×29 暗く濁った記憶という海の底で ③
アイリーンは逃げ出した。家からも、ルキからも。
全てを投げ出し必死で走る。
ヴィスタリアの城下町を飛び出し、東に広がる森の中へと身を隠した。
もう町には戻れない、ルキに会う事も出来ない。
ライザを殺してなお、収まらぬ憎悪を持て余し、落ちていた古びた剣を持って、森の動物たちへと振り下ろす。
「くそっ……くそっ……なんで……なんでこんなことにッ!!!」
暴れて暴れて、殺して殺して、アイリーンは他者を傷つけることでしか、自分の感情を鎮めることが出来ない。
「全部あの女が悪いのに……!」
だが、いくら殺しても心が軽くなる事はなかった。
ライザに短剣を突き立てた時のような快感は得られない。
『うふふ……荒れてるわね、アイリーン』
「……だれ?」
突如、女の声で話し掛けられる。
「シェリィ?」
現れたのは、ルキが飼っていた黒猫、シェリィだった。
『あなたはいつかライザを殺すと思っていたけれど、想像より早かったかな。ラルゴがいなくなった影響は大きかったわね』
シェリィの小さな体は黒い影のようなものに包まれ、徐々に形を変えていく。
それは次第に人型に代わり、白い肌をした、赤い瞳の少女に変化した。
『これが私の本当の姿、名前はエリーヌよ』
エリーヌと名乗った少女は、アイリーンの瞳を見つめて、妖しく笑った。
「そりゃあ驚くわよね。飼ってた猫がいきなり話し掛けて来たんですもの」
呆然としているアイリーンを見て、エリーヌはくすくすと笑う。
足元の影が形を変え、椅子のようなものに変化する。
エリーヌはその椅子に腰掛けて足を組んだ。
「アイリーン、あなたこれからどうするつもり? 町に戻っても捕まるだけよね」
「あなた……何なの……?」
エリーヌは胸に手を当てて、魔族……とだけ呟いた。
「っ! ぅああ!」
聞いた途端、剣を構えエリ―ヌに襲い掛かるアイリーン。
剣をまっすぐ突き出し、エリーヌの胸を貫いた。
「どお? 気持ちいい? アイリーン……」
「ヒッ!?」
エリーヌは胸を刺された状態で、アイリーンの頭を抱き寄せ耳元で囁く。
「アイリーンのことは何でも知ってるのよ、私。ライザを殺した時の恍惚とした表情……思い出しただけで体が疼くわ……」
アイリーンはその場にへたり込んでしまう。
エリーヌは胸から剣を引き抜き投げ捨てる。
胸の傷は黒い煙をあげて一瞬で回復した。
「これが私たち魔族の力。傷を癒すことも、形を変えることも自由自在。影を操るのは、私が生み出した術だけどね」
そう言って、アイリーンに手を差し伸べた。
「エリーヌ……人間の敵であるあなたが……どうしてヴィスタリアに……私とルキの近くにいたの?」
少し落ち着いたアイリーン。
エリーヌが作った影の椅子に座り話をする。
「暇つぶし♪」
エリーヌは笑顔で答える。
どう反応していいか分からず黙るアイリーン。
「ふざけてるわけじゃないのよ? 本当に暇つぶし。戦争だとか言って騒いでるのは人間だけ。私たちにそんなつもりはないわ。本気で戦うのなら、私や魔王様が行けば、ヴィスタリアなんて一晩で滅ぼせるもの」
ハッタリとは思えなかった。
目の前の少女からは、それを可能だと思わせるほどのオーラを感じる。
「絶望や憎悪、人間の負の感情が、私たちの『お父様』の力に変わるの。だから全滅させてしまっては意味がない。生かさず殺さず、時間をかけて苦しめる」
「フフッ……最悪だね、それ」
「でしょ? けど困ったことが一つあってね。私や魔王様は力がありすぎて仕事がないの。それこそかつての聖王や、勇者に近い存在でも現れない限りは……」
「それで悪趣味な人間観察ってわけ?」
「そういうこと♪ 元々は勇者の再来とか言われてるお姫様に近付いたんだけど……特に面白い子じゃなかったわ。そんな時に出会ったのがルキ」
「……ルキ」
「人間としては高い身体能力に鋭い五感、欠落している憎しみの感情……何より目立つのは、不安定な魔力性質」
「魔力?」
「誰にでも備わっている魂の力よ。あなただったら――大地の力ね。あの子はそれが定まっていないの。本来ありえないのよ? こんなこと」
楽し気に語るエリーヌ。
「父親のラルゴは普通の人間だったんだけどね。ルキは明らかに変……中々その正体はつかめないのだけれど、時折魔王様のような雰囲気を感じることもある……暇つぶしの観察対象としては丁度良かったわ」
「ルキを……どうするつもりなの?」
「うふふ……怖い顔しないで……何もしないわ……というより、あの子にはもうあまり興味がない。私は今あなたに夢中なの。アイリーン」
「意味が分からないんだけど」
「言葉通りの意味よ? 一目惚れだったわ……こんなに弱々しいのに、死臭と憎悪に塗れたあなたは本当に美しい……実は最後まで見てるだけのつもりだったんだけど、ライザを殺した時のあなたがとても素敵で……我慢できずに声を掛けてしまった」
うっとりとした表情で、エリーヌはアイリーンの頬に手をやる。
「……ねぇ? アイリーン。あなたはこれからどうするの? 危険を冒してでも、ルキに会いに町に戻る? それともこのまま逃げ続けるのかしら?」
「…………どうだっていい」
「え?」
「全てを打ち明ければ、ルキはきっと私を許してくれる……でもあの子にとって、私の存在は重荷にしかならない。だったらこのまま、会わない方がいい……」
立ち上がり、エリーヌが捨てた剣を拾うアイリーン。
「それに、弱い私に一人で生きていく力はない。逃げ出したところで野垂れ死ぬだけ……だから、先のことなんてどうだっていい」
再び、エリーヌの胸に剣を突き刺す。
「私はね、憎いんだよ。人間も魔族も全部……ルキやお父さんの前では隠していたけど……楽しそうに笑ってる奴等を、こうやってみんな突き殺してやりたい」
「ア、アイリーン……」
刺しては抜いて、また刺して、エリーヌの体に何度も剣を突き入れる。
「ああ、気持ちいい……この感触だけが私を癒してくれる……嫌なことを忘れさせてくれる……どうせ私はもう終わり……ならこのまま死んでしまいたい……この快楽に溺れたまま……永遠に眠ってしまいたい……」
薄く笑みを浮かべながら、歪んだ欲望をエリーヌに吐き出して行く。
「アイリーン……どうしてあなたはこんなにも素敵なの……? どうしてこんなにも私の心を惹きつけるの……?」
悦びに身を震わせるエリーヌ。
「分かったわアイリーン。あなたは死になさい。でも眠る事なんて許さない。人間としての命を終わらせて、私と共に魔族として生きるのよ」
アイリーンが深く剣を突き入れた時、エリーヌは彼女を強く抱きしめる。
「……後悔するよ……私なんかを連れていったら……必ず後悔する……人間にも魔族にも……私の存在は、災いにしかならない……」
「後悔なんてしない……アイリーンが喜んでくれるのならば……私は全てを捧げても構わない……」
そう言って、エリーヌはアイリーンの心臓を引きずり出した――――