全てが変わった日
今日も今日とて、早々に一人の青年は授業の終了と同時に荷物をまとめて駆け足で飛び出す。
大事な予定、何よりも優先させるべき用事。後ろの方で友達が何か叫んでいたような気もするが、今彼にそれを聞く耳は備わっていない。一目散にある場所へと向かう。週に二日の贅沢。
大学生の彼にとっては、勉強とバイトが生きていくために優先度が高い。その次に高いのがこれから向かう場所。
列の出来たバス停、バスが丁度着いたときに列の最後尾に着いた。
寒くなった時期とはいえ動けば、ましてや走ったりなんてすれば暑くなるし息も上がる。
バスの停止と共に乗り込む人の列に並んで呼吸を整え、逸る気持ちを抑えて行き先をもう一度確認して乗り込む。それなりに人が並んでいたはずだが空いていた席に身体を滑り込ませた。一息吐く。
ワイヤレスのイヤフォンをリュックから取り出すと耳に着けて、スマホで曲を探す。探している途中、視界の端に見えた動くものに気が散る。そちらを見ればゆっくりと乗車しようとしているおばあさんの姿。耳に着けたイヤフォンを片方外して席から立った。
「おばあちゃん席、どうぞ」
「ありがとうね」
ゆっくりと座るのを確認してからイヤフォンを耳に着けて少し離れた場所に立つ。
この後の事を考えればそれぐらい、彼には何ともなかった。
好きな曲を聴きながら、流れていく景色を眺める。時より確認する次のバス停の表示。
どれぐらい経っただろうか、やっと目的の場所のバス停が表示されボタンを押す。もうすっかり見慣れた景色が見えてきてバスが停車して直ぐに降りた。
バス停から少しばかり歩いた場所、自然と早くなる足。しかし、そのお洒落な扉に手を掛けるのは今一度彼には深呼吸が必要だった。
「いらっしゃいませ」
がちゃりと、扉を開けばドアベルが軽やかな音を立てて店員が迎えてくれる。
喫茶『Luce ‐ルーチェ‐ 』
ゆるっとした白のワイシャツに黒のロングサロンエプロン、明るい茶の髪の店員は少し気だるめだが扉の音に気付けばすぐにメニューを抱えやって来た。
「お客様、一名でしょうか? 席はカウンターとテーブルございますがどちらが宜しいですか」
「っ、ひ、一人です。窓際のテーブル席で……」
「それではこちらへどうぞ」
うわ、噛んだ恥ずかしい。そんなことを思って内心悶えている青年を他所に席に案内してくれた店員はメニューを置いて一礼すると一旦離れていった。そして、直ぐに良く冷えた美味しい水と温かいおしぼりを一つ青年の前に置く。
「メニュー決まりましたら、こちらのベルを鳴らしてください」
「あ、じゃあっすみません、えっと……先にホットコーヒー一つ、ミルク多めと砂糖多めにください」
「ホットコーヒーひとつ、ミルク砂糖多めですね。畏まりました、少々お待ちください」
甲を返そうとした店員を呼び止め青年は先に一つ注文をする。ポケットから伝票を取り出すと直ぐにメモをしてカウンターキッチンへと入って行った。落ち着いた少し暗い雰囲気の喫茶店、数人の客の話声とゆったりした音楽のかかった空間。勉強をするのにはうってつけだが、青年の目的はそれではない。
「お待たせしました、ホットコーヒーひとつとそれからミルク多めと砂糖多めです。ごゆっくりどうぞ」
この店員の彼が目当てである。
銀のトレイに乗せられやって来たホットコーヒーが目の前に置かれ、いい香りと共に湯気をたてている。それと同時にふわりと違う甘いような香りが鼻を掠めた。ほんの一瞬。今日頼むデザートが青年の中で決まった。
そんな話は良い。彼が何故先程の店員が目当てであるかが問題だ。
理由は至って簡単、青年の一目惚れ。
よくある話だろう。
少し違うのは、青年は男で店員の彼も男。
一般的になった世の中とはいえ、少数派ではある。元々そんなに居るわけじゃない。
偏見も無くなったわけではなく、少しばかり見えずらくなっただけ。
よく知りもしない他人とあっという間に仲良くなれるのが青年、もとい多神唯月の才能であるがそれは好きな相手には発揮されないようで好きな人を前に上がってしまうことを本人は大変悩んでいる。所謂童t……この話はまた今度にするとして。
初めてこの店を見つけたのは大学に入って一年目の冬。
約一年を大学生として過ごし、皆大学にも友達にも馴染んできた頃の話。
「あの、ごめんなさい……俺、そういう気持ちでは君の事見られなくて……第一に君の事知らないから」
唯月がそう言うと、大体皆目の前で泣いてしまうか走って行ってしまうか気が強い子は一発顔にお見舞いしていくこともある。一緒に来た女子に問い詰められたこともあった。それでも、唯月はどうもしない。彼にとって女の子は等しく可愛く尊いもの、として親に教えられてきたからそこに差異はない。
それ以上は無かった。
「あーあ、また泣かせたのかよ」
「しょうがないだろ、喋ったことも無い子だよ」
「付き合ってみれば変わるかもしれねぇじゃん~」
「勿体ないよなぁ、ホント」
先程の子に呼ばれ離れた友達と合流するなり絡まれる。それも、この約一年の内にパターン化していた。気のいい友達二人だが、結局自分の本心の部分までを話すことまでは出来ていない。何より、試すと言うと言い方が悪いが高校生の頃に女の子と付き合ったことは唯月にもあった。しかし、仲良くは出来てもそれ以上は無かった。それ以上の感情が唯月には湧かなかった。
それについてその頃結論には至らないまま、高校時代をバイトに逃げて過ごした。
誰に対しても、それほどまでの興味を抱くことのなかった今までを思い返して自分には無縁のモノなのだろうとどこか勝手に思っていた。
――――その時までは。
偶然も偶然、疲れて帰りのバスを間違えて乗って気付いたときに慌てて降り次のバスまでの時間を確認するとまだ少し先。どこかに時間つぶせる場所でもないかとスマホで周辺を調べると喫茶店が一つ近くにあるのが分かった。ナビの案内を頼りに少しばかり歩けばすぐに着いた、昔からあるといった風な景観の喫茶『Luce - ルーチェ - 』
扉を開くと綺麗な音色のドアベルとコーヒーの香りが迎えてくれる。
「いらっしゃいませ、お客様一名様で宜しいですか?」
唐突に襲う衝撃。
頭を殴られたとか、雷が落ちたみたいだなんて言われることもあるそれに陥った。
初めてで分からないどうしようもない衝動。
「……お客様?」
「あっ、え……と、ひとり、です」
「カウンター、テーブル席どちらが宜しいですか?」
入り口で固まったまま動かない唯月に、店員は眉を顰め答えを問う為に声を掛けた。
声を掛けられやっと思考が止まっていたのが動き出し、上手く紡げずに言葉というよりも音レベルでの返事をする。
「テーブル席で……おねがいしま、す」
答えを聞いて直ぐに案内するように先に歩き出した店員。その後ろに着いて通されたテーブル席に着くと、店員が手に持っていた綺麗な少し高そうな装丁のメニューが唯月の目の前のテーブルに置かれた。
「注文お決まりになりましたらベルでお呼びください。本日のおすすめは、当店で手作りのプリンを使ったプリンアラモードです」
三つ折りのメニューをそっと捲り、その綺麗な長い指でプリンアラモードの写真を指し言った。
ごゆっくりどうぞ。と最後に言い残し離れていった。
その一瞬が、ごく僅かな時間が唯月にはとても長く感じた。
心臓が痛いほどに脈打っているのがわかる。胸が苦しい。初めての感覚過ぎてそれが何かも分からない。けれども、それが何かは若干の察しは着いた。いつだったかに姉が言っていた、これが初恋とかいう感覚なのだろうかと唯月は席で一人悩む。姉に聞けば分かるかもしれないから、今度聞いてみようとそこで思考を戻す。
声も心地いい音程で、見えた白めの綺麗な長い指。
白いワイシャツに腰に巻かれた黒いロングのサロンエプロンは腰の細さがわかる。そこまで考えて、今自分が考えていたことの気持ちの悪さに頭を抱え唸った。
「お冷失礼します。お注文お決まりになりましたか?」
「っ、あ……あの、さっき言ってたプリンアラモード一つとホットコーヒーを一つミルクと砂糖多めでください」
「畏まりました。ご注文、プリンアラモードひとつにホットコーヒーひとつ砂糖ミルク多めで宜しいですか?」
「はい。だいじょうぶです」
「それでは少々お待ちください」
ポケットから出した紙の伝票にメニューを書き込むと、水を持ってきた銀のトレイを持ち直しキッチンの方へと消えていった。
表情は少ないが、不愛想といった感じではなく寧ろ優しげな雰囲気の不思議な人。
結構な明るい色の茶髪だが白っぽい肌によく合っていて違和感がない。ずっと聴いていたいあわよくば名前をあの声で呼んでもらえたなら、どうなってしまうのだろうかと考えるだけで何も手に着かない。実際は本人を目の前にしたら唯月は言葉が上手く出てこないため会話は成り立たないであろうが。
待っている間ただ座っているだけではおかしいだろうと、何かしていようと考えるがまともな思考が出来ない今スマホを開いて調べる。
検索結果先を恐る恐る読み進める。
大体出てくるのは、初恋は実らないとか甘酸っぱいとかそんな程度。
いまいち理解は出来なかった。
「お待たせしました、プリンアラモードとコーヒーのホットひとつ砂糖ミルク多めです」
急に声を掛けられ飛び上がった。画面を見られないように慌ててテーブルの上に置くと、それなりに大きな音がして慌てるが店員は一切そちらを気にしている風などなく。
「ごゆっくりどうぞ」
プリンアラモードとコーヒーを並べると直ぐに離れていった。
やっとそこで落ち着いて周りを見てみればアンティーク調の店内は少しだけ暗くて、ゆったりとした音楽がかかっている。それなりに人はいて、でも気になるほどの人数はいない。
「良かったぁ、今日あの人いる日じゃん」
「ねーっ、今日にしてよかったぁ。ここのスイーツ美味しいけど毎日来るにはちょっと高いんだよねぇ」
「でも、そのためにバイト頑張れるっしょ?」
高校生くらいの女子グループのひそひそ声が聞こえてきた。楽しげなその会話、少し混ざりたい気がした唯月はほんの少しだけ耳を傾けた。今日にしてよかったってことは、毎日は居ないんだろうか。
ほんのひと時ではあるが、運ばれてから目の前に放置されていたコーヒーとプリンアラモードを口に運ぶ。口に広がるクリームの甘さと、プリンのカラメルのほろ苦さが丁度いい。でも苦すぎない。コーヒーも口に運ぶ。何も入れないブラックはまだ唯月には早かった。直ぐに砂糖とミルクを入れて口に運ぶと、今度は良く口に馴染む甘さになった。
「でも、この間あの人綺麗なおねーさんと一緒に歩いてたよ~?」
「えーお姉さんだったの!? ウチらで勝ち目ある~ソレ」
「でもちょっと年上だったと思うんよねぇ」
ああ、彼女居るのか。
女子高生のその言葉が頭に響く。
当たり前だろう、あの格好良さで女の人が寄ってこないわけがない。なんでこんなにも勝手に人の言葉で一喜一憂しているのだろうか。また唯月は頭を抱え唸る。
「あー、唯香それちょうだーい!」
「うるさいうるさい、分かったから大きな声出さないで」
やけに大きく聞こえた女の子の声、それはあまりにも聞き覚えのある声にコーヒーの最後の吹き出しかけた。席から少し身を乗り出して見て見れば、やはりその声の主は紛れもない自分の妹の姿。その隣に居るのは良く家に遊びに来る幼馴染の同じく妹の様な可愛い子。確か名前は梨香ちゃん。本当に仲が良いから間違えるはずがない。落ち着いている妹の唯香とは真逆の元気で明るい子。
全部食べ終わり、名残惜しいが妹達と遭遇するのは避けたかった。
妹も思春期。昔はあんなに仲良くしてたのに、いつからか睨まれるわ口も殆ど聞いてくれないわで避けている。何より、今は大学に行くために離れて住んでいる。学校がこっちの方だったのは今思い出した。家は少し遠いはず。大方梨香ちゃんの友達にズルズル連れてこられたのだろう。
考察もほどほどに、唯月は伝票を持ってレジへ向かう。
店員の彼は他の客の所で注文を取っている為、レジはこの店のマスターか何かだろうかといった風体の人にやってもらって店から出た。
頭に浮かぶのはあの人だけ。それと少しの自分の今日の失態。
「……初恋は叶わない、かぁ」
口を突いて出る言葉はポツポツと降り出した雨と共に地面に落ちる。
それが、初めて唯月が自覚をした恋であった。
何となく言葉にしてみてそれが唯月の中で一番しっくりきた。
妹の唯香から家に着く寸前にSNSで連絡がきた。普段一切連絡してこない妹が珍しく、開いて確認をする。十中八九今日の事だろう、しかし本人はこちらに気付いている感じはしなかった。そこには短く一文だけが書かれていた。
『今日何であそこにいたの』
「……気づいてたのかよ」
偶々と返すと、何だかよく分からないキャラクターのスタンプのみ返って来た。
そこで終わるはずだった会話を続けた。
「一目惚れってどんな感じ……?」
我ながらこの歳になって高校生の妹にそんなことを聞くのは兄としてどうなのかと思ったが、消そうとして指が滑ってスマホを落とした。まだ買い替えたばかりで壊すのは困ると慌てて拾い上げて画面の本体の無事を確認すると、画面には先程の文が送信されていて尚且つ一瞬で既読が付いている。
玄関の前、寒くなって来た時間。スマホを見てアパートの一室の前に立っている男はただの不審者でしかないだろう。リュックから鍵を取り出し家の中に入る。
『何それ、妹に聞くこと?』
「いや、そりゃそうですよね。俺だって分かってるけど……」
返ってくるのはいつもの辛辣な感じの物言い。
自宅に着いて力が抜ける。リュックをその辺に投げて重い身体を引き摺ってベッドに倒れこむ。あまりにも今日は疲れた。
やることはあるのに動けない。このまま眠ってしまったらいいかもしれない。
目を閉じた瞬間、手に持っていたスマホが大きな音と振動を立てる。驚いてまた落とした。ベッドの上から床に。寒くなって来たからとカーペットをふかふかな物にしておいて良かったと拾い上げて画面を確認すると、そこには妹の名前がでかでかと表示されている。
また慌てて落としかけたが今度は手から滑り落ちなかった。
通話のボタンをスライドして耳に当てる。
『やっとでた。何あれ、急に何言い出してんの妹に聞くこと? 唯那ねぇに聞けばいいじゃん。大体何で今日あそこにいたの』
耳に当てた瞬間唯月が話すまでもなく唯香が怒涛の問い詰めを繰り広げる。
多神家は女系家系であり、そもそも母が一番強く、その上は御年九十になる祖母がいる。
その為、姉にも妹にも唯月が口で勝てたことはない。
それに比べたらと言っては失礼であるし本人たちに聞かれようものなら袋叩きに合うかもしれないが、その辺に居る女子は可愛いものだ。
そして、電話口の妹は今日何故不機嫌なのかが分からない。
「あ、と……何怒ってんの唯香」
『は?』
「……ごめん、なさい」
『別に怒ってないけど、急に人が遊びに行ってる所に現れるわ変なこと言い出すわ意味わかんないから電話しただけなんだけど。第一何一目惚れって。そもそも、喫茶店来た時変な声出してた……し……はぁ? 兄貴一目惚れってあの店員のお兄さん? 何それ、兄貴が好きなの梨香だったんじゃないの!?』
女は怒らせると怖いし手が付けられない。何より、今回は良く分からないが自分の方が悪いんだろうと唯月は謝る。あまり納得はしていないが。
文句を言いながらだが、不器用な妹なりに少しほんのごく僅かだけ変な様子の兄を気遣って電話をかけてきていたらしいが話の途中で何か察しがついたのか声が大きくなる。頭に響く声にスマホを反射的に耳から遠ざけ離した。
「いや、これが……そうかどうかは分かんない……けど、って何で俺が梨香ちゃん好きだって話になるの? 俺からしたら唯香と変わらないんだけど」
『…………いまさら……ふざけんな、そうだと思ってこっちは……!!』
「え、な、泣いてるの⁉」
電話越しに怒鳴られ、それから小さく鼻を啜る音と共に泣く声。
『馬鹿、馬鹿。馬鹿兄貴ほんとうにきらい、だいきらい。そうだと思って、諦めたのに……近くに居られればいいと思ってたのに、さいてい』
「……唯香、梨香ちゃん好きだったの!?」
『しねばいい』
「そんな直球なディスは流石に俺でも傷つく」
落ち着いてきた妹はぽつぽつと話始めた。珍しく、まともに会話してくれる唯香に昔を思い出す唯月。
幼馴染として育ってきた唯香と梨香。名前も同じ字が付いていて、お互いに本当の姉妹の様に仲が良かった。一緒に過ごしていく内に唯香の中で梨香に対する気持ちが変わって行ったのだという。日増しに大きくなっていく気持ち。
しかし、ある時ふと気づいた。それは可愛い小さな勘違い。
自分の兄と普通に普段通り話しているだけなはずなのに、唯香は凄い違和感を覚えた。
徐々に綺麗になっていく幼馴染が男子に告白されているところを見た。
結局付き合わなかったものの、胸がかき乱されぐちゃぐちゃになっていた。
誰にでも優しい兄。
そんなこと唯香自身分かっていたはずなのに、思春期特有の考えの純粋なる真っすぐさに先走った。
「……楽しそうに話す俺と梨香ちゃんを見て、お互いに好きだと思った……と?」
『だって、その時はそう見えた。兄貴が誰にでも優しいのは知ってるけど、梨香を盗られると思って。話さなくなったし、家で遊ばなくなった』
そんなことがあったのかと、気付いていなかった唯月からすると驚きの話。
急に嫌われたのはただのそういうお年頃なのだろうと、姉も言っていた。
放っておけばいいと。
結果唯香が拗らせていたのだが、一つそこで唯月の中に思い出したことがあった。
あれがいつの話だったかは覚えていないが、唯香が梨香が居るのにも関わらず疲れて眠ってしまった時。
『兄さん、唯香を私にください』
あの明るく天真爛漫という言葉からは凡そ想像の付かないような声。
膝枕で眠っている唯香を見つめながら、黒い髪を撫で言う。
仲良く、幼い時から知っているし唯香の兄であるから“兄さん”っていつしか呼ぶようになっていた。因みに唯那、一番上の姉の事は“姉さん”や“唯那姉さん”と呼んでいる。
『なんて言ったら怒りますか?』
その雰囲気も一瞬。
直ぐにいつもの雰囲気に戻り、にこにこと笑う。
母に持って行けと言われたジュースとお菓子のお盆をその時はさっさと置いて逃げた。
そんな雑用引き受けなければ良かったと、後悔した。
この記憶を唯月の中で擦り合わせる限り、この二人はお互いに好きあっている。そして何より、そんな唯香を隣で見ていて知って居るはずの梨香。やはり女は怖いなと唯月の中で納得がいった。
話が大きく脱線したが、始まりはそんなだった。
それが一年の冬の話。
現在は三年の冬。
忙しいが、それも苦にならない。
二年もの片思いだが、この距離で良かった。
もし、何かをしてこの自分の癒しの時間が無くなってしまったらと考えただけで怖かった。
淡々と仕事をこなしている店員の彼は、本当に淡々と仕事をしているらしく喋っているのも殆ど見かけなければ隙も無い。何より、話しかけることの出来ない唯月にはそれ以上なんてものは望めなかった。
週に二回だけの楽しみだが、居ない日は居ないし固定で出勤している訳ではないらしく居ない日は店の美味しいスイーツを楽しみ勉強をして帰るだけ。
「ごゆっくりどうぞ」
離れていった後ろ姿をちらりと見送ると、薄暗い店内がより暗くなった。
それでも心地いい明りの灯る店内の居心地は良い。
外を見やれば雨が降り始めそうだった。
傘なんて持っていたかとリュックを漁ると、下の方から少しクシャッとなった折り畳み傘が出てきた。
あまり酷くならない内に帰った方が良いだろうなと、スマホでこの後の天気を確認してノートに目を落とす。
「……ん~、はぁ」
ひと段落ついて強張った身体を解すために大きく伸びをすると外は雨が降っている。
予報は当たらなかったらしい、もう結構な雨が降っている。
流石に帰らなければとバスの時間を見れば大体丁度いいくらいの時間だった。今出ればいい感じの時間に着くであろう時間。荷物をまとめリュックに詰めて、財布を取り出し会計の為に入り口横のレジへと向かう。
くるりと店内を見まわすが、あの店員の姿は無い。
集中している間に休憩にでも行ってしまったのだろうか。
また数日後まで来られない。最後にその姿だけ見たかったが仕方ないだろう。
レジにいたのは綺麗な女性で、マスターではなく見たことない人だった。此処で働けて良いな、なんて思いながら二度目の綺麗なドアベルを聞く。
「~~~~~!!」
折り畳み傘を開いて進もうとすると、何かが聞こえた。
喫茶店の横、狭い路地の先から聞こえる。
普段なら気にしないで通り過ぎるだけのところ、妙に気になってその先に唯月は進んだ。
徐々に大きくなる声、少し狭い道。様々な音がするが、一番大きく聞こえるとこまで来て覗くとそこに居たのは金色の髪の高そうなコートを着た女性が誰かに向かって何かを怒鳴りつけている。
よく見るまでもなく、その人はあの店員の人。
「もう出て行って、帰って来ないで!!」
修羅場という言葉が頭を過って、早くこの場から離れようとするとすぐ後ろにあったアルミのバケツにぶつかり倒れるのを止めようとして蹴っ飛ばしてしまった。派手な音と共にこちらに向く視線。
傘もさしていない雨でずぶ濡れの店員の胸倉を掴んでいた女性も、唯月の存在を見ると手に持っていた傘を投げ捨て足元にあったボストンバッグを両手で持ち上げ店員に投げつけると傘を拾い上げ高いヒールとは思えない速さで唯月に向かっていくと泣きながら肩をぶつけ横を通り過ぎて行った。あまりの形相に唯月は女性に怒られるかと思ったし嵐のようだったと、邪魔したことについて何も言われなかったと胸を撫で下ろした。
安堵の中、店員の方を見ると視線が合わさる。
見たことも無いほどに殺気の孕んだ視線。
ぞわっと身体中の毛が逆立つような、背筋に冷たいものが這う感覚。
そしてそれ以上の何か違う高揚感。
「終わったか?」
そんな分からない感覚も一瞬、唯月の後ろに突如現れたマスターの言葉に搔き消えた。
「で、それはお前の荷物ってわけか?」
「だと思いますよ」
「珍しいなお前があんな相手怒らせるなんて、いつもは穏便に終わるじゃないか。一つ前も二つ前も、まだ普通に店に来るだろう」
「……選択間違えただけだ」
傘を差したマスターは煙草を片手にそのまま店員に近付けば、ずぶ濡れの店員の上に傘を傾けた。
屈んでボストンバッグを持ち上げた店員は顔にかかる髪をかき上げ、眉を顰め受け答えをする。通路の入り口でどうにも出来ずに立ち竦んでいる唯月。
「ったく、今度という今度は二階は貸さねぇぞ」
「はぁ!? いつもは貸してくれるじゃないすか!」
「今日はbar開ける日だぞ。お前が寝る場所はねぇ。何より佳介が帰ってくるんだ、余計にない」
煙草を蒸かしながらマスターが店員に告げると、喰ってかかる店員だが最後の言葉に押し黙った。それ以上は言えない理由があるんだろう。誰かが帰ってくるとマスターが言っていた。
「あ、あの!」
「何だまだいたのか坊主」
考えるよりも先に唯月の口が動いた。
マスターの言葉が刺さるが、それでも唯月の口は止まらなかった。
「も、もし家無いなら、その俺の今のアパート狭いんですけど元々ルームシェアしてて! 相手最近実家に帰るって出て行っちゃって空いてるんです。その、もしそれでも良ければうちに来ませんか⁉」
言い切った後に厭に空く間、急にぽっと出の知らないしかも大学生にそんなこと言われても何だとしかならないだろう。
「ぶっ、はっははははは!!」
路地裏に響く低い大きな笑い声が一つ。
「お前面白いなぁ。時々うちに来る大学生の坊主だろう? ははは、これは傑作だな。良いじゃねぇか、世話になって来いよ白」
「何言ってやがんだよくぞジジイ、笑い事じゃねぇだろ!」
「見習いの分際で今何て言った?」
「ぐっ……クソ……」
煙草を近くの赤いバケツに投げ込み笑いからの涙を指で拭い取りながら、それはもう凄い不機嫌ですと言った風な店員の背中を叩く。白ってのが名前なのだろうかなどと考えていると、マスターに文句を言う店員もとい白だったが直ぐに肩を組んで声低く言うマスターに黙った。嫌だと言わんばかりに吐き捨てて。
確かにあのマスターの迫力には逆らえないだろう。
「女の家、男の家色んな奴の所に転がり込んできた奴だがまあ悪い奴じゃない。見ての通り料理にちょいちょいの家事も出来るしな。どうする? ずっとはうちに置けないんだわ、引き取ってくれねぇか?」
「俺は捨てられそうな猫か何かかよ、そもそも誰だよそいつ」
「大差ないだろ、そもそもうちに来たのだって俺が拾ってやったんだろう」
「……じゃあ最後まで面倒見ろよ」
「だから次の飼い主探してやってんだろ。口も目付きも悪いが、こいつの作る飯美味いぞ」
あーだこーだと文句を目の前で言い合っているが、年齢は違えど本当に仲が良いんだろうなといった風な二人に笑いが零れると白に睨まれ口を噤む。
「うちで良ければ、ですが……」
「よし、決定だ。今日はもうbarの用意があるから店終いだ、上がっていい」
「……クソふざけんな」
「はいはい、お前直ぐ風邪引くんだからさっさと着替えて来い。坊主は店内で待たせるからちゃんと出て来いよ」
決して人の作るご飯に釣られたとかそんなことはないと、ましてや好きな人が作ってくれるご飯だからとかそんなことはないと内心自分に言い聞かせる唯月。それを他所に、マスターは白をさっさと裏口から店内に押し込んで扉を閉めた。
ドアが閉まる音と共に訪れた静寂、雨音が聞こえなくなった。
「分かってるだろうが、白はうちで勝手に呼んでるだけの偽名だ。もしかしたら仲良くなれれば本名教えてくれるかもな」
「あ、の……こんなって、自分で言うのも変ですけど、俺みたいなのに……」
「坊主いつもアイツ見に来てただろう? うちに来るのはそれが目当て、違うか?」
「っ……」
「まあいい、それがどういう感情かどうかは置いといて。アイツもまあ見る目がないからな。……二年も何もせずにいた坊主だからちょっとはアイツが変わるかと思ってな」
にんまりとした笑みで問われれば返す言葉なく、だがそんな表情は直ぐに変わった。
「さて、冷えるだろ。ココアなら出せるが飲めるな?」
傘を閉じ唯月の肩を叩くと横を通り過ぎて行った。
夢でも見ているのだろうか、立ち竦んでいると「早く来い」と声が後ろから聞こえてきて慌てて声の元へと向かった。