×28 暗く濁った記憶という海の底で ②
「はい、着いた! ここがあたしの家だよ!」
小さなルキに手を引かれ、アイリーンは彼女の家に入って行く。
「父ちゃーん! ただいまー!」
「おかえりルキ、今日は喧嘩しなかっただろうな?」
奥の部屋から出て来たのは、髭を生やした、熊のような大男。
「にへへ、やっちゃった!」
大男に笑って飛びつくルキ。
「ルキ、約束しただろう? たとえ頭にくる事があったとしても、人を傷つけてはいけない。悪い事をすれば、いつか必ず自分に返ってくるんだ」
低く、落ち着いた声でルキを叱る大男。
「ごめんなさい……」
「ん? ルキ、そこのお嬢さんは?」
「ヒッ……ぅぁ……」
大男と目が合って、ビクっと体が引きつるアイリーン。
「悪い奴らからシェリィを守ってくれたお姉ちゃん! 怪我してるみたいなんだ。診てあげてよ!」
「うむ……ルキ、もしやお前は、このお嬢さんを助けるために戦ってきたのか?」
「そうだよ! 危ないとこだったんだからー」
「そうか、すまなかったな。愚かな父を許せ。お前は素晴らしい事をした。お母さんも、神の国できっと喜んでいるはずだ」
そう言って笑い、ガシガシと乱暴にルキの頭を撫でる。
「お嬢さん、私の名はラルゴ。ルキの父親だ。怪我をしているのかな? 少し見せてくれないか」
ラルゴは優しく語り掛けるが……
「……ぅ……ぅぅ……」
顔の前に両手を上げ、震えながら後ずさるアイリーン。
それを見たラルゴは、これ以上彼女を怖がらせないために少し距離を取る。
(この怯え方は普通じゃない……)
顔を守るように上げたアイリーンの痩せこけた腕と、そこに無数の痣があるのを確認したラルゴは、何かを察し、一瞬強い怒りに満ちた表情をする。
しかしすぐ元に戻ると、奥の部屋に入って行き、大きな斧を背負って戻って来た。
「ルキ、貴重品を持ちなさい。用事が出来た。出かけるぞ。今日は食事も外で摂ろう。三人でな」
その言葉を聞いたルキは嬉しそうに返事をして、奥の部屋に入って行く。
二人きりになったラルゴとアイリーン。
ラルゴは満面の笑みを作ってから、優しくアイリーンに話し掛けた。
「お嬢さん、私とルキはこの町に越してきたばかりでね。知り合いがいなくてとても寂しいんだ。良ければ、ルキと友達になってやってはくれないか? 私には君のお父さんとお母さんを紹介してほしい」
いつの間にか、アイリーンの震えは止まっていた。
ラルゴの職業は傭兵。
魔王軍との戦争中であるヴィスタリアならば、しばらく仕事には困らない。
そう考え、娘のルキと共に最近引っ越してきていた。
彼はある日、ルキが連れて来たアイリーンと出会う。
痩せた体は痣だらけ、彼女が親から虐待を受けている事は一目で分かった。
ラルゴはアイリーンの家まで乗り込み、母親であるライザと話をする。
虐待を止めるよう強く説得し、彼女たちの生活が苦しい事を知ると金も渡した。
その後もラルゴは定期的にアイリーンの家を訪ねる。
彼が仕事でしばらく帰れない時は、娘の面倒を見てもらうという建前でルキを泊まらせ、ライザとアイリーンが二人きりにならないようにした。
その甲斐あってかライザの虐待は無くなり、ルキという友を得たアイリーンの心と体は回復していく。
次第にアイリーンの動物虐待も無くなり、ラルゴとルキの愛によって、彼女は徐々に人間らしさを取り戻していった。
それから、四年の月日が流れ――
「お父さん! 帰ってたんだね」
部屋に入ってきてそう言ったのは、美しく成長したアイリーン。
ラルゴを見て、嬉しそうに声を掛ける。
「ただいま。アイリーン。ライザとルキはどうした?」
一人で酒を飲んでいたラルゴ。
いつしか四人は共に暮らすようになっていた。
「ルキはまだ遊んでるよ。私だけシェリィのご飯のために帰って来たの。あの女は……知らない」
ライザの話をする時だけ、冷たい表情に変わる。
「アイリーン……」
「私の家族はルキとお父さんだけ。あんな女は知らない。どうせ今だって、お父さんが命懸けで稼いだお金で遊んでるんだ」
アイリーンはラルゴの事を父と呼び、慕うようになっていた。
だがライザの事は……
「どうせならこのまま帰ってこなければいいのに……どうして私はあの女から生まれたのかな……お父さんの子供に生まれて来ることが出来れば、ルキとも本当の姉妹になれたのに」
憎しみを絞り出すようにアイリーンは言った。
その言葉を聞いて、ラルゴは酒を飲む手を止める。
そして、ゆったりとした口調で語り始めた。
「いいかい、アイリーン。人間の魂というのはね。元々神様から生まれてきたものなんだ。それがこの世界にやって来る時に、自分の親を選んで生まれて来る。ライザの元に生まれてきたのも、アイリーンが何か目的を持って、選んでやって来たのだよ。だから……そんな悲しい事を言うな。ライザにも苦しみや悲しみはある。許せとは言わないが、憎んでしまえば、それは必ずお前自身を不幸にする」
アイリーンは言い返す事をしなかったが、表情を見る限り納得はしていない。
「……それは、お父さんがいつも読んでる本に書いてあること?」
「そうだよ、アイリーンは良く見ているね。あれにはアレス様という方の事が書かれている。この世界の成り立ちを語り、神の子として、模範となる生き方を示されたお方だ」
「アレス様を見習っているから、お父さんは良い人なんだね」
「そんな事はない。そうでありたいと思ってはいるが、中々アレス様のような生き方は出来ない」
ラルゴはそう言って笑いながら、一本の短剣を取り出した。
「アイリーンもそろそろ自分で生き方を考えられる歳だな。誕生日プレゼントには少し早いが、これをあげよう」
「わぁ……立派な短剣……」
「これはね、ルクセリアという珍しい金属で作られた短剣なんだ。武器としても強力だが、売れば結構な額にもなる。私には分からないが、気という力にも反応するらしい」
「どうしてこれを私に?」
「生きていくためには力も金も必要だからな、武器はその両方を与えてくれる。これの使い方は自分でよく考えて決めなさい。人間は何をするのも自由だが、行動には必ず責任が伴う……それだけは忘れないようにな」
短剣を差し出すラルゴ。
「……うん、ありがとう。お父さん」
短剣を受け取り、アイリーンは笑顔で礼を言った。
数日家に留まった後、ラルゴは再び傭兵として、魔族との戦いに戻って行った。
アイリーンは受け取ったルクセリアの短剣をお守りとして、肌身離さず持ち歩くようになる。
ラルゴが短剣を渡した意味はよく分からなかったが、アイリーンは彼から一人の人間として認めてもらえたような気がして、短剣を見る度に誇らしい気持ちになった。
次にラルゴが戻ってきたら、なにか恩返しがしたい。
そんな事を考えながら、ルキと共に料理の勉強などをしていた。
しかし……二度とラルゴが帰ってくることはなかった。
しばらくしてから、家を訪ねて来たラルゴの仲間によって、彼が戦場で命を落としたという事が伝えられる。
実の娘であったルキ以上に、アイリーンが受けたショックは大きかった。
ライザはラルゴの残していった金で遊び回るようになり、家にはほとんど帰ってこない。
悲しみに打ちひしがれるアイリーンを、ルキだけが支えるようになっていた。
「ただいま」
「ルキ!」
家に帰って来たルキに駆け寄り、抱きしめたアイリーン。
「遅かったじゃない、どこに行ってたの……あなたまでいなくなったら私……」
自分よりも小さなルキにしがみついて泣く。
「あはは、ごめんごめん。ちょっと遠くまで買い物に行っててさ」
持っていた袋を置き、アイリーンの頭を撫でるルキ。
「お姉ちゃん、お腹すいたでしょ? 食べるもの買ってきたよ! 二人で食べよ?」
「……うん」
ライザが持ち出してしまった為、家に金はない。
ルキがどうやって食糧などを手に入れてきているのか、本人は話さない。
アイリーンもまた、聞こうとはしなかった。
「もぐもぐ……お母さん今日も帰ってこないねー」
薄暗い家の中、二人で寄り添って食事を摂る。
「そうだね……」
ルキはライザの本性を知らない。
ラルゴの手前、ルキの前ではまともな母親を演じていたからだ。
「ルキ……ルキは、どこにも行かないでね……」
アイリーンは震えながら言う。
「うん! どこにも行かないよ! 寂しいなら、あたしがずっとお姉ちゃんの傍にいてあげる!」
「ごめんね……お父さんがいなくなって……一番辛いのはルキなのにね……ごめんね……」
「あたしは大丈夫だよ。いつかこういう事になるかもしれないって、ずっと教えられてきたから。こっそり訓練も受けてたんだよ? あたし凄く強いんだから! お姉ちゃん一人くらいなら守ってあげられる。だからさ、何か困ったことがあったら、何でも相談してね!」
「うん、ありがとう。ありがとうね……」
翌日、アイリーンは少し立ち直り、仕事を探すために町へ出ていた。
しかし、なかなか条件のいい仕事は見つからない。
既に日は沈みかけており、元気なく家に向かって歩く。
(男の人の相手をする仕事なら、私でも簡単に稼げるって聞いたけど……それは嫌だな……)
家の前まで来て、ため息をついてから中に入った。
「おかえり」
「ッ!?」
家の中にいたのは母ライザと、派手な格好をした、見知らぬ太った男の二人。
「母さんね。その人と結婚することになったの。挨拶しときなさい。アンタの新しいお父さんよ」
「えっ!?」
「よろしく、アイリーン。私はライオネルという。仕事は武器商人をやっている。君の事は前から度々見かけていてね。可愛らしい子だなとは思っていたのだが、まさか親子になるとはな! ハッハッハ!」
「いっ……いい加減にしてよっ! お父さんが死んじゃったばっかりなのに……」
涙目で怒鳴るアイリーン。
「あの男はアンタの父親じゃないでしょ? あたしとも関係ないし」
「で、でも……ずっと助けてもらってたじゃない!」
「ふーん……そうか、分かった。アンタあの熊親父とデキてたんでしょ? 通りで誘ってもアタシには手ぇ出さなかったわけだわ」
そう言ってライザは下品に笑った。
「お父さんのこと馬鹿にしないでよォッ!!!」
ライザに掴みかかろうとしたアイリーンをライオネルが止める。
「まぁまぁ、暴力はイカンぞ? アイリーン。今日から私がパパになってやる。前の父親のことなどすぐに忘れるくらい可愛がってやるさ。いい子にしていれば小遣いもやろう」
そう言って、いやらしい目付きでアイリーンの肩を撫でる。
アイリーンはすぐに気が付いた。
この男の目的はライザではなく……
「はっ、離してっ!」
ライオネルを振り払い、アイリーンは家を飛び出した。
泣きながら向かったのは……町外れにある空き家。
ルキと知り合ってからは行かなくなった、アイリーンの最後の居場所。
「うっ……ひぐっ……ううう……」
暗い、独りぼっちの世界で、アイリーンはルクセリアの短剣を抱いて泣く。
深い悲しみと絶望の中で、封印されていた彼女の中の悪意が……再び鼓動を始めた。
次の日、泣き腫らした顔で帰宅したアイリーン。
家にいたのは……ライザ。
「……ルキは?」
余計な会話をするつもりは一切なく、単刀直入に聞いた。
「彼と出かけたわ」
ライザは椅子に座っていて、アイリーンの方を見ずに答える。
彼とはライオネルの事だろうか。
「ッ!? どうして?」
「あんたに関係あるの?」
「いいから答えろッ!」
「……服買いに行ったんだよ」
座ったままアイリーンの方を見て、面倒くさそうにライザは答えた。
「…………どうして?」
「チッ、めんどくさいわね……彼がね、あんたのことは面倒見てもいいけど、あの子は邪魔なんだってさ。元々アタシの子じゃないし、彼の知り合いに引き取ってもらうことになったってわけ。それにしたってあの小汚い恰好じゃ渡せないでしょ? 売り物なんだからさ」
「売り……物……?」
アイリーンの表情が、冷たく沈んでいく。
「奴隷商人やってんだってさ、そいつ。随分高く買い取ってくれるみたいよ? 女のガキはお得意様が喜んでくれるんだって」
「ルキは? なんて言ってるの?」
無表情のままライザに近付き、口だけを動かす。
「あんたにも金が行くんなら別にいいってさ。真面目に取り合うこと無いと思うんだけどねぇ、彼ったら本当にあんたにもいくらか渡すつもりみたいよ?」
黙って服の中に手を入れるアイリーン。
「まぁ、あの子はアタシやあんたと違ってツラが良くないから、大した値段にはならないと思うんだけどねぇ、あはははは――」
けらけらと笑うライザ。
「は……」
ライザの笑い声が止まる。
それはあまりにも自然に、大した事でもないように行われた。
アイリーンはルクセリアの短剣を取り出すと、笑うライザの腹に突き刺していた。
「あっ!? ッは……ああ!」
椅子から転げ落ちて、腹に刺さった短剣を抜こうともがくライザ。
しかしアイリーンは馬乗りになって、短剣を強く押し込む。
「ガハッ! あっあっ……やめ……」
そのまま、ライザの腹を横方向に切り裂く。
そして両手で短剣を逆さに持ち、ライザの顔を目掛けて、思い切り振り下ろした。
「フッ……フフフ……アハハハハハハ!」
アイリーンは短剣を何度も振り下ろす。
ため込んだ悪意を吐き出すように。
沸き上がる憎悪にその身をゆだねて。
何度も何度も、何度も何度も何度も――
「――――ッ! …………気持ち良い……フフフ……」
ライザの体に短剣を突き立てる度に、アイリーンの心と体に強い快感が走る。
返り血を浴び、全身が赤く染まっても彼女は止まらない。
馬乗りになったまま、既に絶命しているライザの体をさらに刻んでいく。
「アハッ! アハハッ! アハハハハハハ――――」
「おねえ……ちゃん……?」
「――ッ!!!?」
後ろから聞こえてきたのは、困惑した女の子の声。
アイリーンは慌てて振り返る。
「……ルキ」
そこに立っていたのはルキと、ライオネルの二人だった。
「ア、ア、アイリーン! お前は……なんという事を! ひっ、人殺しめ!!!」
怯えた様子のライオネル。刻まれたライザを見て、鼻と口に手を当てた。
「……ぁ……ぅぁ……ぅあああああ!!!」
血に染まった短剣を投げ捨てて、アイリーンは逃げ出した。
慌てて衛兵を呼びに行くライオネル。
部屋の中には、ライザの死体とルキだけが残される。
「お母さん……」
切り刻まれた死体を見て、落ちていた短剣を拾うルキ。
父ラルゴが、アイリーンに渡した短剣。
彼女はこれを何よりも大切にしていたはずだ。
「お姉ちゃん…………どうして……」
短剣を見つめて、静かに涙を流すルキ。
いくら泣いて願っても、時間が戻る事はない。
互いを思う、二人の気持ちはすれ違い、この日を境にして、アイリーンとルキの人生は……一変する。