第8話 密室ダイビング
「まあまあ、そう結論を焦らずに。取り敢えず、田中さんが犯人という前提で、事件のトリックを説明するね。まず、推理しやすいように、今回の事件の経緯を時系列順にまとめてみようか。桂、何か書くものを持ってる?」
そう言われ、俺は今朝と同様、スーツの内ポケットからノートを取り出した。今回はきちんとペンも持ってきている。仕事上、常にメモ用のノートは持ち歩くようにしている。
歩にノートとペンを手渡すと、歩は時系列順に事件に関係する出来事を書き始めた。
「ええと、今回の事件はだいたいこんな流れかな」
午前二時 橋本が居酒屋を出発
午前二時四〇分 橋本がタクシーで自宅に到着
午前二時五十五分 橋本が転落・死亡。田中が橋本の死体を発見
午前三時 田中が鈴木の部屋に行き、二人で死体を確認し、警察に通報
午前三時五分 交番から巡査が橋本宅に到着、死体を発見。足跡を確認
「ええと、合ってるかな?」
「問題ないぜ」
「これで、時系列順に今回の事件は整理できたね。桂の言う通り、田中さんは橋本さんの死亡時、隣のマンションの自室にいたことは間違いないと思う」
「だったらどうやって彼女は橋本を殺したんだ? 彼女のマンションが隣とはいえ、橋本の家に行って突き落とすには、瞬間移動でもしないと無理だぜ」
俺は、田中が犯人だと言う歩の言葉に対して反論する。といっても、そもそも俺が、田中が痴情のもつれで橋本を殺したのではないかと、最初の言い出したのだが……。今や完全に聞き役に回っている。これこそ、ワトソンの役目だ。
「この事件は雪で覆われた密室で起こった殺人事件だ。この点、橋本の死体を最初に発見した巡査の言い分は当たっていたんだ。羽田さんには一蹴されてたけどね」
「後で羽田さんに謝らせないとな……」
「それゆえに、密室トリックの謎さえ解ければ全てが解決する。田中さんのアリバイも密室トリックの謎と関連している」
「その密室トリックがもう解けたのか?」
「だいたいだけどね。細かい部分は警察が調べないとわからないと思うけど、どういうトリックが使われたのかは解明できたと思う」
歩は小学生の問題集を解くように、俺が手をこまねいていた謎を簡単に解明できたという。
「それに、この密室トリックは誰でも思いつくような簡単なトリックだ。だけど、桂はある先入観に囚われているから、答えに辿り着くことができなくなっている」
「おいおい、俺が先入観に囚われているだって? 数々の女と浮名を流してきたこの俺が?」
「それは関係ないでしょ……。とにかく、殺人事件だと考えて、本格的に捜査を開始すれば、早いうちに解決すると思うけど」
「いやいや歩。今日謎を解くことが大事なんだよ」
「どういうこと?」
「実はさ……」
俺は、いかにも何かわけありな顔をしながら、神妙な口調で語る。
「最近、部下の当たりがきつくなってきてな……。今日も部下の羽田さんに不真面目だ、期待はずれだ、歌が下手だと散々愚痴を言われたんだ」
「最後に変なのが混じってるけど……」
「ここらで、電光石火の如く、鮮やかに事件を解決し、羽田に俺の凄さを実感させ、尊敬させることで、これからも怠惰な警察ライフを送りたいんだ……」
「なんて不純な動機……」
これには長い付き合いの歩も呆れているようだ。俺は言いたいことを言い切ったと満足そうな笑みを浮かべている。
「だから、歩。俺の平穏で怠惰な人生のために、今回の事件に使われた密室トリックを教えてくれ」
俺はまるで重要な物事を語る時のように、真摯な口調で歩に事件の助言を頼む。
「重い口調の割に内容が軽いね……。まあ、別にいいけど――」
動機は不純だが、長年の友人の頼みを断わるほど、歩は意地悪ではない。
「さっすが、歩だぜ。天下無敵の名探偵と呼ばれただけのことはあるな! ここの会計は俺が払うから、協力よろしくぅ!」
俺は今まで真剣な顔で話していた時とは一変し、満面の笑みを浮かべて、歩に礼を言った。
「わかった。それじゃあ僕の推理を話すね。まず、桂が囚われていた先入観から話をしようか」
そして、歩は事件の謎を解き明かす。
「もしかして橋本は自殺だったと言いたいのか? それなら橋本以外の足跡がないことも説明がつくが……」
今まで殺人事件だという前提で話していたので、自殺なんてあり得ないと思うが、先入観と言われば、これくらいしか頭に浮かばない。
「その可能性もないとは言い切れない。でも、橋本さんには自殺する動機はあったの?」
「いや、そう言われれば、ないんだが……。奥さんと子供と別居中とはいえ、それで橋本が自殺する理由にはならんだろ」
「そうだね。だから自殺の可能性は低い」
「おいおい、じゃあ俺が囚われている先入観って何なんだ?」
「簡単な話さ。密室の謎を考えるときに、桂は『犯人はどうやって被害者の自宅に侵入したのだろうか』を前提に考えている」
「それがどうした?」
「視点を変えてみるんだ、桂。『犯人はどうやって被害者の自宅に侵入したのだろうか』から『被害者はどうやって自宅に入り込んだのだろうか』に」
「どういうことだ? 橋本の足跡が発見されたんだから、橋本は普通に歩いて自宅へ帰ったんだろう。愛人の田中の部屋から帰ったときに足跡が付いたんじゃないのか?」
「そこが問題なんだ。橋本さんの足跡って、正確には、橋本さんの靴の靴裏の跡のことだよね。それって、本当に橋本さんが履いていた靴だったのかな?」
「同じ種類の別の靴だって言いたいのか。橋本の履いていたのは革靴で、靴裏にはあまり特徴はなかったが、形は一致したぜ」
「違うよ、桂。僕が言いたいのは、橋本さんの靴を本当は橋本さんが履いていなかったってことさ」
「つまり、別の誰か――犯人が橋本の靴を履いていたってことか?」
「そういうこと」
そうか……、と俺は呟いたが次の問題点に気付く。
「待てよ。わけがわからなくなってきたぜ。歩の言う通り、犯人は橋本の靴を履いて、橋本の自宅まで行ったとしよう。その場合、犯人は橋本を背負っていたことになる。何せ、足跡が一つしかないんだからな。しかし、橋本を二階のベランダから突き落とした後、どうやって犯人は足跡を付けずに立ち去ったんだ? 橋本の家のベランダから向かいのマンションのベランダに飛び移るには、四メートルという距離は長過ぎる」
「勿論、犯人は飛んで去ったわけじゃないよ。それに、成人男性である橋本さんを背負うのは普通の女性じゃ無理だから、犯人と目される田中さんが橋本さんを彼の自宅まで運ぶのは不可能だ。――犯人がどうやって被害者の自宅を立ち去ったのか、そのことを検討する前に、被害者がどこから落とされたのかを話す必要がある。桂、橋本さんは自宅の二階のベランダから転落した、警察の見解はそうだよね?」
「ああ、橋本の家のベランダ下の中庭で死体が発見されたし、死体を引きずった形跡もなかった。そこから落ちたと思うのが自然だろ」
「でも思い出してほしいんだ。橋本さんのベランダの前に何が見えた?」
「何ってマンションだが……。――あっ! まさか……」
「気付いたようだね。そう、橋本さんは自宅のベランダから突き落とされたんじゃない。自宅のベランダの正面にある、マンションのベランダから放り投げられたんだ」
「そうか。橋本の自宅前の路地に足跡があったことから、てっきり橋本は自宅に一回帰ったと思っていたが、実際、橋本はその日、自宅に帰らなかった……」
「そういうことだね。橋本さんが自宅に帰る前に、隣のマンションのある部屋に寄ったのは、さっき話した通り。解剖がされていないので、睡眠薬を盛られたか、酒に酔って自然に寝たかはわからない。とにかく橋本さんは訪れた先の部屋で意識を失った。そして橋本さんは、その部屋のベランダから自宅のベランダに向かって放り投げられたんだ。ちょうど橋本さんの自宅のベランダから突き落とされたように見えるような形で」
歩の説明を受けて、ようやく合点がいった。今回の事件で自分はあまりにも視野が狭かったと反省する。
橋本の靴跡が発見されたから、橋本は歩いて自宅に帰った、そして何者かが橋本の自宅に足跡を付けずに何らかの方法で侵入し、橋本を二階のベランダから突き落とし、帰りも足跡を付けずに去っていった、と思っていたが、真相は全然違っていた。
橋本の自宅の二階のベランダから正面のマンションのベランダを見たにもかかわらず、マンションの方のベランダから放り投げられたということに気付かなかったとは、自分はまだまだ成長が足りないなと思うと同時に、目の前であっさりそのことに気付いた歩には感服せざるを得ない。
つくづく歩と友達で良かったと、俺は思った。
「となると、付近の住民が、橋本が落ちる音を聞いてからすぐに巡査が駆けつけたんだから、橋本の靴跡は犯人が橋本を殺す前に付けたのか」
「そういうことだね。昨日、犯人は何らかの用件で橋本さんをマンションの一室に呼び出したんだ。そこで、例えば飲食物に睡眠薬を仕込み、橋本さんを眠らせる。その後、橋本さんの靴を履き、車の轍により足跡が目立たない、舗装された北側の道路から、橋本さんの自宅まで歩き、舗装されていない路地に足跡を残したんだ」
「それにしても、橋本の自宅に行った犯人は、どうやってそこから消えたんだ」
「隣のマンションに自分の部屋がある以上、方法はいくらでもあるさ。マンションの自分の部屋のベランダから橋本さんのベランダにロープを張ってそれをつたって戻り、自分の部屋のベランダに到達した時点でロープを回収すれば、帰りの足跡を残さずに橋本さんの家を立ち去ることができる」
「なるほど。他にもあるのか?」
「例えば、後ろ向きに歩き、行きにつけた足跡をなぞりながら立ち去るという方法もあるよ。いわゆる、バックステップだね。橋本さんの死体が靴を履いていたことから、おそらくはバックステップで犯人は橋本さんの自宅を立ち去ったんだと思う。さすがにロープを使って戻るのはマンションの他の住人に見つかる可能性が高いし、何より落ちたら危険だからね。犯人が橋本さんの家からマンションの部屋に戻るときに、どうしても橋本さんの靴が必要だったんだ。――まあ、バックステップは、推理小説では面白みがないとか、禁じ手とか言われているってどこかの本で読んだけど、橋本さんの靴は革靴で当日は雪も降っていて地面を直接踏まないことで足跡がぼやけていたから、今回の事件では有効だったと思うよ」
「ふむ、自分の部屋が密接しているとなれば、いくらでも消える方法はあるな」
「そういうこと。これで密室の謎は解明されたね。ここで、昨日の被害者と犯人の行動を振り返ってみようか。犯人は睡眠薬で被害者を眠らせたということ、及びバックステップで犯人が被害者の自宅を立ち去ったという前提でね」
本小説は毎日22時に更新する予定です。
少しでも気に入って頂けたら感想・レビュー頂けますと嬉しいです。
皆様のお声が励みになります! よろしくお願いします!




