したちゃって。どこに行ったんだか。」
その言葉に、俺の緊張感が一気に増した。
さっきの出来事に続いて、彩華が誰かを追いかけた。
ほぼ間違いなくあの女の所に向かったのだ。
「花野井、面談は終わったか?」
「つ、ついさっき…」
「え!?絢士郎君!?」
俺は保健室を飛び出し、必死に走った。
靴も履き替えず玄関を飛び出してすぐに彩華の背中を見つける。
その前には花野井 みさきが居て、妙に彩華に近い。
「彩華!」
気がつけば叫んでいた。
体の震えは収まっていた。
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いざ目の前にすると、収まっていた震えが再び始まる。
けれど、ここまで来れば、もう後戻りは出来ない。
俺は意を決して話し始める。
「・・・お久しぶりです、みさきさん。さっきはちゃんと挨拶出来ずすみません。」
そう言うと、花野井みさきは笑顔のまま答える。
「全然いいのよ。それで?わざわざ追いかけてまで、絢士郎君は私に何か用?」
何を言えばいいだろうか。
二度と関わるな?謝罪しろ?
そんなものは求めていない。
「俺は、もうあなたに縛られるつもりはありません。」
自然と出た言葉だった。
もう花野井 みさきという人間は、俺にとって関係の無い存在である。
そういう意味を込めた言葉だ。
それが分からないほど、花野井 みさきは馬鹿ではない。
一度口に出すと、体が軽くなった気がした。
俺はさっきよりも数倍自信を持った表情をしていたことだろう。
逆に、俺の発言に花野井 みさきの顔は、見たことないほど歪んでいた。
「・・・あなたも、そんな目をするのね。」
聞いた事のないくらい、冷たく暗い声
「自信に満ち溢れた目。絢也さんや姉さんもそんな目をしてた。私、その目が大嫌いなの。」
重くドスの効いた声に、俺は黙って続きを待つ。
「そういう人はね、期待されて、結果を残してきた人がする目なの。私みたいに、期待に応えられず、落ちぶれた人にはない目。」
「・・・それが、何か?あんたの不幸話には興味無いぞ。」
まだ微かに体は震えているが、強く対応出来ている自分に驚く。
「・・・もういいわ。君への興味は失せた。次はいるしね。でもね、これだけは覚えておきなさい。この世にはね、何かひとつの事でしか満たされないものがあるのよ。それがどれだけ、悪い事だとしてもね。」
それだけ言い残し、花野井 みさきは去っていく。
去り際に花野井をちらりと見た。
何かを伝えたのかもしれないが、俺には分からなかった。
「はぁ~~~」
花野井 みさきの背中が見えなくなったところで、俺は地面に座り込んで、深い息を吐いた。
「マジで怖かった!見たかよ、あの眼光。ヤバすぎる。」
本当に恐ろしいと思ったが、どこか気持ちが軽い。
興味が無いと言われたことで、少し楽になったのかもしれない。
「よく、逃げずに立ち向かえたね。」
ずっと黙っていた花野井が聞いてくる。
「まあ、怖かったけど、彩華が向かったのに、俺がいかない訳にはいかないだろ。」
「でも、あいつは何も知らないじゃん。」
「そうだけど、俺はただ─」
俺は少し遠くを見て、過去のことを思い出しながら言う。
「2回も妹に助けられたくないんだよ。あの時、お前もすげー泣いてたしさ。」
そう言うと、花野井は少し恥ずかしそうにしながら黙り込んだ。
今日はやけに静かだ。
「・・・変わったね、ケンは。私は、何も変わってないのに。」
「それってどういう─」
聞こうとしたところで、花野井は校舎の方へと戻って行った。
「なんだ、あいつ。」
よく分からないが、とりあえず、ひとつ大きなトラウマを乗り越えた。
正確にはまだ完全に克服した訳では無いが、十分だろう。
これで、ようやく向き合う事が出来る。
そう、今まで知らぬフリをしてきた気持ちに。




