3 五日目の朝 その1
荒岩亀之助は、結局、その夜は寝ることはできなかった。
早朝、菱形部屋の若い力士たちが、稽古場に入ると、通常であれば、その時間には、まだ稽古場には入っていないはずの、大関荒岩亀之助が、鉄砲柱に向かって、黙々と鉄砲を繰り返していた。
その背中から沸き上がる、水蒸気のおびただしい量。
いったい、どれだけの時間、鉄砲を繰り返しているのだろう。
力士たちは思った。
深夜、照富士部屋に到着した沙紀と利菜の姉妹。
通枝が用意した照富士部屋の四階の居室で、ようやくふたりきりになったとき、時刻は午前1時半をまわっていた。
ふたりは、それからも眠ることなく、色々な話をした。
沙紀は、利菜に対して、責めるような言葉はいっさい口にしなかった。
利菜の心が明るい方向に向かうような言葉を添え続けた。
ふたりが、床についたのは、3時前だった。
沙紀は、目覚めた。二時間くらいは寝ただろうか。
沙紀は、照富士部屋の階下で、かなりのひとが、蠢いているような気配を感じた。
若い力士たちが、起床したのであろうと、察しがついた。
部屋が動き始めた。
さらに時間が経ち、階下から感じる気配が変わった。
朝稽古が、始まったのだな、と沙紀は、思った。
社会の様々なことに好奇心をもつ沙紀は、相撲部屋の一日の概略についても、既に検索して読み込んでいた。
本場所中は、朝稽古は、調整程度と書いてあったけど、それでも結構早い時間に始まるのね。
見たい。
沙紀は、思った。
隣を見た。
利菜も目を醒ましていた。
「朝稽古が始まったみたいね。私、一階に降りて、朝稽古、見る。利菜はどうする」
「私は・・・」
利菜は小さく頸をふった。
「そうね。今朝、ひと仕事あるんだものね。それまで、もう少し寝ておいたほうがいいわね」
今回の件に関し、午前8時から、照富士部屋の前で、当事者も含め取材に応じます。
深夜の内に、通枝は、マスコミ各社にそう通知した。
そのほうがいい。きちんと話せば、取材もおさまるでしよう。
もっとも、そのあとも、特に利菜に対しては、取材申し込みは続くだろうな、とは思った。
その部屋の前での取材については、沙紀も同席してほしい。と、通枝は、頼んだ。
「いえ、私は直接の関係者ではありませんので、そのような場にしゃしゃり出るのはご遠慮します」
「その取材の際は、利菜さんをしばらく、部屋でお預かりする、ということも言います。そのことで、色々と思うひともいるでしょう。でも、お姉さまもご一緒となれば、世間の受ける印象は、かなり違ってくると思いませんか」
たしかに
「分かりました。では、同席させていただきます。でも、普段着でそういう場に出るのは・・・」
利菜は、滞在に備えて、服も数着持参してきていたが、そういうことは、想定していなかったので、私は、カジュアルな服を一着、持参してきただけだ。
「私が若い頃に着ていたものの中で見繕わせていただけませんか。当時より5キロほど太ってしまったけど(通枝は、2キロ、鯖を読んだ)、当時は、沙紀さん、利菜さんとほとんど同じ背格好でしたから。
この人が、着ていたものなら、趣味のよい服に違いないだろう、楽しみだわ。と、沙紀は思った。
通枝は、
今日の午前中には、この沙紀さんのプロフィールもネットにアップされることになるだろうな、と思った。
そのことを通枝に頼まれたのは、就寝前のこと。
四階の部屋割りについても、就寝前に、通枝から案内されていた。
四階の家族用の浴室。シャワーは、いつでもご自由にお使いください。と言われていた。
その時の言葉に甘えて、まだ時間早すぎて迷惑かなと思いつつ、沙紀は、シャワーを使い、とりあえずは、持参してきた服に着替えた。
さてと、沙紀は、洗面室の鏡に向かった。
私も、メディアデビューね。こんな睡眠不足の状況で、というのは残念。
でも与えられた条件の中で最善を尽くすのが丸山沙紀のモットーだ。
普段よりは、ぱっきりと、濃いめのメイクを終えた沙紀は、洗面室を出た。
通枝が立っていた。
「おはようございます。お起こししてしまいましたね。うるさくして、申し訳ありません」
「そんなことないわ。おはようございます。沙紀さん、もう起きられたの」
通枝は、あらためて、沙紀を見た。
「あら、沙紀さん、昨日とはまた印象が違う。お綺麗だわ」
「取材に同席させていただく、と聞いて、つい張り切ってしまいました。派手過ぎますでしょうか」
沙紀は、通枝には、思った通りのことを話せると思った。昨夜、初めて会ったひとなのに、実の母親より波長が合う。
「そんなことありません。華やかでとても素敵だわ」
「おば様、朝稽古が始まっていますね」
「ええ、番付が下の力士から稽古を始めていくのよ」
「拝見させていただいてもよろしいでしょうか」
通枝の顔が輝いた。
「ええ、それはぜひ。本場所中は、一般の方の見学はお断りしているのですけど、沙紀さんは、部屋の関係者。それも、最も近しい関係者ですもの。見てやってください。
沙紀さんのような美人さんに見られたら、今朝はあの子達、張り切っちゃうでしょうね。あ、でも申し訳ないけど、7時前には、四階に上がってきてくださいな。着替えを用意しておきますからね。
」
取材が始まる一時間ちょっと前から着替え。一体、何を着せてもらえるのだろう。
沙紀は、稽古場に入り、上がり座敷に正座した。
十五名くらいの力士が体を動かしていた。照也と、それから、横綱、照也の兄の伯耆富士はそこにはいなかった。
朝の挨拶をしたほうがいいのだろうか、だが、声を掛けられるような雰囲気ではなかった。
ひとりの力士が、沙紀を認め、
「おはようございます」
と声をかけてきた。
「おはようございます」
沙紀も挨拶を返した。
稽古場にいた力士が全員、沙紀の方を見た。
「おはようございます」
「おはようございます」
「おはようございます」
全員が口々に沙紀に向かって挨拶する。
沙紀は、口許に少し微笑みを浮かべながら、そのいちいちに
頷き返した。
力士たちの稽古が再開された。
沙紀は、黙って、その稽古を見続けた。
力士たちが、ちらっ、ちらっと、沙紀のほうに視線を送ってくる。
昨夜のことは、この人たちはもうみんな知っているのだろう。
利菜が今、この建物の中にいることは、分かっているはずだ。
私を見て、昨夜の映像とはずいぶん印象が違うので、戸惑っているのだろうな。
しばらくしたら、就寝前、挨拶は交わしていた、照富士親方が稽古場に下りてきた。
夜、照富士部屋に到着したとき、親方と横綱はまだ起きて一行の帰りを待っていたのだ。
「おはようございます」
沙紀が、照富士親方に挨拶した。
「おお、沙紀さん。早いですな。通枝に、沙紀さんが稽古場に行かれたと聞いて、下りてきました」
力士が、さきほどの沙紀に対してと同じように、親方に朝の挨拶をした。
親方は、そこが、定位置なのであろう、上がり座敷の真ん中に置かれた座布団に座り、弟子たちの稽古を見つめた。声をかけることはほとんどしなかった。
部屋の外の気配から報道陣が集まりだしているのを感じた。まだ、6時半だが、少しでもよい場所を確保ということなのであろう。
午前8時から取材に応じるとの通枝からのマスコミ各社への通知は深夜だったわけだが、多くの社が、元々その朝の照富士部屋への直接取材のため、人員を割り当てていた。
6時40分、玄関先に車が停まる音がして、しばらくして、外がざわめいた。
ざわめきの原因となっているらしい人物の、玄関を開ける音がして、右手を体の前で固定した若者が稽古場に入ってきた。
近江富士明。
「おはようございます」
名前通りの明るい声が稽古場に響き渡った。
「おお、明。来たか。」
「ええ、おかみさんからメールがありました。お前も部屋に来いと。病棟で慌てて外出許可をもらって、タクシーに飛び乗りましたよ」
「まあ、入院中といっても、右肩を怪我しているだけで、別に病気になっているわけではないものな」
稽古場の力士たちが挨拶する中、近江富士は沙紀の姿を認め、横に座った。
「初めまして、照也の兄の明です。利菜さん、色々、大変でしたね」
「初めまして。利菜の姉の沙紀です。よろしくお願いいたします」
「お姉さんでしたか。テレビで拝見したときの印象と違ったので、あれっとは思ったのですが、でもよく似ていらっしゃいますね」
明は、親方の方を見て
「では、三階に上がって準備します」
「うん、よろしく頼む」
そろそろ時間だわ。
明に続いて、沙紀も四階にあがった。
利菜も既に起きていた。
用意されていたのは、着物だった。
7時45分、今朝、取材の場に立つ全員が一階の稽古場に降りた。
そこにいた部屋の力士、マネージャー、床山。部屋のメンバー全員を集め、照富士親方が今回の件を説明し、利菜と沙紀を紹介した。
7時55分、照富士部屋の玄関の扉が開いた。
照富士親方が出てきた。続いて、横綱、伯耆富士。小結、近江富士。照富士親方夫人。それまでもシャッター音は続いていたが、次に若い女性が出てきたときは、シャッター音は、さらに激しくなった。
だが、その女性は、沙紀だった。
最後に利菜と豊後富士が並んで出てきた。
一瞬、戸惑ったような空気がその場に流れたが、そちらの女性が利菜であったことは、すぐに分かったので、さらに大きなシャッター音が流れた。
テレビカメラも数台並んでいた。
照富士親方が、玄関から出てきたときから、どよめきの声は流れていたが、七人が並び、どよめきの声は賛嘆とでもいうような声に変わった。
男性四人は、紋付羽織と袴。女性三人は、正装の着物姿。
七人が玄関先に並んだ。
向かって左から、
照富士親方。
横綱、伯耆富士洋。
小結、近江富士明。
小結、豊後富士照也。
丸山利菜。
丸山沙紀。
照富士親方夫人、通枝。
早速、質問をと身構えていたインタビュアーも息を飲んだ。
これは凄い。
全員、美男美女の凛とした正装。
近江富士は、右手は固定されているので、羽織の右側は、肩脱ぎになっていたが、わざとそうしているかのような粋な姿だった。
この七人が立ち並ぶ姿は、実に絵になる。
照也がインタビュアーに、
「マイク貸してください」
と声をかけた。
照也がマイクを持った。
「豊後富士です。皆さん、朝早くからお集まりいただきありがとうございます。
先ず、今回の件につき、私の浅慮により、皆様をお騒がせしましたことをお詫びいたします。
そして、利菜さんと私に対し、温かいご配慮をいただいた、大関、荒岩関に深く感謝申し上げます」
照也と、利菜が深々とお辞儀をした。
照也が再び口を開いた。
「昨夜、大関が、菱形部屋に向かわれたあと、利菜さん、私の母でもありますおかみさんと三人で、利菜さんのお宅にうかがいました」
驚きの声があがった。そんなことがあったのか。
照富士部屋にもひとを残しておくのだった。
スクープを逃した。その場にいた多くの者がそう思った。
「利菜さんのご両親、そして、今、利菜さんの横におられる、お姉様の沙紀さんにお会いいただき、利菜さんと私の、結婚を前提とした交際をお許しいただきましたことを、皆様にご報告いたします」
「おめでとうございます」
女性記者の興奮した声が、利菜と照也にかけられた。
それから、質疑応答に移った。
その応答の中で、
今回の経緯は、昨夜、荒岩関が説明したとおりであること。
利菜がしばらく学校を休み、照富士部屋の四階で預かること。
そして、今、この場に、利菜の姉の沙紀が同席している理由なども告げられた。
答えているのは、主に通枝だった。
その中で、昨夜の丸山家での様子の質問を受けた際は、
あれだけ大きな騒ぎになっておりましたのに、利菜さんのご両親、沙紀様もですけど、実に落ち着いたご様子でご対応いただきました。
お父様につきましては、さすが、大きなグループ企業を統率なさっている方と感服いたしました。
このひとは、凄い。沙紀は、あらためて思った。
一歩間違えたら、大きなスキャンダルにもなりかねないことを、先ず、荒岩関が救ってくれた。
そして、通枝おば様は、それをさらに、誰もが好感を持って祝福するであろうストーリーに仕上げた。
この正装姿、やりすぎではないか、とも思ったが、これで、利菜を、この家の正式な家族として迎え入れ、さらに、照富士家は、家族全員で、利菜のことを守る、ということもしっかりと印象づけた。
おまけに、父の企業のことまで取り上げ、そのトップが、器量の大きい、信頼できる人物であるということまで、アピールして下さった。企業名をはっきり言わなかったことも品がいいわ。
利菜が滞在している間、私もちょくちょく遊びに来て、時々は泊まるではなく、学校が始まっても、ずっと、部屋にいさせていただこうかしら。
沙紀は、まだ決まった相手はいない。だが、男友達はたくさんいる。
なかなかに魅力的と思う男の子もいる。
だが・・・
洋さんに、明さんか。
今、沙紀の周りにいる男友達たちと同年輩。
でも、この若さで、これほどの風格をその身に備えた男はいない。
これからどんな毎日が始まるのだろう。
沙紀の胸は躍った。




