第23話②
「はい、水」
「・・・ありがとう」
変な女から逃げた後、私は絢士郎を連れて保健室に来た。
先生はいなかったけれど、鍵は開いていたため、とりあえず絢士郎を休ませる。
絢士郎の手は震えていて、顔色も悪い。
こんなにも弱っている兄を私は見た事がない。
「大丈夫?落ち着いた?」
いつもなら恥ずかしくて悪態しか出ない口から、心配の声が出る。
普段からこれくらい素直なら、絢士郎に呆れられないのに。
「ほんと悪いな、取り乱して。」
少し落ち着いた絢士郎は、無理をして表情を作っている。
「私はいいけど。あの女なんなの?何て言うか、その…」
すごく気持ち悪くて、不気味な人だった。
見られているだけで体が萎縮するような感覚だった。
「・・・お前には関係ない人だよ。」
「そんなので納得すると思う?」
あの女を前にした時の絢士郎は普通ではなかった。
声は震えていて、銅像のように動かなくて、いつもは物事を上から見ている余裕を感じさせる絢士郎なのに、あの女に手玉にされていた。
まるで、子供のように。
「・・・そろそろ面談の時間だろ?俺は大丈夫だから、早く行け。瞳さんを待たせる訳にもいかないだろ。」
保健室に入って、既に15分ほど経過していた。
後数分で私の面談が始まる時間だ。
心配な気持ちはあったが、ここに居ても何も出来ないので、私は保健室を出る。
少し足早に教室に向かおうとすると、花野井の姿を視認する。
向こうも私に気づき、目が合う。
「・・・その、ケンは?」
近づくと、弱々しく話しかけてきた。
いつもの堂々とした態度はどこにもない。
「ちょっと体調崩して、保健室にいるけど?」
「そっか…ごめん。」
そう言って花野井は保健室の方へと歩いて行く。
「ごめんって。何に対して?」
私は言葉の意味が分からず首を傾げた。
三者面談が終わり、保健室に戻っている時、階段を降りるさっきの女を見かけた。
「ごめんママ!先に保健室行ってて!」
「ちょっと!彩華!」
私は急いで追いかける。
靴箱まで降りてきたが、既にその女の姿はなく諦めかけた時、門の方へと歩いて行く女の姿を見つける。
私は靴も履き替えずに外に飛び出した。
「あ、あの!」
走って追いつき、声をかけると、女は動きを止めて、こちらに振り返った。
「あら?あなたはさっきの…何か?」
あの変な女とは思えないほど穏やかな表情だった。
その事に驚いたが、私は言葉を紡ぐ。
(次は、私の番だ!)
助けてくれた兄に、今こそ恩返しの時だ。
「その、あなたに会ってから、絢士郎…兄の様子がおかしくなって、だからその、あなたとどういう関係かは知らないですけど、今度からは、関わらないようにしてくれないかなって、思って…」
事情を知らない者が聞けば、一方的すぎる要求だが、私にそう言わせるだけのおぞましさが目の前の女からは放たれていた。
実際、絢士郎は弱っていた。
私にとっては知らない人だが、絢士郎にとっては苦手な人なのだろう。
絢士郎が言えないなら、私が言う。
無関係だからこそ、何も考えず発言出来る。
勇気を出して言葉を放ち、私は顔を上げて、さっきの絢士郎のように固まった。
見ず知らずの人間から嫌な事を言われたはずの女は、笑っていた。
まるで、愛おしい何かを見るような目で私を見ていた。
「あなた、いいわね。」
女が喋り出した途端、纏う空気が変わった。
何も知らない私からも優しそうな人から、狂気じみた異常者に見えるほどに変貌した。
「大好きなお兄ちゃんのために、怖いけど知らない私に勇気を出して進言したのね。とても勇敢ね。でも…自信がないのね。目が揺らいでいる。」
そう言いながら、女は近づいてくる。
私は動けず、ただ女の目を見ていた。
女は私の目の前で止まり、私の頬をなぞってきた。
「あなた、自分に自信がないのでしょ?まるで昔の私みたい。あなたの目、嫌いじゃない。」
女はさらに1歩近づいてきて、私はようやく後ずさる。
「あんたに好かれたって、嬉しくないわよ!」
一度動けたことで、何とか声を出せた。
しかし、女は動じない。
「あんた、マジで絢士郎のなんなの!?」
そうぶつけると、女はより一層笑みを深める。
「私は、彼の─」
「彩華!」
女が言いかけた時、後ろから声が聞こえた。
振り向くと、絢士郎が息を荒らげていた。
急いで来たのだろうか、汗もかいている。
その後ろには花野井とママも居て、ママは何の事かあまり分かっていない様子だ。
「絢士郎!?体は?大丈夫なの?」
「まあな。お前の方こそ、何もされてないか?」
珍しく本気で心配している様子だった。
普段なら喜んでいたかもしれないが、正直、恐怖から解放されて安堵が先行した。
「・・・瞳さん、彩華連れて、先に帰ってください。」
「でも、まだ絢士郎君の面談が─」
「俺の方から担任に言っておきます。彩華が相当疲弊しているので。」
「そ、そう?なら、そうさせてもらうわ。」
私は残ろうと思っていたが、想像よりも緊張で疲れていたのか、あまり抵抗する力はなく、花野井が持ってきた外靴に履き替えてその場を後にする。
去り際に見た絢士郎の背中は、1年ほど前に見たママを支えるお義父さんの頼れる背中によく似ていた。