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虚の天秤  作者: 榛原朔
三章 吸血憑依

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20-偏食探究所

少女は罪と向き合い、死と向き合い、自分と向き合う。

処刑人である彼女は、間違いなく悪であり、罪人。


それらを真っ向から受け止めた上で……

少女は今、圧倒的な善性を持つ聖人の正義を信じて、邪悪の巣食う洋館の前に立っていた。


「……」


時刻は深夜。洋館の主である老紳士が、いつもほとんど気配を感じさせなくなる時間である。


目の前にそびえ立っているのは、古ぼけていながらも立派な洋館。集落の家どころか、キルケニーにあるほとんどの建物よりも大きく、下手したら城とも形容できるような豪邸だ。


昔からよく訪れる場所であり、ここ最近も泊まっていたその館に、彼女は冷たい表情で足を踏み入れる。

暗闇が染み渡る不気味で広い庭を横断し、呼び鈴を鳴らすことなく玄関の扉を開いて静かに入り込む。


今はここで暮らしている者でもあり、深夜に帰宅したことも何度もあるので、それを咎めるような者はいない。


「……あの子はまだデオンを探しているのかな。まぁ、すべて頼り切るつもりはなかったから、ちょうどいいね」


いつにも増して人の気配を感じない室内で、シャルロットは別行動中の善人のことを思ってつぶやく。


彼女は処刑人だが、殺しはできない。

万が一の場合、きっと何もできなくなることだろう。

たとえ動けたとしても、まともに機能はしないはずだ。


自分でもそれがよくわかっているからこそ、彼女はあの善人を待ちわびていたのだった。


とはいえ、もちろんつぶやいていた通り、最初から最後まで頼り切るつもりもない。まだこの場にいない彼を待つことなく、少女は冷たく静かな廊下を進んでいる。


カツン、カツン……と死の足音が響く。

窓から差し込む月明かりが華奢な少女の体を照らし、神秘的に白髪を煌めかせて瞳を冷たく輝かせる。


誰よりも優しく美しい死神は、館の主が待ち構える食堂に。

唯一人らしき気配のする部屋の扉を、思い切り開いた。

すると、その目に映し出されたのは……


「こんばんは、おじいちゃん」

「は、はい……こ、こんばんは、シャルロットさん」


豪華なシャンデリアの光が消え、暗くなった食堂の中。

リフェクトリーテーブルの奥に座って彼女を待ち構えている、軽装鎧に厚いマントを羽織った老紳士――月明かりに照らされるアルバート・フィッシュの姿だった。


この来訪は、特に予告などしていない。

だが、シャルロットがここにいることを察していたのと同じように、彼も自分を訪ねてくることを察していたようだ。


こんな時間だというのに、まるで驚いた様子を見せずに挨拶を返している。それどころか、真っ赤な飲料が入ったワイングラスを揺らしており、完全にリラックスしていた。


「じゃあ、最後のお話をしようか。なんにも悔いを残さないように、すっきりと全部を終わらせるために」


普段とまったく変わらない彼の様子に、シャルロットも普段通りの態度で椅子に座る。上座に座るアルバートの反対側、入口に近い位置にある端っこの席に。


「そ、そうですね。とても申し訳ないのですが……

ふぅ……少しでも心が軽くなるよう、そうしておきましょう」


黙ってそれを見ていた彼も、テーブルの上で手を組む彼女に応じて口を開く。給仕はおらず、飲み物は出てこない。

血の繋がりがない擬似的な祖父と孫娘は、不気味に紅く輝き出した月明かりの下で、最後の対話を始めた。


「その飲み物、随分と生臭いね。あなたは血を飲むの?」


組んだ手に顎を乗せ、足をぶらぶらと揺らすシャルロットは、一見楽しげにも感じられる様子で質問する。

開口一番、彼の本質をつくようなまったく容赦のない問い。


口調とは裏腹に重い内容を受け、アルバートは悲しげに視線を下に向けながらグラスを揺らす。


「そうですね。これは血のワイン。私は……血を飲みます」


現在、このセイラムという國で起こっているのは、日々横行している処刑とは違った失踪事件。

その成れの果てが、彼女の目の前にはあった。


だが、そのこと自体はもうとっくにわかっていたことだ。

犯行の協力者、賛同者、ある種の現場などを調べ、すべてを理解した上で少女はここに……祖父の前に座っている。


「じゃあ、やっぱりあなたが失踪事件の犯人。

屋敷の使用人や外にいる人達と共に、死体も残さず人を消し去る殺人鬼。目的は……はぁ、食人なのかな。趣味が悪いね」

「はは、は……私自身でも、いつもそう思っていますよ」

「なのに、やめないんだ?」


自分でも趣味の悪さを認めるアルバートに、シャルロットは冷たく鋭い視線で問いかける。食人行為……それは処刑人であるシャルルでさえも、決して容認できないとするもの。


否定してもらえなかったことで、薄っすら光る瞳はより強い覚悟を湛えていた。詰問された彼の目は、暗い空へ。

掲げたワイングラスを通して月を見ながら、紅く変色した世界に微笑み口を開く。


「そう、ですね……私も、やめたいとは思うのです。

しかし、これは私の意思でどうこうできる問題ではない。

アルバート・フィッシュという名が、その本能で食人行為を求めてしまうのです。まるで、憑依されたかのように」

「あぁ、だからこんな事ができてしまうんだね。

臆病なあなたらしくないな、とは思っていたんだ。

ジョン・ドゥを雇うような人間は限られる。

犯行が起きた範囲にもいた中では、あなたくらい。

それでも……性格にそぐわない。あきらかにおかしいなと」


悲しげな彼に、シャルロットはようやく合点がいったという風に目を見開く。


情報をもらった時点で、ある程度疑いの目を向けていたとはいえ。実際に調査することで確定していたとはいえ、微かに血の匂いを感じたことがあったとはいえ。


彼女が幼い頃から見てきた彼は、長年優しくしてくれていた臆病な彼は、決して殺人鬼などではなかった。

泊まらせてもらっている間どころか、こうして対峙している今ですら、そのような人間には見えないのだ。


もちろん取り乱したりはしていないが、予想外の発言で意表を突かれてしまっているのも無理はない。

静かに驚く彼女を見たアルバートは、ワイングラスを置いてゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……一つ、昔話をしましょうか。

私はかつて、この國の外に出たことがあります」

「っ!?」

「いえ……もしかすると、あれは夢だったのかもしれません。眠る私は空を飛び、肉の壁を越え、夢幻を迎えた」

「……夢幻?」


さらに予想外の発言を聞き、シャルロットは今度こそ愕然とする。それも、そこらの一般人が國の外に興味を持ったような、ちっぽけな妄想の類などではない。


むしろ、彼自身は夢かなにかでもおかしくはないと思っているようだが、肉の壁に言及した以上ほぼ確実に事実だ。


とはいえ、だからといって自分の身に起きたことを信じていない、という訳でもないようだった。

一瞬で聞き手に回り、軽く身を乗り出しながら真剣な表情をしている彼女に、少し遠くを見つめて語りかけていく。


「特に、そういう用語がある訳ではありません。

ただ単に、私がそう感じただけのこと。自分と世界の境界がどこか曖昧に感じられ、夢か幻のように揺蕩う視界。

まるで、宇宙に引き寄せられる牛のような気分でした」

「また、宇宙……」

「ははは、私はジル・ド・レェほど支配されてはいません。

あそこまでいくと上書きの類ですが、私のは憑依に近い。

だからこそ、こうして自分を保てているのです」

「それで、あなたの食人行為は……」

「えぇ。私は國の外で、とある科学者の前に出されました。

打ち込まれたのはどのような薬品だったのか……

どちらにせよ、私はそれ以降人肉を好むようになった」


前回、シャルルだった彼女は國を囲む肉の壁についての情報を耳にした。そして今回、シャルロットである彼女は、國の外に広がっている世界についての情報を……


「私が主犯になっているのは、立場によるものです。

以前から、この國には食人主義者が生まれていた。

肉と共に血をすする我らは、まさに吸血鬼」


彼女の思考を遮るように、アルバートは唐突に立ち上がって言葉を紡ぐ。その目は既に心優しい祖父のものではない。


変色した月と同調するように紅く染まり、その歯は血を欲するようにキラリと輝く。軽装鎧に身を包んだ若々しい老紳士は、紛うことなきヴァンパイアとして立っていた。


「……ふぅ。お話は終わりかな、アルバート・フィッシュ」

「えぇ、そのようです。シャルロット・コルデー」


瞬間、食堂の窓は粉々に砕け、外からは複数の人が――吸血鬼が降ってくる。空を染める紅を呼び込むように、この洋館を血に染めてしまうように。


だが、降ってきたのはヴァンパイアだけではなかった。

彼らよりもさらに上。悪を弾圧するかのような位置からは、館の屋根を突き破ってギロチンが降ってくる。


それは、屋根を突き破ってもまったく勢いを衰えさせることなく、テーブルを叩き割っていく。

空には下僕のヴァンパイア、下には主と処刑人。

中央に突き刺さったギロチンを挟んで、彼女達は対峙した。




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