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17 ホーム

 結局、困ったときには家族頼みなのだ、と実家の前に佇んでシンイチは思う。

 見た目はごくありふれた住宅地の一戸建て。シンイチの誕生を機に建てられたもので、彼の記憶はこの家から始まる。例えスイートでなくてもホームはホーム、たった一つの、我が家。陽が翳っているせいか、晴天の下なのにそれは陰鬱に見える。ガレージは空で、土曜だというのに、また父親は出かけているらしい。

 運転免許を取得してはいたが、生活圏内の公共交通機関が充実していることもあり、身分証明以外では使用したことがないシンイチとは対照的に、父親は移動はほぼ全て自家用車でという人間だ。子供の頃は、家族旅行も全て車で出かけたものだ。当時は大きなファミリーカーで、キャンプ場などにも連れて行ってもらった。ありふれた、しかし幸せな家族だった。それが――

 隣家の扉が開いて、中年の女性が出てきた。ほんの数年ぶりのはずだが、懐かしい気持ちで笑みを浮かべたシンイチが隣家の門前に立っているのに気づいたその家の主婦はぎょっとした表情を浮かべ「あらあら、まあまあ」と呟きながら家の中に戻ってしまった。シンイチが物心ついた時からのお隣さんで、面倒見のいいおばさんだったのだが。今の自分は、そんなにみすぼらしい外見をしているのだろうか。首を捻りながら閉ざされたまま動く気配のない隣家のドアから目を離し、シンイチは実家の門をくぐった。

 玄関のドアが施錠されていたので、上着のポケットからキーリングを取り出して開けた。それがアヤからの誕生日プレゼントであることを思い出し、封印していたいなまめかしい白い肉体がまた浮かび上がってきた。他の男が絡みついた、かつての恋人の姿。ああそうだな、確かにいい女だった。誰だって見とれるだろう。なぜ自分一人のものにしておけると思ったのか。

 トーマの言う通り。あんな女はさっさと切り捨てるに限る。

 三和土に脱いだ靴の踵を揃えて振り向くと、達磨のようなものが立っていた。


「お兄ちゃん」


 シンイチは反射的に視線を逸らして妹を直視しなくて済むようにしていた。すえた臭いに胃液がせりあがってくる。できれば不在であってほしかったが、そんなわけがない。引きこもりなのだから、いつだって家にいる。だったら自分の部屋にずっと閉じこもっていればいいのに、こんなときに限ってタイミングが悪い。


「母さんは?」

「知らない」

「そうか」


 自室でゲームやアニメにかまけてばかりいるから、部屋の外の出来事には一切無関心なのだ、とシンイチは苦々しく思う。廊下の奥の居間やキッチンは静まり返っている。母が居れば、当然訪問者が誰か確認しに出て来るはずだし、在宅なのに玄関の鍵をかけたりはしない。

 シンイチは息をつめたまま妹の横を通過し、階段を上り始めた。


「パチンコにでも行ったんじゃないかな。抑圧された主婦が憂さを晴らせる場所って、案外少ないよね」


 棘だらけの妹の声が下から追いかけてきたが、シンイチは返事をしなかったし、振り返りもしなかった。声の主は階下に留まっている、それが重要だった。


 就職と同時に実家を出たあとも、シンイチの部屋はそのまま残されていた。階段を上った二間は子供部屋で、手前が兄シンイチの部屋。

 ドアを開けると、正面の窓際に置かれた勉強机の左側――隣の妹の部屋と共有する壁は天井まで届く本棚が占領しており、整然と並んだ背表紙が実家ホームに帰って来たのだという安堵をもたらす。一人暮らしを始める際に、小中学生時代に購入した古ぼけた本をかなり思い切って処分したものの、捨てるに忍びなく物置に放り込んだ分が大きな段ボール箱に三つ残っているはずだ。

 一人暮らしのマンションでは、あまり物を増やさないようにと、電子書籍を購入することが多くなった。それでもいつの間にやら紙の本は増えていくものだが、向こうには控えめな(シンイチの基準に照らせば、かなり物足りない)僅か四段しかない書棚が一つあるだけだ。

 シンイチの蔵書は、新刊書店や古書店から購入したものから成り、値打ちものは恐らく一冊もない。初版本や絶版本といった貴重本を蒐集する趣味はなく、本は日常的に手に取って読むために買うのであり、自宅は勿論、通勤鞄やポケットに入れて外出先に持ち出して読むためのものだ(だが、食事をしながらや脂ぎった手で触ることは例え自分自身であっても許さない)。一旦自分のものとした書籍は、読了後、しばらく間を置いてからまた読み返すことも多く、なかには何度も読み返しているものもある。

 懐かしい背表紙を指先で撫でながら、古本(新刊でも、シンイチが購入した時点でそれは古本だ)の匂いを思い切り鼻から吸い込んだシンイチは、派手なくしゃみをした。

 棚板の上に薄く埃が積もっていた。

 シンイチは怪訝な顔で宙を舞う微小な物質を凝視した。几帳面な母が掃除を怠っているというのが、意外だったのだ。シンイチの几帳面さ、きれい好きは母親譲りだ。

 実家を出てから三年目に入ったが、シンイチは息子がいなくなった家で母親がどのように過ごしているのか知らなかった。新しい趣味でも見つけて、毎日忙しくしているのかもしれない。それならば、不在の息子の部屋を塵一つ見落とさぬ潔癖さで毎日磨き上げるより、よほど充実した日々を送っているのだろう。普段のシンイチなら、何も言わずに掃除を始めるところだった。中学生になってからは、部屋に母親が入るのを嫌がり、自分の部屋は自分で掃除をしていた。特に、本棚の埃を払うところから始めたくて疼いたが、今はその気力がなかった。

 神経が高ぶっていたせいか、入室した時点では気付かなかったが、室内には微かに異臭が漂っていた。長らく換気がされていなかったがための埃っぽさとは別の、不快な臭気。

 一瞥しただけでは普段通り片付いているように見えた室内を慎重に見回してみると、本棚でバリケードを築いた壁の反対側に置かれたベッドには、わずかな乱れがあった。掛布団をめくって、長い髪の毛が一本、皺の寄った白いシーツの上に落ちているのを見て、シンイチはそっと布団を元に戻した。

 かつては、除菌スプレーや除菌シートを家のなかで常に持ち歩き、ドアの取っ手からトイレの便座まで、一度清めてからでないと使用することができなかった。

 勉強机の上も薄く埃に覆われていた。それを指でなぞってから、息を吹きかけて払うと、椅子を軋ませながら腰を下ろした。

 部屋のドアに鍵をかけられたらいいのにと強く願うが、シンイチが切実に懇願したにもかかわらず


「きつく叱ったし、ハルカも反省して、もう二度とあんなことはしないと言っているから」


 と父親が取り付けを拒否したのだ。シンイチ自身が自部屋に籠城し、自らを傷つける行為に走ることを危惧していた可能性もある。

 しかし、あんなことは、一度経験すれば十分ではないのか。どれほどおぞましく、どれほど耐え難いことか、父親も自分の身になって想像してみればいいのに。自分はただ、せめて自分の部屋の中にいるときだけは安全だ、と思いたかっただけだ。シンイチは両手で頭を抱えて固く目を閉じた。

 こんな最悪の日には、もう二度と口にするまいと思っているあの言葉を言ってしまいそうだった。


 頼むから、今日だけはそっとしておいてくれ。

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