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血は固まる前に洗うべきだ



『……初めて…笑ってるとこ、見たんだ。その時』


『………はぁ』

(「初めて見た」ってなぁ……付き纏い始めて何ヶ月目だ?)


『どうしよう、ねえ、………?

 ぼくを試しているだけ、なのかな?それとも本当に…』


『さあ…俺にはなんとも。

 とりあえず、そんなに気にするぐらいだったら見に行けば?隣なんだろ?』

(そんで病院連れてけ)


『そうだけどさ……殴っちゃったし』


『だったら尚更だろ。お菓子でも持って、謝りに行けよ』

(面倒な奴だな全く)


『うん……』


『何でそんな事するのかは、聞いたのか?』

(やれやれ。深夜にこんな電話に付き合って、俺もお人好しだよなー)


『聞いてない…』


『聞けよ。まずはそこからだろが』

(な…何やってんだ?こいつは…俺の忠告を無駄にしやがって!)


『…でも……これ以上、嫌われたくないし…』


『いいか、よく聞け。「お前を試したい」なら、お前の気を引くのが目的なんだから、聞かれて嫌な気はしないと思うし、

 もしそうじゃなかった場合は……嫌われるのどうのって考えるレベルじゃねーだろ?』

(てめぇ……アホか?アホなのか?)


『え?あれっ……

 ………となると、いずれにしろ聞いたほうがいいってこと?』


『ああ』

(多分だけどな!責任は取れないぜ!)






◇◆◇





「………」

 ダイニングテーブルの上に組んだ腕を置いて、頭を乗せた。いつもの事ながら、体がだるい。

 息をするたびに、ひゅうひゅうと壊れた通気口のような無機質な音がする。どうやら風邪を引いたらしかった。

 馬鹿だ、と、呟く気力もない。

 パソコンと、その横に置かれた本棚を見ていると、エロゲがこれ見よがしに本棚に置かれているのが目に付いた。俺が出しっぱなしで、そこら辺の床に積んであった奴だ。嫌がらせに慎二さんが並べたとしか思えない。

 ………何なんだよ、あいつ……

 百歩譲って、本棚に並べるのまではいいとしよう。だが配置が違うのは許せなかった。並べるんだったらきちんとしろと言いたい。

 パソコンの横では、空の携帯の充電器がほこりをかぶっている。そういえば、夕坂さんから携帯電話を返してもらった記憶がない。返して欲しいが、夕坂さんにまた会わなければならないということを考えると気が重い。特に無くて困るわけではないから、言われるまで放っておこうか。

 ああもう、どいつもこいつも……

 咳きこむと、喉に張り付いた痰が絡む。熱があるのか、それとも単に気温が高いのか分からないが、とにかく暑い。冷房がないから窓を開けるしかないのだが、それも億劫だ。


 ただ目を閉じて耐えていると、不意に門扉が開く音がした。からからから、と、控えめに玄関の扉を開ける音が続く。

「ごめんくださーい」

 慎二さんの声が小さく聞こえる。帰ればいいのに、と期待を込めて返事をしないが、期待に反して、ぺたぺたと素足の足音が廊下を通ってくる。薄目を開けて見ていると、リビングとの境の扉がゆっくりと開いて、恐る恐る、といった風情で慎二さんが顔を出した。また何か持ってきたらしく、左手に袋を持っている。

 一体彼は何様のつもりなんだろう。特に用もないのに来やがって。

「え、て…哲、くん?」

 リビングに入った慎二さんは一瞬ぎょっとした顔をしたが、俺が咳をするとほっとした表情になり、持ってきた袋を机の上に置いた。

「び、びっくりした…生きてる………よ、ね…?」

「………」

 生きてます。失礼な奴だな。何だと思ったんだ。

 慎二さんは遠慮も何もなく斜向かいに椅子を引き寄せ、咳き込む俺の顔を覗き込んだ。背中をさすられると、少し楽になったような気がする。

「あーあ…風邪引いたか……」

 ええそりゃそうでしょうね雨に濡れて何時間も外に座っていれば当然でしょうよ。あなたは確かに忠告しましたとも。俺は馬鹿ですとも。笑えばいいでしょう?

 慎二さんが苦笑して、俺の額に手を当てる。自分の額にも手を当てて、それでも分からなかったのか、「ちょっとごめんね」と、互いの額をくっつけた。馴れ馴れしい奴だと思うが、もう抵抗する気も起きない。うつっても知りませんから。顔に触れた眼鏡のフレームが、冷たくて気持ちがいい。

「熱…あるね。大丈夫?」

「ん…」

 小さく頷くと、頭をゆっくりと撫でられた。昨日洗っていないせいで、後頭部の傷口付近の髪の毛が血で固まってしまっている。洗えば落ちるだろうか。だが今は、風呂に入るほどの気力はない。

 好きで伸ばしているわけではないので、短くしてしまうことそのものは構わなかったが、他人に自分の髪の毛を触らせることが嫌だった。だからと言って自分で切れるわけでもないのだが。

「あの、さ……」

 血で固まってしまった部分を触りながら、慎二さんが呟いた。

 焦点の定まらない目で見上げると、また泣きそうな顔をしている。

「ごめんね…」

「…?」

 ひゅう、と息が漏れて、また俺は咳き込んだ。一体何の話だ。俺が風邪を引いたのは慎二さんのせいじゃないですけど。

「いや、殴っちゃって……」

「…あー」

 そんなことか。そういえば慎二さんに殴られたせいで血が出たんだっけ。頭だから出血が多いだけで、傷そのものはたいしたことがないだろうし、特に痛いわけでもなかったから忘れていた。

 今の最大の個人的問題は風邪です。

「別、にー……」

 どうでもいいです。それよりも、できれば黙っていて欲しかった。言うのはもちろんだが、話を聞くだけでも疲れる。

「…良かったぁ……」

 何をどう気にしていたのか、慎二さんはほっとした様子でにこりと笑い、持ってきた袋を引き寄せた。

「アイス持ってきたんだけど、食べる?」

 どうやら袋の中身はアイスのようだった。たまには甘い物以外も持ってこないのだろうか、この人は。というか、毎回毎回食べ物に釣られている俺って何なんだろう。

「食べないなら、冷凍庫の中入れちゃうけど」

「…食べない……」

 しばらく考えてから俺は答えた。甘い物がどうこうと言うより、何かものを食べること自体が面倒だった。

「でも……昨日から、何も食べてないんじゃない?」

 自分の分のアイスを残して残りを冷凍庫に入れた慎二さんが、困ったように俺の顔を見た。

 鋭い考察だ。しかし食べていないのは昨日からじゃなくて一昨日の夜から…いや、あれは吐いてしまったから、正確に言うなら一昨日の朝、慎二さんに無理矢理食べさせられたパンケーキ以来だ。

「何でもいいから…食べないと、死んじゃうよ?」

 ねえ、と、そんな顔で俺を見るくらいだったら、最初から俺に選択権を与えないで貰いたい。

 アイスを食べたぐらいでどうこうなるとは思えないのだが。

「ほら」

 涙目で見上げていると、スプーンで掬ったアイスを、横向きになったままの口に突っ込まれた。チョコ味、だろうか。冷たい甘さが、口の中に広がる。

「おいしい?」

「……ん」

 人に食わせておいておいしいも何もないだろうが、と思ったが、それでも頷く。喉が痛くて、飲み込むことが苦痛だ。

 ……まあ、おいしい物はおいしい、です、けど。

 気分は餌付けされる猫だ。それも皮膚病の。

「でしょ?」

 慎二さんは嬉しそうにまたアイスを掬って、自分で一口食べてから、また俺の口元に近づけた。何気なく咥えてから、今そのスプーンで慎二さんがアイスを食っていたという事実に思い至る。


「………」


 ……き、気にしたら負けだ。気にするな俺。


「後でおかゆ作ってあげるから」

 いや別に作らなくていいです。俺の気持ちを知ってか知らずか、慎二さんはとても嬉しそうに笑いながら続ける。また口にアイスを入れられて、俺はゆっくりとそれを喉の奥に流し込んだ。

 咳き込んで、また背中を撫でられる。喉の奥で嫌な音がした。咳き込みすぎてまた吐きそうになり、口を押さえた。

「寝てなくて平気?」

「……う…ん…」

 声だけで返す。別に、風邪ぐらいで寝ている必要は、ないですから。

「哲くん………」

 肩に置かれた手が腕を伝い、熱い頬に触れる。慣れてきたのか、それとも風邪のせいか、触られてもさほど嫌とは感じない。ゆっくりと頭を上げると、リビングの窓の外が、明るく光っているのが見える。梅雨はそろそろだろうか。

「辛いでしょう?……無理、しないでよ」

 辛い?まさか。偽善もいい加減にしたらどうです?これぐらいで死にやしないんだから。

 まだ息は出来るから、まだ心臓は動いているから。

 大体、俺が死んだって、何の問題もありはしない。




 ……だから、大丈夫。辛くなんてないです。

 でしょう?




 へいき、と、言って立ち上がると、呆れたように慎二さんはため息をついた。やれやれと首を振って、

「あのさぁ……聞いてもいい?」

「な、に?」

 俺は答えて机に手を突いた。人がどこかへ行こうとしているときに話しかけないでほしい。少し楽になったと思ったのだが、立ち上がってみると別にそうでもない。今更ながら、何で立ち上がったんだろうと思う。

 しばらく俺の顔を見てから、慎二さんは困ったように小さく口を開いた。

「何で、そんなに………」

そこから後に、言葉は続かなかった。



「……」



 じっと待っても、その先の言葉を言う気配はない。

 俺から何か言おうとしたが、その前に立っているのが面倒になった。思考を放棄して、机から手を放して寝室へと向かう。扉を開け、部屋の入り口でゆっくりと振り返ると、まだ椅子に座ってこちらを見ている慎二さんと目が合った。テーブルの上には空になったアイスのカップがある。

「………」

 俺は黙ったまま扉を閉めた。鍵を閉めるかどうかでも少し迷って、結局そのままにしておく。

 ベッドにもそもそと潜りこんだ。横になったとたん咳に襲われて、痰を吐き出す。喉の表面が剥がれるような感触がして、また生物の体から出るとは思えないような音がする。

 枕を掴むと、べたりと茶色い染みがついている上にざらざらと潮臭い。とりあえず表裏をひっくり返してみたが、血の染みがなくなっただけだった。同じくべたつく布団を引っ張り上げ、顔を埋める。



………慎二さんが何を言いたいのかは、なんとなく分かる気がした。



 だから放っておいてくれって、言ったんだけど。




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