第4話 桂、缶コーヒーをこぼす
「歩、この人の名前なんだっけ……?」
桂は早速、地面を這う自称田中さんの名前を忘れてしまったので、僕は改めて伝えた。
「田中・D・祐介さんだよ」
「やるな……Dの一族か……」
桂は関心したように田中さんを眺める。
ごめん、桂。Dは僕が勝手に付け加えた。その人はDの一族ではない。そんなワンピースの重要登場人物ではなく、田中さんといういかにもな偽名を名乗った怪しい人だ。
桂は男の様子を観察しているようだ。桂の目から見ても、男の行動は奇妙だろう。男が這っているのは歩道とはいえ、衛生的に清潔ではなく、さらに石やくぼみが多数あるため、決して完全に平坦な道ではない。にもかかわらず、男は懸命に這いながら品川駅を目指している。そんな男の行動に何の意味があるのだろうか。
桂が男を観察している間、退屈そうに待っていた僕は桂に雑談をふる。
「ねえねえ、桂。先週も夜遅くにくだらないことで電話してゴメンね。確かあの時、女の人のところに泊まってたんだよね」
「ああ」
桂は観察に集中しているため、気のない返事をする。
「僕が電話したのって、夜の11時頃だったけど、ほら、何かいろいろやっていたの?」
僕は歳相応のすけべ心を持って、恥ずかしがりながら桂に訊いた。僕の発言を聞いた桂は、
「なんだ、歩。お前もやっぱ男だな。いつもは興味ないふりしやがって。このむっつりめ」
「いやあ……。それで、どんなプレイをしていたの?」
僕が下心を隠さず素直に桂に訊くと、桂は僕の方を向き、にやにやしながら応えた。
「ああ……。先週ののプレイは過激だったぜ。まず、ろうそくを用意してだな」
「まさかのSMプレイ……」
どきどきしながら桂の話に聞き入る。
「電気を消してろうそくに火を付けてだな」
「あぁ……なんて破廉恥な……」
続きは、続きはいったいどうなるんだ。
「それをケーキに刺してだな……」
「背徳的な響きまで……」
「誕生日を祝ってやったぜ」
「あらステキ!」
なんだ、誕生日を祝っただけか。興奮して損した。僕らの会話を聞いて、田中さんは地面を這いながら、アホな高校生だなと思っているのだろうか。彼の顔が見えないので、どんな表情を浮かべているか、わからない。
「桂、そろそろ、第一作戦といこうか」
「了解した」
雑談も一段落し、僕は桂に合図を送った。合図を受けた桂は田中さんの進路を先行し、リュックサックから缶コーヒーを取り出しプルタブを開けた。
田中さんが何故深夜に地面をほふく前進しているのか。検証実験の第一弾だ。
「うわっ、手が滑った! それもかなりダイナミックに!」
桂は不自然なほど大げさに声を上げながら、缶コーヒーを地面に落とした。缶コーヒーの中身はぶちまけられ、歩道の端から端までコーヒーが沼のように広がった。
田中さんがこのまま進むためには、進路の先にある缶コーヒーの沼を通り抜けなければならない。無論、匍匐前進の姿勢で通れば、コーヒーにその身を浸すことになる。僕と桂はこういう時、田中さんがどう行動するのか、検証するつもりだった。
「うわー、桂、缶コーヒーこぼしちゃったね。これは仕方がないですね、田中さん。ここはトレーニングを一時中断して、立ち上がって缶コーヒーの溜りを飛び越えましょうよ」
僕の提案に対して、田中さんは返事に困ったのか、口を開かなかった。そして、憎々しげに僕らを睨んだのち、何事もなかったかのように、ほふく前進で進み始めた。
「えっ! その状態で進むの!?」
「こいつはとんだクレイジーガイだぜ……」
僕らのつっこみを無視して、男は平然と缶コーヒーの沼に突っ込んでいった。背中越しで確認することは出来ないが、男の腹の方は缶コーヒーでびちゃびちゃになっているはずだ。缶コーヒーから流れでた液体は男が通ったせいで、引きずられた跡のような形を為していた。
「なんてこった、これじゃあ俺達がいじめっこみたいじゃねえか……」
「まあ、見る人が見たらそう見えるだろうね……。それにしても、そこまでして立ち上がりたくないのだろうか」
「ここまで来ると執念深さのようなものを感じるな。これで、トレーニングでほふく前進をしているという線は完全に消去されたか」
「いまさらだけど、とてつもなく申し訳なくなってきたよ……。僕らは見知らぬ人間の服を缶コーヒーで汚して、いったい何をしているんだろうね」
僕らは後ろめたさを抱えながらも、男の後を追った。
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