5話
「お姉ちゃん、膝に乗ってもいいでしょ」
「アニキずるーい。タマもお姉ちゃんのお膝がいいです」
「え〜。じゃあ順番ね」
人力車に乗り込んだポチとタマが、すかさずリディアに甘え始める。ダニエルはほのぼのした空気の蚊帳の外で、人力車を力いっぱい押して疾走した。
速い。徐々に追跡者たちとの距離が離れていく。
「逃がすか!」
そのとき、曲がり角から飛び出してきた自動車が、人力車の脇腹に激突した。
吹っ飛ばされた人力車は破片を撒き散らしながら地面の上を三回転し、ついに横倒しになって止まった。停止した車から降りてきた運転手が、馬車に近づいていく。
ちょうど近くの喫茶店のテラスで、スーツ姿の男がタバコをふかしていた。男はまだコーヒーの残っているカップに火のついたタバコを突っ込み、席を立つ。
「ボス……」
悠然と歩み寄ってきた男に気づいて、運転手が顔を上げた。
「ネズミを逃がしたな」
男――ハーヴェイ・グロットは、不愉快そうに目を細めた。運転手が震え上がる。
「まあ構わん。泳がせておけ」
「よ……よろしいんですか?」
「どうせ居場所はだいたい分かる。それより……あの、ダニエルとかいう男。あいつを調べろ」
「はっ、はい!」
運転手は背筋を伸ばして返事した。
バラバラになった人力車の車輪が、カラカラと音を立てて回っている。
――同刻、街の地下を流れる下水道。
「さいあく〜……!」
間一髪、工事中のマンホールからそこに飛び込んだダニエルたち。一番最初に着地したダニエルの背中に、リディアが尻もちついている。
「重い……どいて。死んじゃう」
「そこフツー“軽い”って言うところでしょ!」
「え?」
「もういい!」
「お姉ちゃん」
そばに立っているポチがリディアに手を差し伸べる。リディアはその手を掴んで立ち上がった。
「死ぬ……」
「くしゃいです……」
ポチとタマが苦虫を十匹くらい噛み潰したような顔で呻く。
リディアは拳を握りしめて歯噛みした。
「くっそ〜……まさかヒュドラがハーヴェイに雇われてるなんて……」
「……そうだな」
ふと見上げたダニエルの表情が、ぞっとするほど冷たい。その視線はどこか遠くに向けられていた。
「怒ってる?」
「そりゃ怒るだろ! こんなの詐欺だ!」
ダニエルは一瞬でその表情を消し――否、隠すと、小型犬が吠えるみたいに叫んだ。
「この先どうしよう……」
「どーするもこーするもないっしょ、お姉ちゃん。お父さんのこと見捨てんの?」
「殺して奪う。それだけですよね」
「殺しません殺しません。ったく、うちの猛犬猛猫は」
ダニエルが、リディアに迫るポチとタマの頭を掴んで、自分の方に引き寄せる。
リディアは「ダニエル」と呼んだ。彼が振り返る。
「ん?」
「契約内容の変更って、アリ?」
思い切って尋ねると、ダニエルはへらっと笑う。
「いいよ。俺もやりたいことあるし。ただ――」
「ただ?」
「殺しはやらない」
彼はここまで、誰も殺していない。ポチとタマにも殺さないよう指示をしていた。どうやら不殺に何かしらのこだわりを持っているようにうかがえる。
「それがダニエルのポリシー?」
「ポリシーっていうか……そうせざるを得ない、みたいな」
ダニエルは上の方を眺めて、軽く頬を掻いた。
含みのある言い方だ。だが、彼は流れ者の傭兵。余計な詮索はされたくないだろう、とリディアは思った。
「わかった、やり方はあなたたちに任せるわ。改めてお願いします。お父さんを助けてください」
「おう!」
「りょー」
「了解です」
ぺこりと頭を下げたリディアに、ダニエルたちは快く答えた。
「そろそろ疲れたな! 休もう!」
「そだね、おやびん」
「喉がかわきました」
「のんきね……」
……遠足みたいな雰囲気だ。
四人はそこから移動し、マンホールを発見した。
「ポチ、どうだ?」
マンホールに通じるはしごの真下で、ダニエルがポチに声をかける。
「匂いが紛らわしいけど、たぶん外はゴミ捨て場だ。周囲一キロ以内に人はいないよー」
「分かるの?」
「嗅ぐことに集中できれば、偵察でアニキの右に出る者はいません」
タマがドヤ顔だ。
四人は縦一列になってはしごを上った。先頭のタマが軽々とマンホールのフタをずらす。
「はー、臭かった」
「空気がおいしいな、アネキ」
「そうですね、アニキ」
「早く出てよ!」
一番後ろではしごにしがみついているリディアが叫ぶ。
出た先は、ポチの予想した通り、ゴミ捨て場だった。周囲にゴミが山のように積み上げられている。
「ケトルがあった!」
「やったなー、おやびん!」
ダニエルがゴミの中からへこんだケトルを引っ張り出した。彼は公共の水道水でそれをすすぎ、中に水をためる。
「まさか、それでお湯をわかすの?」
「それ以外にケトルの使いみちってある?」
「…………」
ゴミ捨て場の真ん中で焚き火を作り、ボロボロのケトルでお湯をわかす。
ダニエルが持ち物の中からアルミのコップを四つ出した。三つはダニエルたち用で、残りの一つはお客様用。柄でどれが誰のコップか分かるようになっている。
「俺コーヒー」
「ボクはココア」
「タマもココアがいいです」
「あたしはコーヒー……やっぱりココア」
四人はそれぞれ飲みたいものをコップの中で作った。バッグからマシュマロが詰まった袋を引っ張り出したポチとタマが、リディアの袖をつんつん引く。
「あのね、お姉ちゃん。ココアにマシュマロを入れると、とってもおいしいんですよ」
「ボクたちのマシュマロ、わけてあげる」
「いいの? ありがとう」
分けてもらったマシュマロをココアに浮かべた。小さな泡を出しながら、マシュマロが溶けていく。飲んでみると、優しい甘みが口の中に広がった。
ポチのココアをふーふー吹いて冷ますタマを横目に見て、リディアは思わず微笑んだ。
ダニエルは、アルミのコップにマイストローを差し、熱々のコーヒーをチューチュー吸っている。
「ホットコーヒーでストロー?」
「う……うっさいなぁ。変な飲み方だって分かってるし」
ダニエルはストローを隠すように下を向き、リディアを軽く睨んだ。
生ゴミの匂いで嗅覚がおかしくなりそうだけど、温かい飲み物を飲むと、緊張が解けていくのがわかる。リディアはしばらくボーッと真昼の焚き火を見つめていた。
「ねえ、ダニエル」
隣に声をかける。返事がない。
視線をやれば、ダニエルはいつの間にか寝転んで、すやすや眠っていた。枕元に使い終わったコップが置いてある。
「寝ちゃってる……」
「おやびん、緊張しっぱなしで疲れてたんですね」
タマがダニエルにブランケットをかけた。
「緊張してたの?」
「お姉ちゃんだって、危ない目にあったら怖かったり緊張したりするだろ」
ポチが焚き火を崩しながら言う。
あんなに強かったダニエルも、心の奥底で怯えていたのかもしれない。リディアはダニエルの横顔を見つめた。
「ダニエル……ありがと」
ダニエルの唇がむにゃむにゃ動く。
「ママ……だぁいすき……」
ママの夢しか見ないのか、コイツは。
崩された焚き火のように、ちょっぴり温かくなった胸がスッと冷めた。
「それはそうとして超マザコンよね、この人」
「だな」
「わかります」
ポチとタマが真顔で同調する。
あえてダニエルのママのように振る舞う必要はないが、一応命の恩人だ。出しっぱなしのコップくらい片付けてやってもいいだろう。
「あ」
リディアがダニエルのコップに手を伸ばしたのを、ポチとタマがその声で引き止める。
「それ、触んないで」
「え?」
「あとでおやびんが片付けるので、お構いなく」
そう言われては仕方ない。
リディアはおとなしく手を引っ込めた。