鍵をなくした子供は、玄関で親の帰りを待つ
from:正谷慎二郎
subject:これってどうよ
今に至るまで何も連絡がない……
これは……何?
「本格的に何かあった」と
「嫌われている」のどっちだと思う?
from:淀島昂司
subject:Re: これってどうよ
常識的に考えて後者だろ
・死なせてあげない
・盗んだ服に欲情
・勝手に家に上がり込んで保護者気取り
・寝顔で抜く
・無理矢理キス
・メール&お菓子攻撃
嫌われない方がどうかしている
◇
from:正谷慎二郎
subject:Re2: これってどうよ
そ…そんな言い方しなくてもいいじゃん!
だ、大体、バレてもない所業で嫌われるってことはないと思うんだ!
◇
from:淀島昂司
subject:Re:Re2: これってどうよ
ばれてないって…………
………………やったことは、否定しないわけだな……
◇◆◇
「それじゃあね」
「あっ、はい………ありがとう、ございました」
礼をすると、夕坂さんに肩を叩かれて
「またね」と言われた。
……出来れば、もうあと5年くらいは会いたくない。それでも黙ってもう一度頭を下げると、夕坂さんは笑って、そして車に乗り込んだ。ばたんと扉が閉じ、そして静かな音を立てて走り出す。
「はぁ………」
………疲れた。
夕坂さんの車を見送ると、俺はゆっくりと自分の家のほうに振り返った。
自分の家も、その隣も……ひっそりとしている。しばらくうろうろとしたが、やはり人のいる気配は無い。
何となく家に入る気がせず、俺は玄関先の階段に腰を下ろした。夕坂さんに貰ったワインを日陰に置く。コンクリートの、ひやりと冷たい感触が気持ち良い。
ただぼうっと、片方だけの目で、午前中の光に輝く無人の家々を眺める。どの家も、持ち主はいないというのにきちんと手入れされている。草木がぼうぼうなのは俺の家くらいだ。家主と同じく周囲から浮いている。
………何、やってんだろ。
なんでこんなトコ座ってんだよ………
早く家の中に入れば良いのにと自分でも思う。だが、一度座ってしまったのにすぐまた立つというのは嫌だった。やっと帰ってきたというのに。
空を見上げると、遠くの方に雨雲が見えた。あれがここに来るまでに、後どれくらいかかるだろうか。じっと見つめても、どれくらいの速度で雲が進んでいるのかわからなかった。
動いているようには見えない一方、ものすごい速さで近づいて来ているようにも見える。
「………」
どちらにしても、俺にとっては関係のないことだ。
◇◆◇
どれくらい経っただろうか。
2件先の家に止まった灰色の鳥を見ていると、ぽつり、と雨が顔に当たった……ような、気がした。見上げると、いつの間にか空は雨雲に覆われている。気のせいか、と思ったが、足元のアスファルトにもぽつぽつと濃灰の染みが出来ている。
空を眺めているうちに、最初は小さかった雨粒が大きくなり、だんだん間隔も狭くなり、すぐに土砂降りになった。
大粒の雨が体中を濡らし、髪が顔に張り付いた。見つめる地面には水溜りが出来、波紋が広がりきるまえに他の波紋に打ち消される。
目を閉じて、耳を澄ます。道路に落ちる雨、水溜りに落ちる雨、木の葉に落ちる雨、ただ跳ねるだけの水音にも様々な音があって面白い。こんなに近くにいるというのに、雨にかき消されてしまって波の音は聞こえない。
体中がびしょ濡れになった頃、雨音に混じって、水が車輪にはねる音がした。
「………」
目を開けると、雨に煙る中、平坦な道を自転車がやってきていた。水溜りの水を飛び散らせ、鞄を籠に載せている。どこかで見たことのある自転車だなと思い、慎二さんの物だと気が付いた。
眼鏡を外し、雨合羽を着た慎二さんは、俺のすぐ目の前まで来て自転車を停めた。目を細め、確認するように呟く。
「哲…くん!?」
「うん」と頷くと、一旦自転車を車庫の中に入れ、それからビニール傘を持って戻ってきた。
慎二さんが傘を開いて俺のうえに差しかけると、そこだけぱらぱらと雨音が変わる。ビニールの被膜を見上げ、弾ける水滴を目で追う。
「おかえり」
「た…だいま」
頭を下げると、ぴちゃりと音がして、すぐ横に、慎二さんが腰掛けた。俺の目線を追って、傘の内側を見上げる。
「何してるの?」
……何を、していたのだろうか。
強いて言うなら、
「聞いていた」か、あるいは
「眺めていた」か……
「………」
少し考えたが、分からない。
「体、冷えたでしょ?家入ろうよ」
肩に手を回された。確かに、大分暑くなってきたとはいえ、雨に濡れると寒い。けれど、俺は首を横に振った。
「濡れるのが好きなの?」
海といい今日といい、と慎二さんは呟いた。
「…」
別に……そういうわけじゃ、ないです。
「じゃあ…何で?風邪引くよ?家入ろう?」
「…………嫌…」
なぜだかはよく分からなかったが、俺はそう首を振った。肩に回された手で抱きしめられて、濡れた服越しに慎二さんの体温を感じる。
「何が、嫌なの?」
覗き込むようにして尋ねられた。
「……分からない…」
はっきりとした理由は、どこにもなかった。けれども、自分以外のことも、自分自身のことも全て嫌だった。
ただ全部を放り出して、ずっとこのままでいたかった。
俺の答えを聞くと、慎二さんは少し困ったような顔になって
「そうか……」と呟いた。
「………」
俺のことで、そんな顔をする必要はないのに。そう思って、俺は目を逸らした。
空からの雨粒が更に大きくなって、傘に弾ける音が重くなる。
……俺だって、分かってる。
………偽善かどうかなんて関係なくて、
これ以上、誰かに頼ってちゃ、いけないんだって事。
どうすればいいか、分かってる。でも、どうすれば出来るのかは、分からない。
そんな事するぐらいだったら、死んだほうがいいです。
これで最後なんだから、それぐらい、一つぐらい、我儘を聞いてくれたっていいでしょう?
俺は今まで、何も言わないでいたんだから。
「………ごめんなさい…」
小さく呟いて、俺は立ち上がった。ぴちゃりと水が跳ね、頬を雨が伝う。
家の左手にある階段を下りれば、そこには海がある。
波の音は雨音に掻き消され、水面も白く煙っている。
その顔だって、作り物だって分かってる。
ねえ、それでも………嬉しかったんだよ?
俺の事、好きって言ってくれた人、初めてだったから。
抱きしめてくれたのも、キスしてくれたのも、慎二さんだけだから。
優しい嘘を、ありがとう。
「ちょ、っ………どこ行く気なんだよ!」
階段を下りた所で、腕を掴まれた。強引に引き戻され、たたらを踏む。
「……………」
どこに、って…?
目前に広がるのは、いつもより大分荒い海しかない。濃灰の波が、黒々とした岩に衝突しては砕けている。
「………」
振り向くと、俺を睨みつけている慎二さんと目が合った。
無言のまま、慎二さんが開いたままのビニール傘を道路に叩きつけると、手から離れた傘は、風に引きずられて数メートル先まで移動していった。
「………怒ってます…?」
「多少………」
聞いてみると、いつもより低い声で返された。慎二さんの雨合羽に弾けた雨が、アスファルトへと残像を残して落ちる。
「……何で……放っておいて、くれないんです?」
怒るくらいなら、俺のことなんてそうすればいいだろう。
これ以上、関わらなければいい。
殴られた。
何が起こったのかわからず、俺は道路に座り込んだ。殴られたところよりも後頭部が痛くて、押さえた手を見たら紅く染まっていた。後ろのブロック塀にぶつけたのだろう。
「…な……何で、何で、そういうこと、言うんだよ………」
殴った拳を握り締めながら、慎二さんが言った。
………それで、いいんだよ?
もっともっと、怒りなよ。
偽善ですら施したくなくなるくらい、蔑みの対象にすることすら腹立たしくなるくらい、俺のことを嫌いになればいい。俺にはそんな価値すらないけれど。
ばらばらと弾ける雨が、俺の体温を奪っていく。どれくらいの間雨に当たっていたのかは分からないが、結んだ髪の毛の根元まで濡れてしまっている。俺は慎二さんから視線を外して、ただ階段の上を流れる雨水を見た。
いつになったら、終わるんだろう。
「いいよ……ぼくの事が嫌いなら、それで構わないから……」
しばらくして聞こえた慎二さんの声は、少し震えていた。また泣いているのかもしれない。
「……」
嫌いだって?そんなことを言った覚えはない。どこからどう飛躍して、そこまでの考えが出てきたのだろうか。そりゃあ確かに、好きか嫌いかの二択で言ったら、嫌いの要素の方が若干多いけど。
「だから、お願い………………死なないでよ………」
「………い…」
宥めるような口調で言われて腹が立った。俺は階段を眺めたまま返したが、喉に引っかかったようになって上手く声が出なかった。不思議そうに慎二さんが首を傾げ、俺はもう一度叫ぶ。
「う、るさい、っ、てんだよ!」
何で俺が、そこまで、そんな風に、お前に言われなきゃなんねえんだ。
自分でも、ロクな人間じゃないのは分かってる。そんなに優しい振りをして、駄目な人間を見るのは楽しいか?俺がいなくなったら、さっぱりして嬉しいくせに。
気づいてないとでも思ってるのか?生憎、そこまで俺は馬鹿じゃない。
金ならいくらでもあげますよ、どうせ俺のじゃないんだから。
だから、
幸せなうちに、死なせてくれよ。
ざぁ、と、道路をやってきた車が俺たちを一瞬だけ照らし、そして鋭い破砕音を立てて傘が弾け飛んだ。