好きな子に意地悪してもいいのは小学生まで
from:正谷慎二郎
subject:結果
謝りに行ったら風邪引いてて死に掛けてた
目は潤んでるわ頬は赤いわで可愛すぎる
興奮しすぎて鼻血出そう
とりあえず薬飲ませなかった自分GJ
むしろ悪化させて看病ライフを楽しみたい
◇
from:淀島昂司
subject:Re: 結果
ああ、そう……
……よかったね。
学校に風邪持ってくるなよ
◇
from:正谷慎二郎
subject:Re2: 結果
何でお前、そんなにリアクションが薄いんだよ~
もっと喜べ!
◇
from:淀島昂司
subject:Re:Re2: 結果
昨日一瞬でもお前を本気で心配してしまった自分に嫌気が差してる
◇◆◇
慎二さんは帰ってしまったのか何なのか、家の中がしん、としている。
布団の中でとろとろとまどろみながら、先ほど慎二さんが言いかけた言葉が頭の中を回っていた。
自覚はしているのだ……原因も多分、分かっている。「過去の体験」だなんて認めたくないが。しかも、そう大したことじゃない。ありふれたことだ。
馬鹿じゃないのかと思う。瀕死の重傷を負ったわけでも目の前で誰かが惨殺されたわけでもないのに、何もせずに家に閉じこもって好き勝手なことをほざいているなんて、自分は甘えている。
彼が本当の所、何を言いたかったのかは分からない。もしかしたら全く違うことなのかもしれなかった。
けれどそれならそれで構わない。何とでも言えばいいさ。
だから俺に構う必要なんてない。
◇◆◇
実の所、右目を刺された時のことはもうよく覚えていない。それどころか、相手の名前すらもう記憶にない。だが、名前を思い出そうとする度に、白神山地という単語が何故か脳裏に浮かぶから、何かあの世界遺産に連想する所があるのかもしれない。
記憶にあるのは、階段から突き落とされた時、逆光の中で二人が笑っていたことだけだ。白と黒のコントラストの中、窓の向こうでシュロの葉が黒く揺れていた。しかしあれが右目で見た最後の光景なのか、それとも左目だけで見るようになった最初の景色なのかも分からない。
要は、自分は友達だと思っていたけれど向こうはそう思ってはいなかったという、ただそれだけの話であり、それだけでしかない。
そして、俺の記憶がはっきりするのは退院の時まで飛ぶ。
来れないならそれで構わないし、一人で平気だからというのは聞き入れてもらえず、母は、迎えの代理として柄束さんをよこして来た。帰ってくると言っていた夕坂さんはどこへ行ったのだろうかと思ったが、何も聞くことは出来なかった。
退院当日の朝、俺は嫌々ながら自分の服や歯ブラシを袋に詰めていた。階段から落ちた時に足も骨折したので、ベッドに腰掛けたまま、左側に鞄や袋、右側に持ち帰るものの山を作って、右から左へと一つ一つ移動させてゆく。
その山がまだ三分の一も片付かないころ、柄束さんが現れた。「おはよう」の声と共にがらりと扉が開いたのは気づいていたが、返すことなく黙々と作業を続ける。すると再度、わざわざ前に回りこんできて「おはよう」と言ってくる。
「退院おめでとう」
それでも無視していると、わざとらしく笑って、「片付け手伝うわよ」とベッドの上に放り出していたタオルを手に取った。
「……」
なるべく見ないようにしてタオルをもぎ取る。勝手に自分の物に触られるのが許せなかった。
柄束さんはそれでも微笑を崩さずに、小さくため息をついてパイプ椅子に腰掛けた。ただ俺が帰り支度をしているのをじっと見る、粘りつくような視線を感じる。どこかよそへ行けばいいのにと思いつつ、なるべく見ないようにして、右側の山を小さくすることだけに専念する。
柄束さんも、何を考えているのか全く喋らない。ただかさかさと物を詰める音だけが病室内に響く。
ようやく全てが詰め終わり、バッグを肩に掛けて、ベッドの端に立てかけておいた松葉杖を構えた。立ち上がって、重いが何とかいけるだろう、と思った所で、後ろから鞄の紐を柄束さんが引いた。何のつもりだ。
「………」
ゆっくりと目を上げると、予想外に近くにいた柄束さんと視線が合いそうになった。反射的に顔を背ける。
「ねえ、それぐらい持つわよ?」
お断わりだ。これは俺の荷物だ。
ただ答えないでいると、柄束さんは幼い子相手にやるように膝を曲げ、下から俺の顔を覗いた。困ったような、駄々っ子に言い聞かせるような声音で、しかしそれでも笑い顔は崩さずに話す。
「そんなに………持てないでしょう?」
何とかなるし。するし。根性で。
「ね?」
人が肯定も否定もしないうちに、柄束さんは俺からバッグを奪い取った。取り返そうとする前に間合いを取られる。
それから俺の方へ振り向いた。
「行こうか」
そしてゆっくりと、松葉杖を突く俺に合わせた速度で歩き始めた。俺はもう面倒になり、その後についてただ歩く。
薄い白の光の指すエレベーターホールが、とても遠くに見える。
……何もかもが、気に入らなかった。
自分がここにいることも、ここに柄束さんがいることも、自分が思うように歩けないのも、柄束さんが俺に合わせて歩くことも。
久しぶりに見た外は、想像していたよりも白く煤けていた。
こんなんだったっけか、と首を傾げるが、それで特に空の色が変わるわけでも、自分の中の齟齬が無くなる訳でもなかった。この空は元からこうだったのだろうが、なら自分はどこでこれを美化してしまったのだろうか。
タイヤがアスファルトに触れる音がして、病院の玄関に柄束さんが車を運んできた。車種は忘れてしまったが、車の癖にやたらと座高が低くて、高速道路で壁にでもぶつかったら一瞬でぺしゃんこに潰れそうな形をしている。
車は俺の目の前で静かに停まり、中から下りてきた柄束さんがトランクに荷物を入れる。少し迷って、後部座席に俺は乗り込んだ。這うようにしてシートに座り、松葉杖を抱える。
ゆっくりと、音も加速度も感じさせずに、車が発進した。ただ窓の外を流れる景色で、俺は自分が進んでいることを知る。真昼の閑散とした道路は、遠くまで見通せる。
「……」
太陽の熱を吸収している窓枠と対比的に、額をつけた窓ガラスは冷たい。
いっそのことそこら辺の対向車と衝突でもすればいいのに。そして見る影もない鉄塊に成り果てればいい。もちろん中身ごとだ。
「哲くん」
穏やかにカーブする道に沿って緩やかに車を走らせながら、柄束さんがバックミラー越しにこちらを見た。無視する。
「どこか回ってから帰ろうか?」
好きにすればいい。帰っても誰もいないであろう家を想像すると気が滅入るが、これ以上柄束さんの時間を消費してしまうのも心苦しかった。どちらでも同じことだ。俺は答えずに、窓の外のポプラ並木が、静かに後方へ飛んでゆくのを見ていた。
夕坂さんは、どうしているのだろうか。
◇◆◇
左目を開けると、カーテンの向こうが赤く染まっていた。どれくらい経ったのだろうか。汗でべたついた体に、ざらざらと砂がくっついている。少し咳き込んで、首元に毛布を引き寄せた。
薄いまどろみの中、何かを考えていたことは確実だったのだが、内容は霧のようにしか思い出せなかった。意識がはっきりするのと反比例して、霧が靄になり、蒸発して水蒸気になってゆく。
「………」
昔のことだったような気がする。思い出したくも無い。
ゆらりと体を起こして、寝癖のついた脂っぽい髪を手で梳かす。部屋中に淀んだ空気を吸い込んだが、そこまで喉に引っかかるようには感じない。少し寝たせいか、先ほどよりも大分楽になっている。
ぐるりと見回した部屋の中、窓の外に広がるであろう夕焼けを想像して、何故だか全身に鳥肌が立った。両腕で体を抱きしめる。
悪寒が治まったころ、そっと両手を解いた。ベッドから足を下ろして、耳を澄ます。家の中は相変わらずしんとしているようだった。立ち上がって、リビングとの境の扉に耳を押し当てると、微かにだが……包丁の音が、聞こえる気がした。ドアノブを押し開けると、案の定慎二さんが台所に立っていて、ふわりといい匂いが漂ってきた。
「何……作ってんですか」
言ってから、違和感もなくごく普通にそう言ってしまった自分に愕然とした。
完全に慎二さんのペースに乗せられてるよな、最近……いや、出会ったときからそうだったか。思えば、あの時甘いものが好きと頷いてしまったのが全ての元凶だ。しかし、あそこで嫌いと言ったら言ったで、ただ甘いものの代わりに辛いものを持ってくるだけだったような気もする。
打ちひしがれた気分でリビングのソファに座る。
「あ、起きた?どう?」
慣れた手つきでニンジンを切っていた慎二さんが包丁を置き、エプロンで手を拭きながら近寄ってきた。俺のすぐ横にしゃがみこんで、また額をくっつけられた。
「熱、下がったね。顔に生気も戻ってきたし、もう大丈夫かな」
それは、さっきまでは死相でも浮かんでいたということかい?
よしよし、と頭を撫でる手を右手で外して、「で、何、作ってるんです?」と同じ質問を繰り返す。
「おかゆだよー。作るって言ったじゃん」
そんな事言ったっけ………?記憶にない。
「いい匂い……」
膝を抱えて顔を乗せると、「食べる気になったね、いいことだ」と頷いて、慎二さんは立ち上がった。
「後ちょっとで出来るから待っててね」
そういって台所へ向かい、「あ、そうだ、何か飲む?」と振り返った。頷くと、「何がいい?」と更に聞いてくる。
「…冷たいの……」
さっきまで寝ていたというのに、また目を閉じると眠ってしまいそうな気がした。目の前のガラステーブルに反射する蛍光灯の光を見ていると、その上にお茶の入ったグラスを差し出された。
「はい」
右手で受け取って、唇を湿らせる。さっぱりした味。コーン茶、だろうか。少し口に含むと、冷蔵庫から出したばかりの、刺すような冷たさが頬の内側に染みる。舐めるように飲んでいくと、徐々にその冷たさも薄らいでいく気がした。
お茶の量が半分ほどに減った頃、なあ、と、小さく俺は擦れた声で呟いた。それでも大根を刻むリズムは変わらず、俺はもう一回強めに呼びかけた。「何?」と包丁を持ったまま慎二さんが振り返る。
「何が……したいんですか」
グラスを両手で包んだまま、俺はその水面から目を上げた。手のひらの内側が痺れるようだ。
「ん?」
慎二さんは斜め上を睨み付けてから俺に焦点を合わせて、「どういう事?」とまた包丁を置いた。
答えようとして、何と言ったらいいか分からなかった。
さぁ、と、頭の中から意味を持った文節が消え去る感覚。
「だ、から、っ…………と……あー……から………」
まずい。熱とは別に火照った顔を、感覚がなくなるほど冷えた手で押さえる。慎二さんは不思議そうな顔をしているばかりだ。
い、言わなきゃ良かった………
「からっ、その……飯、作ったりとか、か……掃除……俺、の……っ………」
繋がれていない言葉だけがぽろぽろと零れる。頭の中に文が作れない。けれどこんなのじゃ通じないということだけは痛いほど分かった。息を吸ったが、肺が膨らんだだけだった。片手だけで持ったグラスが震える。一気に飲み干して、額を膝に付けた。
「…いいっ……もう…いいからっ、何でもない……!」
何故、口を開いてしまったのか。何も言えないなら、最初から言葉なんて声に出すべきじゃなかった。ただこの場所から消え去ってしまいたかった。
「ぼくは……」
それでも大意は把握したのか、しばしの沈黙の後に聞こえた慎二さんの声からは、普段の泰然とした雰囲気が消えていた。膝に埋めた顔、目をきつく閉じる。だからいいって言ったのに。黙っててくれ。汗で、背中にパジャマが張り付く。
「ぼくのことを、好きになって欲しい」
幸せに、と言いかけたところで、いや、と小さく打ち消した。
少し間があって、それからはっきりした声で、言い直す。
「哲くんに…………生きてて、ほしい」
それだけでいい、と断言した。
ごとり、と。
俺が投げつけたグラスが鈍い音を立ててフローリングの床に落ちた。
「ふ……ざ、けんなっ!」
予想よりも近くに落ちたグラスを精一杯睨んで、俺は叫んで勢い良く立ち上がっていた。じわりと灰色になった視界に、ぎょっとしたような慎二さんの顔が見えた。急に立ち上がったから貧血になったようだった。
「哲、く……?」
「黙れ」
俺は吐き捨てるように言った。ただ、ただ、自分が感情のままに動いていることは分かっていた。けれどそこに何か問題があるとは思えない。
「出てけ……」
視界に色が戻ってきた。
吸った息が喉に引っかかって咳き込むが、慎二さんから目線は外せなかった。
「……」
ただ呆然とした顔で突っ立っている慎二さんに向かって、ガラステーブルの足を思いっきり蹴飛ばす。ただ嵌められているだけのガラス版が外れる派手な音がしたが、割れてはいないだろう。
俺は出ていけと言った。早く立ち去ってもらおうか。
「……出てけ、ってんだ、よ!」
出来うる限りの力で睨みつけて、出せる限りの声でもう一度叫んでも、それは自分が予想したよりずいぶんと小さくて甲高かった。