その時間は悠久にあらず
アフリカの人は時間を有限のものと考えないという意見もあるけど、ちょっとした事で死ぬリスクのある彼らは私達以上に今を楽しく生きているのだ。
時間は誰にとっても平等である。
私は携帯に本文を入力しながらため息を吐く。時間は20時00分過ぎ。朝は降っていた雨は止んでるが、6月中旬のジメッとした空気を感じ、私は少し顔をしかめる。以前勤めていた会社が解散して事業を譲渡したこともあり、会社の同僚先輩共々新しい会社に入社することとなった。一寸先は闇というが、まさか会社が無くなるとは。いや、新しい会社も大企業でいい会社なので、なんなら良い意味でステップアップなのかなとも思うのだけど。びっくりはした。
昼ごはんにシーチキンマヨネーズを3つ食べてから8時間が、経過していた。ぐるぐるなるお腹。帰宅したら妻の特製煮込みハンバーグがあるようなので、買い食いを我慢し、駅に向かう。
私の名前は白蜂 崇34歳。
既婚、子供は0歳女のコ。去年11月に産まれて可愛い次第。目に入れても痛くないけど、最近は風邪の最近を保育園から持ち帰るのが彼女の趣味のようで、妻共々汗水のみならず鼻水も垂らしながら共働きをしている。
電車をホームで待ちながら、時間について考える。
時間は誰にとっても平等である。
それは昔から父からよく言われた言葉だし、おそらく真理の一つだと思う。勉強してても一時間は過ぎるし、漫画を読んでても一時間は過ぎる。仕事をしてても、サボってても時間は平等に過ぎる。
そういえば、昔、蟻の時間と象の時間を比較するような本が流行ったことがあったっけ。誰にとっても同じように時は流れるが、どう感じるかはその人次第だとかそんな内容だった気がするし、そんな単純な話では、なかったような気もする。
そもそもそんなぼんやりした結論を書いただけで流行するなら、私の書く雑文も「今、サラリーマンの、書いた話題のラノベ」みたいに流行るはずだ、間違いない。
何を書いてるかというと、これは私が帰宅するまでの二時間をどう有意義に活用するかという話だ。
時間は誰にとっても平等でも、通勤時間は誰にとっても平等というわけではない。そこのところに気がついてしまった社会人が、ミヒャエル・エンデのはてしない物語のように、果てしない通勤時間の中でつらつらと物語を記載するという、虚実織り混ぜられたライトノベルと苦言と妄想の記録である。
まずは、先日建てることにした一軒家について書いていこうと思う。