第10話 歩、推理する(後編)
「――彼は歩けたんだ。そのことを隠すために、僕の気配を感じた彼は慌てて匍匐前進の姿勢をとったんだ」
「なんだって!?」
桂は信じられないというように声をあげる。
「だって、お前もインターネットで木村さんの会見のニュースを読んだろ。左足首を骨折して歩行は困難って、彼は言っていたぜ。お前の言うことが正しければ、インターネットの情報が嘘になるぞ」
「そうなんだ、桂。記者会見で彼が報告した足の状態と、彼が実際抱えていた足の状態は異なっていたんだ。だからこそ、彼は僕らに自分が歩ける姿を見せるわけにはいかなかった」
「お前の言うように、実際は歩けるんだったら、記者会見で田中さんが報告した怪我が当然実状と異なることになる。つまり、彼は自分の怪我に関して、虚偽の申告をしていたってことか」
「その通り、彼は嘘を付いたんだ。左足首を骨折したと記者会見を開き、周囲に自分の怪我をアピールした」
「どうして彼はそんなことをしたんだ?」
「タイトルマッチを延期するためさ。彼は王者の座を狙う挑戦者と近々試合を行わなければならなかった。
彼がタイトルマッチを延期しようと思った理由はわからない。
強力な挑戦者に怯え、少しでもチャンピオンで在り続けるために延期したのかもしれない。
もしくは、調整が間に合わなかったので、仕方なく延期しなければならなかったのかもしれない。
しかし、タイトルマッチを延期するにはそれ相応の理由がいる。彼個人のわがままで延期できる類の試合ではない」
「だから、彼は左足首を骨折したと嘘を付いた。怪我なら周囲の同情を買うことができるし、タイトルマッチの関係者も納得せざるを得ない。彼は自らのイメージを下げずして、差し迫るタイトルマッチを延期することに成功したわけか」
「そういうことだね。彼は本当は怪我をしておらず、実は歩けたんだけど、そのことを隠すために、彼は歩けないふりをして生活をし続けなければならなかった」
ようやく全体像を掴んだ桂が一週間前に彼の身に起きた出来事をまとめる。
「つまり、一週間前の真実はこういうことか。あの晩、木村さんも歩と同じように自動販売機に缶コーヒーを買いにいった。彼は坂の脇道にある路地には住んでいなかったが、坂の近所には住んでいた。
深夜二時だから誰にも見られないと油断し、彼は警戒を怠った。
外出にはギプスや松葉杖が必要だと記者会見で言っておきながら、その夜は歩いて缶コーヒーを買いに行ったんだ。
缶コーヒーを購入した彼は帰りに坂道を通っている途中、缶コーヒーを落とした。やれやれと思いながら、歩いて缶コーヒーを追いかけ、脇道に入り、行き止まりで缶コーヒーを拾った彼は道を引き返して歩き始めた。
しかし、上から缶コーヒーが転がってきて、誰かが下りてくる気配がするではないか。
このまま歩いて通り過ぎて、万が一顔を見られて覚えられた場合、後に彼にとって不都合な事が起きる可能性がある。
もし木村さんの記者会見を目撃者が見ていた場合、あれ、木村さん、歩けないと言っていなかったっけ? もしかしてあの記者会見は嘘だったのかと疑うだろう。
記者会見の嘘が露見すれば、彼の選手生命は終わってしまう。世間からはバッシングを受け、チャンピオンの座を剥奪される可能性すらあるだろう。
そこで、彼は急遽うつ伏せになり、ほふく前進で脇道を降りてくる人、つまり歩をやり過ごそうとしたんだ。かなり不審ではあるが、こうすれば万が一顔を覚えられても問題ない。
彼は窮地を乗り切る策を思いつきとっさに思いつき、実行した。
しかし、彼の最大の不運は――彼少年が好奇心から新手のタクシーと思い込み乗ってきた挙句、あとを付け回してきた……こんなところか」
「うん、問題ないと思うよ……」
彼の起死回生の一手を、知らぬとはいえ、興味本位で潰してしまった僕は申し訳なさそうに同意する。
「彼が身分証明書だけでなく、財布すら持っていなかったのは、缶コーヒー代に多少の小銭だけをポケットに入れて外出したからだろうね。だから彼はタクシー代の千円すら持っていなかった。千円しか僕たちから受け取らなかったことは彼があの近くに住んでいることの裏付けになる。タクシーに乗って千円でいける範囲のところに彼は住んでいたんだ」
全ての謎は解け、もはや語ることはなかった。
「うーむ、彼は骨折したと世間に嘘を付いていたわけか。この後どうする? WBAやマスコミに連絡するか?」
「まさか……、告げ口みたいなことをするのは性に合わない。嘘を付いていたとはいえ、彼がバッシングされる光景を見るのは忍びないよ」
「そうだな、世間に広めても俺達になんの得もないしな」
木村さんの嘘を二人の胸のうちにしまうことに桂も同意してくれた。
「僕は自分の疑問が解決しただけで満足だよ。それより、自分達の好奇心を満たすためとはいえ、木村さんには散々迷惑を掛けたんだ。クリーニング代も千円じゃ足りなかっただろう。ここは一つ、彼が所属するジムへ行って、先日はどうもすみませんでしたと頭を下げにいこうか」
「賛成だ。じゃあ、来週の日曜日、木村さんの所属するジムへ行こうぜ。彼に会えるかもしれない」
「オッケー」
こうして、深夜のほふく前進男事件の謎は人知れず解決した。
翌週の日曜日、僕らは木村選手が所属するボクシングジムへ行き、彼と会うことが出きた。僕と桂はニ週間前に彼に迷惑を掛けたことを謝罪した後、サインと記念撮影をねだりと、彼は了承してくれた。
三人で撮影した写真、僕と桂は満面の笑みを浮かべていたが、木村さんは顔を引きつらせていた。
「深夜の行進」は本エピソードで終了です。
ご愛読ありがとうございました!
明日はあとがきと今後の更新予定を夜10時に更新します。
今後とも、よろしくお願いします。




