第19話②
あの瞬間のことは、今でもはっきりと思い出せる。
口の中に異物が入ってくる感触に、目の前に迫る義母への恐怖。
動けず、ただされるがままに固まることしかできなかった。
考えてみれば、この事件から俺の中の『家族』が壊れたのだろう。
その後の事は、あまり覚えていない。
親父が大慌てで帰ってきて、義母にあたる女を怒鳴りつけていた気がする。
義母の顔は思い出せない。
ただ、隣で座る義妹が辛そうに泣いていた事は覚えている。
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目を覚ますと、自分の部屋のベッドで横になっていた。
バイト中に気分が悪くなり、休憩したものの体調が戻らず早退したことを思い出す。
時刻は午後6時前で、かれこれ3時間ほど眠っていたようだ。
嫌な夢を見たせいで、寝覚めが悪い。
微かにだが、体が震えていた。
「・・・最近は、平気だったんだけどな。」
当初は酷いもので、手が少し触れただけでも震えたものだ。
この1年はそんなこともなく、克服できてきたと勘違いしていた。
「・・・トラウマのひとつも克服できないなんて、だせぇな。」
震える手の平を見ながら自嘲する。
喉が渇いていたので、リビングに行くと、瞳さんが夕飯の準備をしている。
俺が起きた事に気づき、話しかけてくる。
「絢士郎君、起きたのね。気分はもう大丈夫なの?」
まるで本当の母親のような口ぶりで聞いてくる。
(気持ち悪いな。)
自然とそんな思考が浮かんだ。
最近はマシだった家族への嫌悪感が戻っていた。
「はい。心配かけてすみません。」
悟られぬように笑顔を取り繕う。
「いいのよ。私達は家族なんだから。」
夢に出てきた女も、同じ事を言っていた。
途端に、家の居心地が悪くなる感覚がした。
「すみません。今日は夕飯いいです。」
「え?絢士郎君!」
瞳さんは勢いよく飛び出た俺に驚き、声を上げている。
俺はリビングを出て、玄関に向かう。
今は無性に家から出たい気分だった。
「何?どうしたの?」
騒ぎを聞いて彩華も部屋から出てくる。
「別に、ちょっと出かけてくるだけだ。」
「体調悪いんじゃないの?」
彩華の疑問は当然だ。
バイトを早退してきたなら、今日はゆっくりしておくべきだろう。
けれど、今はこの家には居たくない。
「もう平気だし。ちょっとだけだから」
そう言って出ようとする俺を瞳さんが手を掴んで止める。
「平気なようには見えないわ。悩みがあるならお母さんに相談しなさい。」
「・・・すみません。」
俺は強引に手を払い、外に出た。
瞳さんが本気で心配してくれているのは分かっている。
けれど、手の震えは止まらない。
ずっと、あの女の笑う顔が頭から離れない。
「・・・何がお母さんだ。」
特に目的地もないまま、俺は1人歩き始めた。
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「ふう」
以前、花野井が居た公園のベンチで飲み物を飲みながら一息つく。
少しずつ落ち着きを取り戻した俺は、さっきまでの自分を嫌悪する。
「瞳さんに、謝らないとな。」
瞳さんとあの女は別人なのに。
義母というだけで、重ねてしまった。
「あれ?ケンティー?」
俺の事をこう呼ぶ人間は1人しかいない。
顔を上げると、笹川が近い距離で顔を覗き込んでいた。
驚いた俺は、少し仰け反る。
「さ、笹川!?」
「何してんのこんなところで。体調は?もういいの?」
「ああ。気分はだいぶ。悪かったな。バイト早退して。」
「いいよ別に。今日は暇な方だったし。」
あっけらかんと笑う笹川に早退してしまった罪悪感が薄れる。
「笹川は?家こっちじゃないだろ?」
「実はケンティーのお見舞いに来たんだよねー。マスターに住所聞いて。」
そう言って手に持っている袋を見せてくる。
中にはスポーツドリンクやゼリーなどが入っていた。
「わざわざ悪いな。」
「気にしないでいいよ。それより、何かあったの?元気ないけど。」
隠していたつもりだが、顔に出てしまっていたようだ。
笹川には申し訳なさがあり、正直に話すことを決める。
「ちょっと、昔のこと思い出してさ。」
「それって、嫌なこと?」
「まあ、トラウマだな。」
「バイト中に気分が悪くなったのも関係してる?」
「そうだな。ちょっとは。」
笹川は黙って、俺の隣に座ってくる。
「よし!じゃあ、遊びに行こう!」
「は?」
暗い雰囲気に似合わない軽い声で笹川は言った。
思わず聞き返してしまう。
「辛いことがあった時は、楽しいことで忘れるのが1番!だから、遊びに行こう。」
「いや、そんな極端な…」
「極端でもなんでもいいじゃん。あ!そうだ!ついでにりっくんと黄名子も呼んで、この前言ってたサポートも同時にしちゃおう!」
「そうと決まれば」と言って、笹川は予定を立てだす。
心底楽しそうにしている笹川を見て、笑ってしまう。
(確かに、いつまでもクヨクヨしてらんないか。)
「陸斗なら今週末は空いてるって言ってたぞ。」
「オッケー!黄名子もその日は行けるって言ってたはず。一応みゆうにも聞いてみる。」
「いや、悪いけど花野井は外してもらっていいか?」
「なんで?」
もし花野井と一緒に居れば、嫌でもあの女がチラつく。
花野井には悪いが、気晴らしのための遊びが意味を無くす。
「ちょっと、今気まづくてな。」
適当な理由をつけたが、笹川は特に気にする素振りもなく了承してくれた。
陸斗と和道にも連絡をつけて、今週末に遊園地に行くことが決まった。
「いやー楽しみだねー!」
「だな。」
「それじゃあ、ケンティーも元気になったし、私も帰るよ。」
「もう遅いし、家まで送る。」
そう言うと、笹川は「じゃあお言葉に甘えて」と言う。
ベンチから立ち上がり2人で並んで歩く。
気を使っていたのか、笹川は終始世間話を続けていた。
俺はそれに対して相槌を打つだけだったが、笹川が黙ることは無かった。
笹川を家まで送り届け、1人帰路に着く。
手の平の震えはいつの間にか止まっていた。