10 ジキラゴ(2)
不意に現れた禍々しい魔力に、レイは反射的に杖を頭上に向けた。
「【ダイヤの盾で防ぎきる】――!」
高位の防御魔術を唱える。半透明な盾が出現し、迫りくるモノを防いだ。
レイたちの頭上、なにもない空間の一部だけが真っ黒になっていた。ぽっかりと空いた穴のような闇から、黒いもやのような物体が伸びてきていた。もやは手の形をしていて、人の頭を丸ごとつかめるくらい大きかった。盾に爪を立てるようにして引っかいている。
「うわああああああああああああああああああああああああああ!」
悲鳴が上がる。見ると、もやの手は複数あった。縛られている上級生たちをつかむと、上空に漂う闇の空間に引きずり込んでいった。
「あ、あああ……」
フィルががくぜんとして頭上を見上げていた。手元から赤い光沢が落下した。ショックのあまり、魔石を落としたことに気づいていなかった。
レイは防御魔術に集中しながら、一瞬だけ魔石を見下ろした――魔力がなくなっている。不気味な気配が消えて、ただの石になっていた。
レイたちを狙うもやの手は少しの間、盾を引っかいていた。が、諦めたのだろう。名残惜しそうな動きで上空の闇に引っ込んでいった。
闇がうごめきだす。ゆっくりと地上に移ると影を描くように膨らんでいった。あっという間に形を得て、実体となった。
現れたのは、醜い、人間のような姿をした二足の化物だった。
やせ細った体に、不釣り合いなほど大きな頭が乗っている。顔は醜悪さをつきつめたように不細工で、鼻と耳がとがっていた。格好も不潔で、半裸にボロ布を腰に巻いているだけだった。
引きつった声が上がる。フィルがいよいよ恐怖で腰を抜かしていた。
「あ、あああ、ああああ悪魔……!」
「悪魔じゃないね。ジキラゴはジキラゴって名前ね」
聞こえた声に、レイたちはぴたりと止まった。
「しゃべった」
「ジキラゴはおしゃべりが好きね。よろしくね」
悪魔? は、細長い体を前屈みにして、レイたちを上目遣いに見た。弱々しい、媚びるような仕草だった。
「震えているね。どうしたね?」
「お、おまえが今、あの人たちを連れていったんだろ! どこに行ったんだよ! ま、まさか、いけにえにしたのか!?」
「ジキラゴはこわがりね。人間、好きね。だれも傷つけないよ」
悲しそうな顔で首を振った。
レイは腰を抜かしはしなかったが、動揺していた。
上空に現れた闇から出る魔力は、今はなにも感じなくなった魔石から漏れ出ていた気配に似ていた。まるで塞いでいた蓋が開いて、中身が外に飛び出たかのようだった。
魔石は、悪魔を召喚する物だという。そして悪魔は大量の魔力が集まって生まれる化物だ。
上級生たちを吸収して生まれた? 違う――。
悪魔の口振りからして、新たに生まれたのではなく、別の場所からやってきたように思える。それとも、適当なことを口走っているだけだろうか? どちらにせよ、連れ去られた上級生たちがいけにえにされたのであれば、悪魔は人を……食べている。
おぞましい予想が頭をよぎり、レイはぞっとした。
目の前にいる悪魔の魔力は少なかった。フィルと同じくらいだ。
しかし、悪魔が現れる前、上空を漂っていた闇から放たれていた魔力が急激に弱まった瞬間を、レイは感じ取っていた。
こいつは悪魔で、上級生たちを食べたかもしれない。
「――ジキラゴを殺すの?」
杖を向けようとしたレイの手が止まった。
悪魔が頭を抱えて縮こまっていた。いじめられている子供のようだった。
「ジキラゴ、家族がいるね。ジキラゴが死んだら悲しむよ。殺すのなんてよくないね。ジキラゴは見た目が変かもしれないけど、きみたちと同じね。友達ね」
なんで?
あまりに弱々しい姿に、レイは手を動かせなかった。
悪魔は強いはずだ。人を食べる化物だ。だから、みんなが怖がっている。
弱そうに見えるのは、きっと気のせいだ。
でも、なんで。
わざわざ、弱そうに振る舞うのだろう?
悪魔が人をだますおとぎ話はある。でも、本気にはしていなかった。
だって、悪魔は化物だから。
悪魔が本当にしゃべれるなんて思わなかった。
悪魔に家族がいるなんて、聞いたことがなかった。
それじゃあ、まるで――。
――人間みたいだ。
「子供は優しいね。かわいいね」
悪魔がおずおずと顔を上げた。大きすぎるくらいのぎょろ目に、呆然とするレイの顔が映った。
「ありがとう。【業火で焼き尽くす】」
魔術が放たれる。紅蓮の炎が廊下をのみこんだ。熱風が弾け、ひびの入った窓ガラスがいっせいに割れた。
「でも、子供は不味いね。魔力がないよ。小さい人はおいしそうだったね。大人かな?」
悪魔――ジキラゴは笑っていた。弱々しかったはずの魔力が、今は荒れ狂う炎のように強くなっていた。
ジキラゴは魔力操作をしていた。自身の気配を弱め、仕草や言動でも弱者を装った。発言はうそで塗り固められていた。
目的は人間の油断を誘うためである。が、ジキラゴは確実に勝てる獲物だろうと同じ態度に出る。理由はなかった。ただの習慣だった。
炎の勢いがおさまっていく。少しずつ前方の景色が見えてきた。
「【ダイヤの盾で防ぎきる】」
レイは立っていた。後ろにいるフィルも無傷だったが、炎の恐怖に耐えきれず気絶していた。
「――――ヒィッ!?」
悪魔の顔が歪む。身動きできなくなっていた。いつの間にかできていた足元の魔術陣の輝きにとらわれていた。
レイは、たしかに動揺していた。ためらいもあった。
しかし、手は動いていた。頭脳は優先事項を達成すべく、よどみなく切り替わった。
フィルを守り、悪魔を祓う。
イメージは完成されていた。
魔力の高まりを感じ取ると同時に、防御魔術を展開。
炎を防いだ直後、レイは自身の魔力を操作した。炎の余波を目くらましに利用しつつ、自身の魔力を最小限まで弱めることで、炎が直撃して弱ったのだと悪魔に錯覚させた。
炎の波が小さくなり、レイの健在な姿が見えた時には、魔術の展開が終わっていた。
「【悪魔を祓う曙光】」
瞬間、弱められていたレイの魔力が跳ね上がった。
魔術陣が輝きを増す。防衛術の最高位なる浄化の力は、展開さえすれば陣の内にいる悪魔を逃さない。
光柱が昇る。悪魔の肉体を根こそぎ消し去ると、あとには気を失った上級生たちが倒れていた。
【悪魔を祓う曙光】は悪魔だけを傷つける。人間には無害な魔術である。
全員の無事をたしかめても、レイの表情は晴れなかった。
「……ごめん」
一人だけが立つ静かな場で、ぽつりとつぶやいた。