第6話 歩、男をひっくり返そうとする
「あのですね、この先の道は分岐していまして、右の道を通っても、多少迂回することになりますが、品川駅までたどり着けるんですよ。このまま直進してもいいんですが、それじゃあ旅としてはおもしろくない。こうして三人が出会えた奇跡を僕はもっと楽しみたい。この時間が少しでも長く続けばいいと思う。そんなわけで少し遠回りしましょう」
僕は白々しい理屈を並べて、迂回路を提案した。楽しい時間を伸ばしたいなんて、当然嘘だ。僕がこう提案にしたのには理由がある。
男は僕の意図は掴めなかっただろうが、嫌な予感がしたのか、顔を僕らの方に向け、
「断る。私はこのまま直進する。迂回したければ、君達が勝手に行けばいい」
と、僕の提案を強い口調で拒否する。
「断ればガスバーナーで焼きます」
「怖いなこの子!」
田中さんは顔を青ざめながらも、僕の提案に同意してくれた。
「俺にはお前が人の弱みに付け込んで脅迫する、極悪非道の悪人に見えるんだが……」
「僕もそう思うよ……。でも、田中さんがどうしても僕達にお腹を見せたくない理由、もしくは二本の足で立ち上がらない理由、それらがどうしても気になるんだ」
「確かに、こんな頑なにされたら、よっぽどの秘密を抱えているように思えるな……」
僕らはひそひそと話しながら田中さんの後ろに付いて歩いた。
そして、提案通り、僕らは分岐路を右へ曲がり、迂回路に突入した。
迂回路をしばらく進むとトンネルが見えた。このトンネルの先は品川駅に通じている。品川駅に向かうならば、トンネルを通らなければならない。このトンネルの存在こそが、僕が迂回路を提案した理由だった。
田中さんがほふく前進している理由、それは誰かに強要されているからではないか、僕はそう考えていた。何者かにほふく前進で品川駅まで向かうように命じられ、さらに彼は道中監視されている。だから、迂闊に立ち上がるわけにはいかなかったのではないか。多少現実離れした考えあるが、現在の特異な状況を考えれば、可能性としてはあり得る。
トンネルの中に入れば、そうした監視者の眼を欺ける。トンネルの中で、僕は男に立ち上がるように促すつもりだった。
僕ら三人はトンネルの中に突入し、真ん中ぐらいまで進んだところで、僕はトンネルの出口に誰も居ないことを確認して田中さんに声を掛けた。
「もしかして、誰かにほふく前進をするように脅迫されているのではありませんか。見張られているから、今まで立ち上がることはできなかった。このトンネルなら誰も見ていませんし、立ち上がっても大丈夫ですよ」
僕は相談に乗るように、優しく声を掛けたつもりだったが、男は返事をしなかった。
ええい、じれったい。業を煮やした僕は、
「こうなったら強引に立たせよう! 桂、頭の方に回ろう。二人で強引に頭を持ち上げて、立たせるんだ!」
僕は桂にそう言い、僕ら二人は男の頭の方に回りこみ、持ち上げようと肩を掴んだが、「何をする! やめろ!」と、田中さん捕獲されそうになった蛇のようにのた打ち回り、僕らの手を強引に振りほどいた。
「何を考えているんだ、君達は!」
自業自得ではあるが、田中さんに怒声を浴びせられ、僕らは尻込みして、強攻策を諦めた。
しかし、収穫はあった。これで、僕と桂以外、誰も見ていない状況でも何が何でも田中さんは立ち上がらないつもりだということが確認出来た。つまり、誰かに脅されているわけではない。自発的な意思にもとづき、ほふく前進をしているようだ。
トンネルを抜けるといよいよ品川駅までは目前となった。もうそろそろ男と別れなければならない。深夜に成人男性が匍匐前進をする理由を何とか解き明かしたかったが、タイムリミットはすぐそこまで迫っていた。
トレーニングではない、誰かに強制されたわけではない、あくまでも自発的に匍匐前進をしている。その理由はいったいなんだろうか……。僕は少し思案し、ある考えが浮かんだ。
田中さんが匍匐前進をする理由、それはもしかして腹を見せたくないからではないだろうか。
彼の腹には絶対に他人に見られるわけにはいかない、何かが付着している。それを隠すために田中さんは無理にでも匍匐前進を続けている。
そう考えれば、これまでの不審な行動にも説明が付く。田中さんの腹部に付いているものとは何か。
決して誰にも見られたくない、腹部の何か……。それは返り血ではないだろうか。僕は二年前に携わった傷害事件、通称ツチノコ事件を思い出した。ツチノコ事件については、また次のエピソードで語ることになるが、ツチノコ事件では返り血が問題になったため、僕はすぐに返り血の可能性に思い至った。
田中さんは僕と出会う前に、誰かを刃物で刺し、服の前面に返り血を浴びたのだ。急いで逃げているところ、僕と遭遇し、急遽伏せることになった。
しかし、そうだとすると、僕と田中さんが出会った、袋小路付近で男は傷害、もしくは殺人を犯したことになる。
確かにあの辺りは住宅があることにはあるが、どれも叫び声一つない、閑静な様子だった。
とても血なまぐさい事件が発生した気配は感じられない。
田中さんの腹部には返り血が付いているという自らの推理に疑問を覚えながらも、取り敢えず僕は田中さんをひっくり返して確認することにした。
田中さんの腹を見れば、僕の推理が正しいかどうかわかる。さて、どうやってひっくり返そうか……。
もうゴールは間近に迫っており、その方策を考えている時間はなかった。
僕は最後の我儘として、田中さんに素直に頼むことにした。
断られたら、ガスバーナーを持ちだして、無理にでも言うことを聞いてもらおう。もし殺傷事件の犯人だったらここで見逃すわけにはいかない。
「先程、桂がこぼしたコーヒーで服が汚れてしまったようなので、クリーニング代として、幾らか弁償します。付きましては、服の状態を確認したいので、ひっくり返って腹を見せてもらうわけにはいきませんか?」
お前がこぼせと言ったんだろう……、という桂の心の中でのつっこみが聞こえた気がする。ただ、桂はなにか言いたげに僕の目を見た後、田中さんに視線を移し、事の成り行きを静観している。僕の丁寧な口調の提案を聞き、田中さんは足を止め、少しためらってから、うつ伏せだった状態から体を反転させる。寝返りを打つように、一八〇度転がった。
予想外に自分の提案を素直に聞き入れた田中さんの行動に驚きながらも、僕は男の服を観察した。
男は柄の入ったTシャツにジーパンとラフな服装をしている。そこは取り立てて変なところではない。
肝心の服装の染みの部分であるが、先程缶コーヒーの溜りを横切ったため、胸から股間に掛けて、コーヒーが筋のように染み付いている。
しかし、僕の推理とは異なり、返り血は付いていなかった。
服の染みはコーヒーによる茶色の染みだけであり、赤黒い血痕など、他の汚れは少しも確認することは出来なかった。
「もういいか?」
「あっ、はい。どうもありがとうございます。染みひとつない綺麗な服ですね」
「君の眼は節穴か!」
クリーニング代をごまかそうとしたが、ダメだったか。仰向けになった男はそのままの姿勢で歩の確認を窺うと、再びうつ伏せに戻った。
「歩、クリーニング代」
茫然自失とする僕に、桂がクリーニング代のことを思い出させる。
「ああ、そうでした。クリーニング代を――」
「クリーニング代は別にいい。その代わり、もう変な要求はするな。これきりだ」
どうやら、田中さんはクリーニング代を受け取るためではなく、僕が自分の腹を見たがっていることに気付き、納得させるために見せたようだ。強引にひっくり返されるよりは自分から見せたほうがましだと思ったのだろう。
本小説は毎日22時に更新する予定です。
少しでも気に入って頂けたら感想・レビュー頂けますと嬉しいです。
皆様のお声が励みになります! よろしくお願いします!




