×27 暗く濁った記憶という海の底で ①
ヴィスタリア王国。
魔王を倒した勇者アニタによって建国されたこの国は、代々彼女の子孫によって治められていた。
いずれ必ず復活する、と予言されていた魔王に対抗するため、魔王城が存在するゼルメルシア大陸にその城を構えている。
当初は強国として、世界中にその名を轟かせたヴィスタリアであったが、アニタの死後、平和な時代が百年、二百年と続く内に、次第に人々は魔王復活の予言を忘れ、国力は低下していく。
しかし、アニタの死から約五百年後……魔王は復活した。
魔王は強力な魔族を次々と生み出し、世界中に送り込む。
魔王城に最も近いヴィスタリア王国は、突如魔王軍との戦争状態へ突入した。
物語の発端はここ、戦時下のヴィスタリア王国から始まる――
「ねぇ、なんか臭くない?」
「また来たよ、あのオバケ!」
子供たちが石を投げる。
その対象は、長くて黒い髪を持つ、ぼろぼろの服を着た女の子。
彼女の名はアイリーン。年齢は十歳。
「……ぁ……ぅ……」
やせ細った腕で頭を庇いながら、アイリーンは逃げ出した。
アイリーンが逃げ込んだのは、城下町の外れにある空き家。
自分の家に帰ろうとはしない。母親がいるからだ。
母の名はライザ。若くしてアイリーンを産んだが、兵士であった夫は魔族に殺され、現在はアイリーンと二人暮らし。
孤児であったため、まともに教育を受けていないライザに出来る仕事は少なく、体を売る事で生計を立てていた。
仕事や生活のストレスから、ライザはアイリーンに暴力を振るった。
家に居場所がないアイリーン。
だが外をうろついていると、今度は町の子供たちの目に留まってしまう。
人間の悪意というのは、自分よりも弱い立場の人間に向かうものだ。
貴族から平民へ、男から女へ、大人から子供へ、子供たちですら例外ではない。
戦争が生み出した貧困と悲しみは悪意となって、人から人へと渡る――
虐待を受け、汚い恰好で歩き回るアイリーンは、子供たちからすれば奇異な存在であり、罵声を浴びせる事も、石を投げつける事も、止めようとするものはいなかった。
弱者からより弱者へ。
どんな世界でも、そういった人間の弱さは変わらない。
それは……アイリーンも同じ。
「……ッ!」
空き家に住み着いたネズミを捕まえたアイリーン。
古びたナイフを取り出すと、生きたまま腹を裂く。
「フッ……フフ……」
惨めに息絶えるネズミを見て笑う。
こうしている時だけが、彼女が救われる時間。
唯一の、癒しの時間。
ターゲットはネズミだけではなく、犬や猫などの小動物全て。
彼女よりも弱い存在は全て。
空き家には至る所に小動物の死骸が転がり、白骨化し、酷い臭いを放っている。
この腐臭にまみれた死の世界だけが彼女の、アイリーンの居場所だった。
「あんたなんか生まれてこなけりゃ良かったのよッ!」
これがライザのいつもの台詞。
アイリーンを殴り、蹴り、怒鳴り散らした後で吐き捨てる、最後の言葉。
殴られた理由は、アイリーンが家にあったパンを食べてしまったから。
理由はいつもそんな小さな事。
「ぅ……ぁぁ……」
うめき声をあげながら、アイリーンはよろよろと家を出ていく。
この親子がまともな会話をすることは無い。
虐待と虐めによって、他人に心を閉ざしてしまったアイリーンは、言葉を話すどころか、人と目を合わせることすらしなくなっていた。
出ていくアイリーンをライザは全く気にしていない。
戻ってこなければ面倒が減る。いるならいるでストレス解消の道具くらいにはなる。
二人の親子としての関係は、既に破綻していた。
家を飛び出して、フラフラと町を歩くアイリーン。
探していたのは、今日の獲物。
「…………!」
見つけた。
黒い猫だ。
逃げられないように、そ~っと近付く。
「……?」
不思議な事に、黒猫の方から彼女に近付いて来た。
黒猫はあっさりと捕まった。
首根っこを掴んで持ち上げるアイリーン。
そのまま空き家へと向かって歩き出す。
片手にナイフを忍ばせて、彼女は邪悪に笑う。
「出た! オバケだ!」
「猫を持ってるぞ! あいつ食うつもりじゃないのか?」
「ッ!?」
子供たちに見つかってしまった。
いつもならすぐに逃げるのだが、今日は少し事情が違う。
空き家に続く道を塞がれてしまっている。
どうするべきか考えている間に、子供たちは石を掴む――その時。
「シェリィッ!!!」
幼い女の子の声が響いた。
女の子は駆け足で近付いてくると、石を持っていた子供たちに飛び掛かった。
「シェリィに何すんだおまえらー!」
「うわっ!? な、なんだこいつ!」
相手が複数人でもお構いなしだ。
まるで男の子のように勇ましく、グーで殴り掛かる女の子。
「ぁ……ぇ……?」
気が抜けたようにぺたんと座り込んでしまうアイリーン。
「く、くそ。分かったよ。やめる! やめるから!」
一人が観念して逃げ出すと、それに釣られて他の子も逃げていった。
「ばーか、ばーか! もっかいシェリィを虐めたらこんなもんじゃすまないぞー!」
走り去っていく子供たちに、大声で叫ぶ女の子。
やがて、女の子とアイリーンだけがその場に残る。
女の子はアイリーンの方を向くと、ちょこちょこと嬉しそうに寄ってきた。
目の前まで来ると、少し屈んで、座り込んだアイリーンと目線を合わせた。
そして八重歯を見せて、ニカっと笑う。
「お姉ちゃん! 大丈夫?」
「ぅぅ……あ……」
緊張で上手く言葉が出ない。
目を逸らしたいのだが、それも出来ない。
「あたしはルキ! よろしくね! その猫さ、シェリィっていうんだ! あたしの大切な家族なんだよ!」
隣にいた黒猫を見た。何故かアイリーンから離れようとしない。
「お姉ちゃんはあいつらからシェリィを守ってくれたんだよね? ありがとう!」
そう言って、ルキはポケットからお菓子を取り出して、アイリーンに手渡した。
「…………う……ああ……あああ!」
押し殺していた感情が爆発するかのように、アイリーンの瞳から溢れ出す。
ルキに渡されたお菓子を両手で強く握って、その場で泣きだしてしまった。
「お姉ちゃん!? どうしたの? 大丈夫? どこか痛いの?」
それは……彼女の、暗く、濁りきった記憶の海の底で、温かく光る、宝石のような思い出だった――