17-水面の安らぎ
「ぶくく、ぶくくく……」
魚達が泳いでいながらも、湖底が見通せるくらいには綺麗な湖の中で。妙に大きなボートを頭上に、白髪の少女は愉快に無数のあぶくを立ち昇らせる。
ここは、シャルルが何度か気晴らしに訪れた湖。
毎回モーツァルトと遭遇する、おかしな縁のある場所だ。
しかし、既に水中にいるのだから、今回は彼のように湖畔に来たりボートに乗ったりしているだけではない。
失踪事件の調査をしているはずのシャルロットは、いくつもフリルの付いた間違いなく可愛い部類の水着を着て、ご機嫌に泡や水そのものと戯れていた。
まだ春先で寒いのに、魚を追って右へ左へ湖底へと。
かと思えば、自らが生み出したあぶくを追って上の方に。
長く揺らめく白髪は、同じように白くきめ細やかな肢体は、人魚のように自由自在な動きに美しく舞っている。
「ぷはぁっ!」
いくら身体能力が高い処刑人とはいえ、息が無限に続くことはない。随分と長い間綺麗な長髪を揺蕩わせていた彼女も、やがて息が苦しくなって湖面に顔を出す。
すると、開けた視界に飛び込んできたのは……
「モーツァルト、わたくしを讃える曲を奏でなさいな!
この偉大なる吸血姫に相応しい、荘厳な曲を!!」
「君、指名手配犯だよね? 讃えちゃだめじゃないかい?」
「はいはいお嬢、ぶどうジュース……じゃないや。
新鮮な血のワインありますよ。献上品です」
「おーっほっほっほ、わかっているじゃない!!」
船上にまでグランドピアノを持ち込んで演奏している、黒いスーツにマントを羽織った演奏者――モーツァルトに、演奏を要求するエリザベート。
そして、普通に断られた彼女に対し、血のワインという名のぶどうジュースを渡すトッドの姿だった。
演奏を断られた直後はムッとしていたエリザベートだったが、大好きな飲み物を渡されたご満悦である。
演奏者はそのまま自由に終わらない演奏を続け、自称吸血鬼はパラソルの下に戻っていく。
その近くには、寒いので普段よりも厚着をしているマリーと、相変わらず和服の雷閃もいた。
そう、現在行われているのは、明らかに季節外れの水遊び。
一緒に暮らしているほとんど家族のようなメンバーと、組織の2人、モーツァルトによるボート遊びだ。
湖から顔を出すシャルロットは、騒ぐみんなを見てニッコリ笑うと、船上に上がることなく声をかけた。
「おーい、ほんとにみんなは泳がないのー?」
「シャルちゃんっ! あなたもそろそろ上がりなさい!
こんな季節に泳ぐだなんて、風邪引いちゃうわよ!」
彼女の声を聞いて真っ先に駆けつけたのは、もちろん保護者的な立ち位置にいるマリーだ。
彼女は有り余ったクッキーを食べている雷閃を伴って、船縁から身を乗り出すようにして本気で心配している。
おそらく、返答次第では雷閃に実力行使を頼むことだろう。
今度こそ引き上げようと、目を燃やしていた。
だが、水着まで用意して泳いでいるのに、今さら言うことを聞くシャルロットではない。ぷかぷか湖面を浮かび、白髪をカーペットのように広げながら、その指示を拒否する。
「処刑人がそんな軟なはずないでしょ?
最近は雪も降ってないし、僕は全然平気だよ。
氷海や溶岩の中でも泳げる自信があるからね」
「それは流石に無茶だと思うよ、シャルロットお姉さん」
「うん、まぁたしかにそれは盛ったかな。
でも、ここはほんとに平気。普通に気持ちいいよ」
説得失敗。マリーは雷閃に頼み、無理やりにでも引き上げてもらおうとする。しかし、少なくとも船から見た限りでは、たしかにシャルロットは平気そうだ。
おまけに、すぐに体を沈めてしまったこともあり、無理やりというのはそれなりに危ない。
彼は危険なやり方で引き上げることに乗り気でなく、結局はそのまま放置されることになった。
そんなってしまえば、もうマリーにできることもない。
元より手荒な真似をしたい訳でもないため、諦めたように肩を落とす。
もっとも、当然心配が消えることはないので、隙さえあれば引き上げようと目を光らせてはいるのだが……
シャルロットのことなので、隙を見せることはないだろう。
状況は停滞し、1人おかしなボート遊びは終わらず続く。
「ん〜♪ 遂にボート遊びをすると聞いて、とてもワクワクして来たのに泳ぐとはねぇ。いやはや、なんてクレイジー。
まぁ、約束してたのはシャルルだったから、別にいいけど」
「マジでなー。感性とかはまともに見えてたけど、他の感覚がおかしくなっちまってるぜ。マシュー達とは違った意味で狂ってる。やっぱ処刑人はみんな狂ってるんだな。
ほんと、頭おかしいよこいつ」
「わたくしは別にいいと思いますわ。
寒さを吹き飛ばすような可愛さ……もはや芸術的ですもの。
仮に寒さで震えていても、それはそれで……うふふ」
「さっすがお姉ちゃん。失言王はあとで覚えててねー?
というか、今から行くから動かないで?」
「ひっ……さ、最後の発言聞いても俺なのな!?
わ、悪かったよごめんなさい!!」
演奏の音色は止まらない。湖のさざ波に合わせるように、曲は冷たい風に乗って世界を揺らしていた。
そんな中で、モーツァルトに同意しすぎたトッドは、湖面にぷかぷかと浮かぶシャルロットに脅されて震え上がる。
エリザベートはサディスティックな面を見せているのだが、やはり怒られるのは彼だけだ。
ざばんと湖の中から上がり、ボートに乗り込んできた彼女に肩を掴まれると、そのまま水中に引きずり込まれていく。
ちゃんとマリーに整えてもらっているものの、いきなり髪を切られた怒りはまだ収まっていないようである。
彼女がだめにした隠れ家の倉庫は、実際にはいくつもあって一つくらい問題ないこともあり、まったく容赦がない。
ほとんど抵抗を許さず、あっという間に湖に引きずり込んでいく姿は、そういう類の妖怪のようだ。
「は〜い、寒中水泳に一名様ご案内〜♪」
「やめろぉぉぉッッッ、やめてくれぇぇぇッッッ!!」
抵抗虚しく、トッドは冷たい湖の中へ。
冬の名残が色濃く刻まれた凍てつく水で体が固まり、苦しげにもがき始めた。
「あっぷ、あっぷ……さ、寒い……!!
体が硬直して、動かねぇ……!! た、助けて……!!」
「ダイジョウブ、君も組織の一員だ。ファイト☆」
「こっちはお前みたいに感覚おかしくねぇんだよぉッ!!」
「じゃ、僕は一旦上がるね。うるさいから」
「こんのッ……!! 最悪だァ、処刑人この野郎!!」
「僕は女の子だから、野郎じゃないんだ。殺しもしないし。
ほんと、マシュー達なんかと一緒にしないでよまったく」
もがくトッドを見捨て、シャルロットは再びボートの上に。
本気で心外だとでも言うように肩をすくめながら、長い白髪をかき上げる。
「シャルちゃん、やっと上がってきた!
はい、ちゃんとタオルで体拭きなさいね。
体が冷えたままだと、風邪を引いてしまうわ!」
「んー……寒くはないけど、まぁ乾いてる方がいいかな」
ようやくちゃんと上がったシャルロットの元に駆けつけるのは、もちろん大きなバスタオルを持ったマリーだ。
彼女はびしょ濡れの幼馴染みにタオルを押し付けると、近くのケースから温かい飲み物を取り出す。
これまた拒否する理由はないので、ふかふかのタオルで体を拭いているシャルロットは、素直に受け取っていた。
「本当に大丈夫なんだけどなー」
「でも、今は大事な時でしょ?
気晴らしは良いけど、万が一はあっちゃだめだよ」
「うん? 別に、ただ遊びに来た訳じゃないけど……」
ボートに揺られながらくつろぐ雷閃の言葉に、シャルロットは甘い紅茶を飲みながら首を傾げる。
その返答を聞くと、ぼんやりと座っていた彼も不思議そうに首を傾げた。
「そうなの?」
「まぁね。……ちょっと、頭を冷やして情報整理したいなって思ったんだ。あと、どうせ次の事件を待たないとだし‥」
「お、お嬢ーっ!! 助けてくれー!!」
船上の2人が失踪事件について話していると、湖からは落ちたトッドが助けを乞う叫び声が聞こえてきた。
もう寒さが限界なのか、若干水を飲んでいる様子のかすれた声はなりふり構わず同胞を呼ぶ。
あまりの声量に、彼女達の話し声は遮られ、パラソルの下で足を伸ばしていたエリザベートも反応せざるを得ない。
眉間にしわを寄せながらも、渋々体を起こして問いかける。
「はい? なぜわたくしがあなたなど‥」
「おっと、まさか助けられないなんて言いませんよね?
偉大なる吸血鬼ならば簡単なはず……もしや嘘だったり‥」
「おーっほっほっほ!! わたくし、最初からシャルには泳ぐと聞かされておりましたので、水着は装着済みですわーっ!!
正統な血を引き継ぐ偉大なる吸血姫たるわたくしが、愚かな雑用係を見事助け出してみせましょう!!」
直前までちゅうちゅうぶどうジュースを飲んでいた彼女だが、吸血鬼であることを否定されかけているとなれば、そうはいかない。
まるでマントだったかののように、一瞬でいつものゴスロリワンピースを脱ぎ去ってしまう。
すると、その下から現れたのは、やはり赤と黒を基調としたどこか禍々しさを感じさせる競泳水着。
一転して活発に動き始めた自称吸血鬼は、太陽の下で普通に船縁に立つと、迷いなく飛び込み体勢に入った。
「誰が愚かな雑用係じゃ、年下のくせに!!」
「とうッ!!」
飛び込みの音は、その手の競技で選手だったかのように微かだ。トッドの救出という、本来の目的を忘れてしまった様子の彼女は、優雅に飛び込んだ後悠々と泳ぎ始めた。
「でも、流石にもうちょっと真面目に整理しようかな。
あの子もそろそろ落ち着いただろうし……」
湖の中で組織の2人が騒ぎ出す中、船の上では可愛らしい水着を着た少女がニヤリと笑う。
瞬間、明らかに何かを企んでいる彼女は、既に拭き終わって服代わりのように体を隠していたタオルを放り投げた。
露わになるのは、タオルで隠す前もずっと水中にいたことで隠されていた、スレンダーだがたしかに女の子らしい肢体。
だが、その体に宿る意識は女性の人格であるシャルロットではなく……
「ぎゃあぁぁぁ!? なんつー格好の時に起こしやがるんだ、シャルロット!! こんなん、ほとんど下着じゃねぇか!?
こんな貧相な体を晒して、誰に特があるってんだよ!?」
男性の人格である、シャルルだった。
しかし、彼が隠すこともできないその格好について、必死に腕で体を抱くように覆いながら文句を言うと……
「はあぁぁぁっ!? 自分の体なのに何てこと言ってるのさ、シャルル!! これ水着なんだから、変なことを言わないで!!
あと、貧相じゃなくてスレンダー!! 完成された美しさ!!
男装でも正当に可愛いのも何でも着こなせるんだから、世界が僕を称賛するに決まってるじゃん!!」
すぐさまシャルロットに人格が戻り、今度は彼の文句について文句を言い始める。
真面目に情報整理をするとは何のことだったのやら。
彼女の人格はコロコロと入れ代わり、延々とお互いに文句を言い続けている。
そんな様子には目もくれないモーツァルトの演奏が、絶えず響いている中。妙に大きなボートの上にいる水着姿の美少女は、男性的、女性的に自分と口論を。
湖の中にいる組織の2人は、プロ並みのフォームで泳ぎながらギャーギャー騒いで口論を。ボートを境目にした上下どちらにも、ひたすらにカオスな空間が広がっていた。




